276 約束(6)
「――砂漠?」
「そう。どっちの方向も見渡す限り砂漠」
「その砂漠の真ん中にいたってことか」
「砂漠の真ん中の廃墟みたいなところ」
「廃墟?」
「うん。他にはちょっと言い様がないと思う。背の低いビルが幾つか建ってて、どのビルの窓も全部割れてて――」
――アイネが泣き止んだあと、俺はアイネの隣に同じように壁に背もたれて座った。そしてどちらからともなく指を絡めて手を繋ぎ、照れ隠しにぽつぽつと意味のないことを話した。
だがそのうちにアイネの方でその話題を切り出した。今日のゲネプロに遅れた理由について、目覚めたらそこにいたという奇妙な場所についてアイネは語った。
「そこに人はいたのか?」
「一人だけいた」
「どんなやつ?」
「だから、隊長」
「ああ……なるほど。それでさっきの話に繋がるのか」
「うん。そういうこと」
砂漠の真ん中に取り残された廃墟。そこに目覚めたアイネは途方に暮れてさまよい歩くうち、ぼろぼろの車に乗った隊長に会い、彼の手によってこちらに送還してもらったのだという。
……信じがたい話であることは間違いなかった。だが俺には、アイネが冗談でも何でもなくその話をしていることがわかった。
「そこが隊長の言う世界だったのかな」
「え?」
「水曜日の練習で言ってたもうひとつの世界」
「うん、そうかも」
「しかし、よくそこから帰してくれたな隊長。どう言って頼んだんだ?」
「ううん。隊長から」
「どういうこと?」
「やり残しがあるようだから帰してくれるって、隊長の方から」
「それで目をつぶって開いたらじぶん
「うん」
「どういうつもりなんだろうな、あの人。と言うか、何者だろ」
「うん。人間かどうかさえ怪しくなってきた」
「だな」
そう言って俺たちはくすくすと笑った。隊長へのわだかまりが解けたわけではなかったが、気持ちは少し楽になった。
その話題に区切りがついたところで、今度は俺がアイネに話していなかった話をした。銃撃戦に巻きこまれたこと。庭園でクララに渡された銃のこと。昨日、その銃で二人組を撃ったこと。そして、そのあとのこと――
「見てたんだ」
「見てた」
「嫉妬した?」
「した。頭がおかしくなりそうなくらい」
俺がそう言うとアイネは「ごめんね」と言った。そして繋いだ手にほんの少し力をこめた。
「携帯返してもらいに行っただけだけ。リカ探すの手伝ってくれるっていうから、その流れで貸してあって。……でもそれだけで、本当に何もなかったから。信じて」
「信じるよ」
そう言って、俺は思わず小さな笑いをこぼした。念を押さなくても、俺はもうアイネを疑ったりしない。そういう意味の笑いだった。だが不安そうにこちらを窺っているアイネに気づいて、さっきとは逆にアイネの手を握り返した。
「……わたし、知ってた」
「え?」
「あのときハイジが見てたの、知ってた」
「……」
「何だかそんな気がした。ハイジが見てるんじゃないか、って」
「わかってて見せたのか」
「うん。だから、ごめん」
「……いや、いいよ。そういう約束だったんだもんな」
「ううん。そうじゃないの。ハイジをいじめたくて」
「え?」
「ハイジをいじめたくてそうしたの。わたしだけ苦しいのは不公平だと思ったから。ハイジも苦しめたくて」
そう言ってアイネは繋いだ手にまた少し力をこめた。同じくらいの力でその手を握り返して、ついさっきまで忘れていた約束――俺がアイネに課した残酷な約束を思った。
「……悪いのは俺だろ。約束のこと勘違いしてたんだから」
「うん。ずっと苦しいのはわたしだけだと思ってた」
「本当にひどいな、俺」
「うん、ハイジはひどい」
「……それにしてもいじめすぎだろ。本気できつかったぞ」
「仕方ないでしょ。そうしろって約束だったんだから」
「そのためじゃなかったんだろ? あれは」
「それだけのためじゃなかっただけ。もちろん、そのためでもあった」
「じゃあ、やっぱり悪いのは俺か」
「うん。悪いのはやっぱりハイジ」
そう言ってまた俺たちは笑い合い、繋いだ手に力をこめた。その手からアイネの気持ちが伝わってくる気がした。きっと彼女もそう感じているのだろうと思った。
