076 隠された小部屋(5)

 夜のとばりが降りるのとほぼ時を同じくして風は止んだ。


 辺りから音という音が消え去り、今はただ耳鳴りがするような濃く深い静寂だけがある。そんな静寂のなか何をするでもなく、寝台に仰向けになってぼんやり天井を見つめている。……半日歩き回って何も収穫がないままこうして朝と同じことをしている自分を、醒めた目で眺めるもう一人の自分がどこかにいるような気がする。


 結局、あの鳥の死骸は『中庭』に立つ一本の椰子の根元に置いた。周囲に枯れ落ちていた椰子の葉を集めてその上にかけ、一応の埋葬も済ませた。今日のような風が吹けばひとたまりもない墓だが、それでいいのだと思う。岩ばかりのこの荒野では死骸が土に還ることはない。風に還るのだ。


「……」


 ポケットから紙片を取り出し、月明かりにそれを眺める。


 ベンゼン環を思わせる幾何学的な絵図が黒のボールペンで描かれている。その随所に細かく書きこまれた文字は何だろう……キリル文字によく似た、だがそれとは明らかに違う俺には判読できない文字で、全体として何を伝えようとしているのか皆目見当もつかない。


 おそらく極秘に情報を伝達するための暗号のようなものなのだろう。だとすればこれについて頭を悩ますのは、解けないことがわかっているパズルを解こうとするのと一緒だ。


「……」


 へ来て二日目の黄昏時。『中庭』から振り仰ぐ空をぎっていった黒い染みを思った。


 暮れなずむ紺碧の空に放たれた二羽の鳥。文字通り鳥も通わない絶境にあって明らかに不自然だったあの光景が、今はじめて、必然という言葉とともに脳裏に蘇る。


『鳥はもう飛び立ちましたか?』


 あの夕闇の空に飛び立った鳥。ウルスラが口にした唐突な質問。そして今日、あの小部屋に見た真新しい鳥籠と、脚に暗号文を結わえた伝書鳩の死骸。


 ……これまで目にしてきたそれらの点が、今はっきりと一本の線に繋がるのを感じた。もちろん確証などどこにもない。だがあの日、あの鳥籠から放たれた二羽の鳥たちがそれぞれの脚にこれと同じ暗号の記された紙片を携え、ウルスラの懸念するどこかへそれを届けるため飛んでいった――そんな考えが、今はほとんど確信めいた強さをもって俺の頭から離れない。


 もうひとつの確信。その一本の線がウルスラの言っていた舞台に連なっているということ。


 俺の与り知らないところで彼女たち――隊長やキリコさん、そしておそらくアイネも一堂に会して演じている即興劇。その劇に、いま繋がったこの一本の線が真っ直ぐ伸びているように思えてならない。その舞台から置き去りにされた砂漠の廃城。けれどもウルスラが訪ねてきたあのときまで、ここはその舞台にはっきりと関係していた……そう思って間違いないのだろう。


 だがなぜだろう、そのことを思っても心は震えなかった。


 つい半日前、この寝台の上で同じことを思い、俺の胸に湧き起こった衝動。あの激しい砂嵐の中へ飛び出す寸前まで俺を駆り立てた焼けつくような衝動は、もう俺の胸に舞い戻ってはこない。隊長たちが演じているその舞台に立ちたいという思いさえ、今の俺にはない。


 未練がましく燻っていたその舞台への思いは、俺の中で完全に死んでくれたのだ。……それを確認して俺は紙片を眺めるのをやめ、元通り折り畳んでシャツのポケットに納めた。


「……」


 そして俺はまたぼんやりと天井を眺める。


 壁の破れ目から覗く月は真円に近く、夜の砂漠を照らす光は充分に明るい。真昼に城を巡ったときと同じ空洞という言葉を思った。あのときくぐもった風の音に囲まれ、太陽の光が届かない廃墟はそれ自体が巨大な空洞だった。……そうして今、耳が痛くなるような静寂の中にあって、清澄な月明かりの下に横たわる俺は、それ自体が矮小わいしょうな空洞だ。


 空腹と渇きがきびしい。なけなしのデーツを噛んでどうにかごまかしてきた空腹も、ここへ来て胃を締めつけるような痛みに変わった。……そちらはまだしも、渇きの方はだいぶ前から耐え難いものになっている。起きてから丸一日、ほとんど一滴の水も飲んでいないのだからそれも仕方ない。渇ききった細胞のひとつひとつが軋みをあげ、内側からひっきりなしに水を、水をと俺を責め立てて来る。


