277 約束(7)

「俺が、アイネを突き放す?」


「そう。他のこと何も見えなくなるくらいわたしがハイジのこと好きになりかけたら、そのときはちゃんと突き放して」


「どうしてそんなこと……もういいだろ、そんなの」


「ううん、良くない。終わっちゃうから、そうしたら」


「……」


「欲張りな蜂は蜜をむさぼって、大事な花を早く枯らしてしまう」


「……」


「高校の頃、演劇部の顧問の先生が教えてくれた言葉。北欧のことわざなんだって。それはきっと、本当のことなんだと思う」


「……そうだな。そうかも知れない」


 そこでアイネは繋いだ手を強く握ってきた。手を繋いでから一番強く、ほとんど痛いくらいの力で。


「きっと駄目になるから」


「……」


「わたしはこれからハイジのことをどんどん好きになる。どんどん好きになって……きっと駄目になっちゃう。ハイジのことしか考えられなくなって、ハイジしか見えなくなって……」


「……」


「だから、突き放して。わたしが駄目になりかけたら、ちゃんと厳しく突き放して……お願い、それだけ約束して」


「……わかった。約束する」


 ――難しい約束だった。それは俺も同じだと思った。同じように、俺もこれからアイネのことをどんどん好きになる。アイネのことしか考えられなくなり、アイネしか見えなくなる。そうならないでいるのは難しい。……けれども俺はそうなってはならない。


「わかった。俺はアイネのこと、厳しく突き放す」


「うん」


「そうして俺はアイネのことずっと、ずっと好きでいる」


 そう言って俺はアイネの手をきつく握り返した。


 アイネの顔がこちらに向けられた。そうして困ったような、どうしていいかわからないような微妙な表情で俺を見た。


 それは今朝の夢の中、リカに抱きしめられた彼女が浮かべていた表情だった。それだけではない、そんな顔をするアイネを、俺はどこかで見たことがあった。


 少し考えて、思い出した。高校三年の夏。最後の大会のあと、俺と握手して言葉を交わしたあのときも、アイネは同じ表情を浮かべていた。


「その顔」


「え?」


「どうしてそんな顔するんだよ」


「どんな顔してる?」


「困ったような変な顔。どうしたらいいかわからないような」


「……それ、嬉しいときの顔」


「嬉しいのにそんな顔するのか?」


「したくてしてるわけじゃない。どうしてもそうなっちゃうの」


「素直に笑えばいいだろ、嬉しいなら」


「そんなのできない」


「どうして」


「だって素直に笑ったら、その嬉しさがどこかへ逃げちゃう気がして……」


 困ったような顔のままそう言って、アイネは無理に笑おうとする。けれどもそれは笑顔にならず、もっとおかしな顔になる。


 俺はもうたまらず、繋いだ腕を引きその身体を抱き寄せた。アイネは短い声をあげたが、引かれるまま俺の腕の中におさまった。


「明日、舞台やろう」


「え?」


「会場の外でもいい。警察がいても、野次馬がいても」


「……」


「みんな観客だと思えばいい。きっと最高の舞台になる」


「……うん」


「ヒステリカも終わらせない。さっきはあんなこと言ったけど、明日を最後の舞台にはしない」


「うん」


「明日の舞台を成功させて弾みをつけよう。新しい団員がいっぱい入るように」


「うん」


「俺が隊長になって、あの規則は廃止する。説得力ないもんな、俺らがこんなんじゃ。でもやっぱりいやらしいから、最初のうちはつき合ってること隠して……」


 アイネの身体が小刻みに震え、くすくすという声が聞こえた。そしてついにこらえきれなくなったように吹き出した。


 俺の腕の中でアイネは一頻り笑った。同じように俺も笑い、やがてその笑いがおさまったところで俺たちはキスをした。


「ん……」


 軽く唇を触れ合わせるだけのキスのあと、真向かいからアイネの顔を見た。閉じられていた目がゆっくりと開いてゆく。開ききった目は俺の凝視から逃れず、正面から視線を合わせてきた。