そこで俺はふと思い出し、繋いでいない方の手をジーンズのポケットにのばした。ワインレッドの携帯電話を取り出し、開いて電源ボタンを押してみる……つかない。キリコさんの携帯の電源はやはり切れたままだった。
「……まだ持ってたんだ、それ」
「ん? ああ……返す前にいなくなったからな。キリコさん」
「さっき話してたのって、やっぱりキリコさんだったの?」
「うん。持ってて良かったよ。朝、もう電池が切れてたから持っていこうか迷ったんだけど」
「電池切れてたのにどうして持って出たの?」
そう言ってアイネはまた不安そうにこちらを窺ってくる。何となくその表情の意味がわかった。内心に苦笑しながら、俺はまたアイネと指を絡めている自分の手に力をこめた。
「俺はアイネのこと信じるけど、アイネは俺のこと信じてくれないのか?」
「信じるけど。でも……ハイジ、キリコさんのこと好きだったでしょ?」
驚いてアイネを見た。アイネの表情はさっきまでと変わらなかった。その表情のまま少し寂しそうに、「気づいてないと思った?」とアイネは言った。
「……昔の話だって。入団したての頃の」
「そう。ちょうどあの頃の話」
「……全部わかってたってことか?」
「さあ、その辺はどうなんだろ。でも……」
「ん?」
「そういうの知ってたから、キリコさんの携帯にかけてハイジが出たとき、目の前が真っ暗になった」
「……それであの仕返しか」
「……」
「あいつに携帯貸したのも、ひょっとしてそのためだったのか?」
俺がそう言うとアイネはまた「ごめんね」と言い、申し訳なさをいっぱいに
「そんな顔するなって。いずれにしろ悪いのは俺なんだ。中身取り違えてたけど、自分でした約束破るようなことしてたわけだからな」
けれども、俺のその言葉にアイネは首を横に振った。そして申し訳なさを
「え?」
「悪いのはわたしも一緒。結局、約束破ったし。それに、今週に入ってからずっとハイジのことしか考えられなかった。ヒステリカがあんな風になってたのに」
「……」
「それじゃいけないと思って。考えないようにしようって頑張ったら、余計そのことしか考えられなくなって。……だから、悪いのはわたしも同じ。お互い様」
そう言って俯くアイネに俺は、気持ちが完全に重なるのを感じた。
俺たちは同じだった。まったく同じように二つの思いの板挟みの中で苦しみ、もがいていた。古ぼけた約束を引きずり、心の中では破ったその約束に囚われ、いつまでもこの場所にたどり着くことができなかった……。
「みんなあの約束がいけなかったんだな」
「……」
「あんな約束がなければ、もっと早くアイネとこうなってたのに」
「……そうかな」
「ん?」
「もしあの約束がなかったら……ハイジのは勘違いだったけど、その約束がなかったら、ハイジはわたしに好きって言ってくれてた?」
すぐに答えることはできなかった。そう言われてみれば、あの約束がなくても俺からアイネに言うことはなかったかも知れない。俺はヒステリカでの仲間というアイネとの関係に安住していたし、他にも何かとややこしい問題があった。そして何より、ヒステリカの規則があった。
「たぶん、規則を言い訳にしてたと思う」
それが正直な答えだった。内心はともかく
「アイネはどう? あの約束がなかったら」
「きっと言わなかった。あってもなくても」
「それは、俺と同じ理由で?」
「ううん。規則は最初から守るつもりなかったから」
「どうして?」
「そういう規則があるってハイジに聞かされただけで、誰にも守るって言ってないから」
「夢の中でも同じこと言ってたな」
「……? 何のこと?」
「今朝、夢を見たんだよ。アイネとリカが喋ってる夢」
俺は今朝方に見た夢をアイネに話した。アイネはなぜか最初のうち少し驚いたような顔で話を聞いていたが、そのうちに元の表情に戻った。そして俺の話が終わると独り言のように、「わたしも見た」と言った。
「え?」
「その夢、わたしも見た」
「……今朝にか?」
「ううん、火曜の朝。その夢の中で、月曜の話をしたの」
「月曜の話?」
「リカの彼の家の前でのことと、そのあとの話」
「……あれはそういう話だったのか」