「約束は守る」


「え?」


「さっきの約束、ちゃんと守る。守るけど」


「うん」


「今日からじゃなくて、明日からでいいかな」


 俺のその言葉にアイネは一瞬、驚いたような顔をし、そのあと息だけで軽く笑った。そして真摯な目で俺を見て――目を閉じ、唇をうすく開いた。


 ぱぁん、ぱぱぁん――


「……!」


 風の音に混じってその音は聞こえた。


 ――反射的に俺はまずいと思った。万一と思っていたことが当たっていた。……やはりあの襲撃の目的は俺だったのだ。そう考えるしかない。もしそうでなければ、彼らがここまで来るはずはない。


 ぱぱぱぱぱん、ぱぱぱぱぱん――


 どちらから聞こえてくるのかわからない。ひょっとしたらもう囲まれているのかも知れない。いずれにしても事態は急を要する。俺は立ち上がり、アイネの手を引いて立たせた。


「出よう」


「……うん」


「ここを出て、とりあえず大学へ――」


 そのとき。きぃ、と階下に扉の開く音が響いた。


 ……時間切れだった。正面の扉が開いたということは彼らがホールに入って来たということだ。そしてこの部屋からはホールを通らないとどこにも出られない……。


「ハイジ」


 俺の腕を掴み、真剣そのものの表情でアイネが呟いた。


 その表情の意味がわかった。彼女が俺に告げようとしている、その言葉さえ予想できた。……だが俺はその言葉を受け容れることはできない。アイネの手を振り切って俺だけが行かなければならない。そのためには――


「ちょっと見てくるから、放して」


 そう言ってアイネを見た。だが予想通りアイネは腕から手を放さない。俺はその手に触れ、優しく引きはがそうとする。だがアイネは手を放さない。


「心配ないから放して。ただちょっと様子見てくるだけだから」


「わたしも連れていって」


「あのな、アイネ――」


「一人じゃ行かせない。行くならちゃんとわたしも連れていって」


 ……言い回しまで予想通りだった。その言葉を受け容れることはできない。結局、あの約束は今日からになった。そう思いながら俺は表情を硬くし、腕を掴んでいたアイネの手を振り払った。


「……っ!」


「いつまで甘い雰囲気引きずってんだよ」


「え……?」


「気持ち切り替えろ。取り乱すな」


「取り乱してなんかない。わたしは……」


「冷静になれって。二人で見に行ったらそれだけ見つかりやすくなる。そのくらいわかるだろ」


「……」


 ――全部わかってる。アイネの目がそう言っているのがわかる。そんな芝居で騙されると思うの? あの約束は明日からじゃなかったの?


 これが約束を守るための演技であることを、アイネはわかっている。けれども――だからこそ、アイネは何も言うことができない。


 俺が約束を守る限り、アイネも同じようにその約束を守らなければならない。アイネがあの約束を守っている間、俺も同じようにその約束を守らなければならなかったように――


「あのクロゼットに入って、そこでじっとしてろ」


「……」


「何があっても出るなよ……いいな?」


「……もうひとつ」


「え?」


「それなら、もうひとつ約束して」


 そう言ってアイネは頭を上げる。そして挑むような目を向けてくる。アイネが俺に課すその約束は決まっている。それに対する俺の答えも。


「絶対に、ちゃんと帰ってくるって約束して」


「ああ、ちゃんと帰ってくる――」


 アイネを部屋に残し、一歩一歩踏みしめながら俺は階段を降りた。聞きなれた階段がきしむ音がやけに大きく感じられた。何も持っていない手の中が寂しかった。だがこの作戦には武器も、武器に見せかけるものも必要ない。