「うん。火曜にハイジが会ったとき、リカがそのこと言ってたって聞いて、はじめはそんな話してないって思ったけど、そう言えば夢の中で話したなって、あのあとそう思って。……リカ笑ってたでしょ、話聞いて」
「ああ、笑ってたな」
「……リカどうしてるんだろ」
「……どうしてるんだろうな」
それだけ言って俺たちは黙った。だいぶ穏やかになってはきたがそれでもなお激しい風の音が一頻り部屋を満たした。沈黙の中に、俺は次の言葉を探した。だが俺がそれを見つける前に、アイネの方でその言葉を口にした。
「わたし、怖がりだから」
「え?」
「さっき聞かれたこと。あと、夢の中でリカにも。その答え」
「……」
「怖がりだから、わたしからは言えなかった。きっとあの約束がなくても」
「振られるのが怖かったってこと?」
「ううん。はじまって、そしたらいつか終わるかも知れないことが」
「矛盾してないか、それ。まだはじまってもいないのに」
「矛盾なんてしてない。だってはじまらなければ、終わることもないでしょ?」
そう言ってまた俯くアイネの横顔を、俺はまじまじと見た。
はじまらなければ終わることもない……確かにその通りだ。それは当たり前のことで、だがそんな当たり前のことをアイネは真剣に思っている。だから言えなかったのだと、本心からそう告げている。
まるで少女だった。隣に座っているのはまだ恋を知らない、初めて恋をしたばかりの少女だった。そんな少女のように無垢な姿が俺の目にどう映っているのか、それに彼女は気づいていない……。
「……もし言ってくれたら」
「え?」
「もしハイジが言ってくれたら、最初で最後の人にしようって、ずっと思ってた」
「……」
「高校三年間、ずっと向かい合って同じ時間を過ごして、そこから今度は一緒の方向を向いて同じ時間を過ごして……そんな人、もうわたしの人生に現れないから。ハイジ以外、誰ともこういうふうになるつもりなかったし、これからもない」
「……それでも、言わなかった」
「うん。わたし臆病だから。はじまったらいつか終わるかも知れないから……それが怖くて言えなかった。ハイジが言ってくれなかったら、わたしからはきっと怖くて言えなかった」
アイネはそう言うと、今までで一番強い力で俺の手を握った。思わず抱きしめたい気持ちがこみあげ――けれども俺は、代わりにその手をきつく握り返した。
「リカの言ってたことが理解できた」
「……リカがなんて?」
「いや、つまらないこと」
「何よそれ……」
そう言って拗ねたような表情をするアイネに、胸が締めつけられるような愛しさを覚えた。……リカの言う通りアイネは可愛い。この可愛い少女を傷つけてはいけないと思った。俺は生涯この人を傷つけない――心の中に誓った。
「お詫びにひとつ約束する」
「え?」
「あの約束のことずっと勘違いしてたお詫びに、今日から新しくひとつ約束を守る」
「……うん」
「俺は、これからずっとアイネを好きでいる」
「……」
「ずっと、死ぬまでアイネのことを好きでいる」
そう言って俺はアイネの手を握った。けれどもアイネは握り返してこなかった。代わりに「その約束は嫌」という声が聞こえた。「どうして?」と俺は問い返した。
「その約束はしてもしなくても同じだから」
「そんなことない。俺はちゃんと守る」
「だから、同じ。守ってるうちはそんな約束いらなくて、破ったとたん嘘になる。そうじゃない?」
「それは……そうかも知れないけど」
「その約束はきっと世界で一番多く交わされて、一番多く破られた約束だから」
「……」
「だから、その約束は嫌」
「なら別のにする」
「え?」
「どんな約束でも守るから。アイネが考えて」
俺がそう言うと、アイネはしばらく考えこむように黙った。俺も同じように黙って答えを待った。やがてアイネは頭をあげ、顔をこちらに向けて、「それならひとつだけ」言った。
「あの約束と逆のことを、今度はハイジが守って」
「逆? どういうこと?」
「ハイジがわたしのこと、ちゃんと厳しく突き放して」
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