 ホールにいる彼らに俺の姿を見せ、すかさず裏口から逃げる。――作戦と呼ぶのもおこがましいけれど、それが俺の作戦だった。


 標的である俺に気づかせればいい、そうすれば彼らは俺を追ってくる。あとはアイネとの約束を守るため、心臓が破れるまで走り続けるだけだ。


 階段を下りきったところで俺は身を低くし、ホールの闇に目を凝らした。……黒い人影が見える。どうやら一人のようだ。だがわからない。この暗闇のホールに、人が隠れるような場所だけは数え切れないほどある。


 ふと壁に目をやり、ホールの照明のスイッチを見た。……そこで俺は危険な賭けを思いついた。


 彼らはおそらくここにスイッチがあることを知らない。今ここでスイッチを入れれば一瞬、彼らはたじろぐだろう。その隙をつけば俺は逃げることができるかも知れない。だが逆に明かりをつけることで標的としての俺は視認しやすくなる――


「……よし」


 呟いて、俺は覚悟を決めた。イチバチか、一瞬のチャンスに賭けることにした。足下を確認し、裏口の方向を確かめた。そしていつでも走り出せる姿勢をとり、ホールに立つ黒い人影を見つめながらスイッチに指をのばした。


 かちりという音と同時に照明がつき、人影がこちらを向くのが見えた。


 だが俺は走り出せなかった。いや、正確には走り出さなかった。一気に緊張の糸が切れた。AK74をげ所在なさげに立っているその男は、俺のよく知っている人間だった。


「DJ――」


 俺が呼びかけるのと同時に、バン、とひとつ銃声が響いた。


 ……何が起こったのかわからなかった。気がつけば俺はその場に座りこんでいた。みぞおちの少し下あたりに焼けつくような感覚があった。最初小さかったその感覚は次第に激しく、えがたいものに変わっていった。


「げ……げほ」


 口から生温かいものがこぼれ落ちた。それが自分の血だと理解するのにしばらく時間がかかった。自分がDJに撃たれたのだと――今まさに死のうとしているのだとようやく理解したとき、俺はその人の声を聞いた。


「――イジ! ――ジ!」


 ――アイネの顔が見える。降りてきてしまったのか……あれほど言ったのに。呆然としたままそう思った。


 アイネは耳元で何か叫んでいる。だが途切れ途切れにしか聞こえない。俺の名前を呼んでいるようにも聞こえる。だが、もう聞こえない。


「――! ――!」


 音のない情景の中、泣いているアイネの顔が見える。アイネが泣いている。……俺はまたアイネを泣かせてしまった。


 DJが来ている。アイネの後ろにDJが立っている。DJがアイネの肩を叩き、アイネが振り返る。そして怒りの形相でDJに掴みかかる。


 そのアイネの額をDJは指で弾いた。


 瞬間、アイネはロボットのように動きを止め、やがてまた動き出す。だがもうDJには挑まない……こちらを顧みることもしない。


 そして二人はいなくなった。向かいの扉を開け、そこから出て行った。


 けれども俺には彼らの行く先がわかった。DJに連れられてアイネが向かった先が、はっきりとわかった。


 ……そう、俺にはアイネの向かった先がわかった。アイネは隊長の言っていた『もう一つの世界』へ向かったのだ。こちらでやり残したことを終えて。俺と交わしたばかりの約束――守られることのなかった約束を忘れて……。


 ――でも、これで良かったのかも知れない。


 明日は舞台で、アイネは準備を終えてその世界へ向かった。だから、これで良かったのだと思う。そう……きっとこれで良かった。


 風景が薄れかけている。耳にはもう何も聞こえない。不思議と恐怖はなかった。きっとこれで良かったのだ……もう一度、自分に言い聞かせるようにそう思った。


 さっきから俺は何を考えているのだろう? いったい何が良かったというのだろう? そんなことを思い、力なく息だけで笑って――最期に思った。


 アイネは準備を終えてその世界へ向かった。隊長の言っていた『もう一つの世界』へ行った。それは良い。きっとそれで良かったのだ。ただそれなら俺は――こんな場所に一人残された俺は、いったいこれからどこへ行くのだろう――

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