 今日一日吹き続けた砂嵐がどれほど幸運なものであったか、毛布をかぶっても肌寒さを覚える夜を迎え、改めてそのことを思う。砂塵が陽光を遮ってくれていたおかげで、あれだけ歩き回ったにもかかわらずたいして汗をかかなかった。……明日も同じように、というわけにはいかないのだろう。地平から太陽が顔を出せば、じっとしていても全身から汗が流れ落ちるあの灼熱の時間が来る。


 補給する水はもうここにはない。冷静に考えて、このまま指一本動かさなかったとしても、明日を乗り切れる保証はどこにもない。


「……」


 乗り切ることができなければ、明日の今ごろ俺はもうにはいない。まるで実感は湧いてこないが、これが俺にとってこの世界での最後の夜かも知れないのだ。


 で死んだらどうなるのか、先のことは見えない。に戻るのか戻らないのか、実際に死んでみなければわからない。


 それについて恐怖はない、なるようになるだけだ。ただまでにこの身にもたらされるに違いない肉体的な苦痛を思って、純粋にそのために死を恐怖する自分がいる。


 ひとつだけ生き延びる道があるとすれば、危険を覚悟であの泉の水を飲むことだ。


 人体に有害な無機毒物が含まれているとウルスラは言っていたが、少なくとも数日で致命的な結果が出るというような言い方ではなかった。逆にこのまま水を飲まなければ間違いなく数日で死ぬ。ならばその数日のために俺は――俺たちはその毒の水を口にするしかない。


「……」


 ――結局、ペーターは見つからなかった。


 柱の陰から瓦礫の下まで覗きこみ、城の隅々まで見てまわるのを何往復も繰り返して、それで見つからなかったのだから完全にお手上げだ。……もう勝手にすればいい、と心の中で何度目になるかわからない悪態をつく。あいつがどこに隠れていようと、この先どうなろうとそれはもう俺の知ったことではない。


 そう考える一方で、最後に発見したあの部屋のことを思った。


 厚い土壁の向こうに巧妙に隠されていた小部屋……元々が城なのだから設計上そうした部屋が設けられていても不思議はない。あの手の隠し部屋が他にもあってそこにあいつが隠れていたのだとしたら、どれだけ捜しても見つからなかったはずだ。あの部屋を発見できたのもほとんど奇跡に近い。たまたま角度が合って小孔から陽光が洩れていなければ――気が向いてその孔を覗かなければ、そんな部屋があること自体、俺は気づくことがなかったのだ。


 その部屋の中で見たものを回想して、今さらながら幾つかの疑問が浮かびあがってくる。……と言うより、考えてみればあの部屋のすべてが疑問だらけだ。壁の中に隠されていたのはいいとして家具があったのはなぜか。誰が使っていたもので、なぜあの部屋にだけ残されているのか。俺が横たわるこの寝台と関係があるのか。そもそも俺がやっと通れるあの狭い穴からどうやってあの家具を運び入れたのか――


「……」


 やがて回想はその部屋の隅に置かれた段ボール箱に行き着く。下らない疑問はそこで消え、薄闇の中にその箱を覗きこんだときの自分に戻る。


 俺の目に触れない、自分自身が生き延びるための水と食糧までもをペーターが処分していたこと。……そのことを思って、またあの矛盾を孕んだ言いようのない不安が胸に蘇ってくるのを覚える。


 あいつはいったい何を考えているのだろう……黒い靄のような胸騒ぎをそのままに、ただそれだけを考える。昨日のがきっかけで何かスイッチが入ったのだとしても、これでは本当に二人揃って死んでしまう。


 ……そのことはまだいい。もちろん全然よくないが、俺を苦しめるためにペーターがああした行動に出たことは何となく理解できる。だが自分は逃れられたはずのあいつまでもが一緒になって破局に向かおうとしているのはなぜか……そのあたりが俺にはまったくわからない。


「……」


 空腹と渇きがきびしい。


 締めつけるような胃の痛みはいったん治まり、混じりけのない飢餓がそれに代わった。渇きについては確認するまでもない、水への渇望は常にある。明日になったらあの泉の水を飲むしかない。もう一度その決意を心に復唱して……本当にそれしかないのか、と頭はさっき片がついたはずの堂々巡りを再開する。


 どの道あの泉の水を飲み続ければ無事ではいられない。苦しんで死ぬのが少し先延ばしになるというだけの話だ。それにもっと考えれば生き延びてどうするのか。砂漠の真ん中に忘れ去られた廃墟――舞台から弾き出されたこの何もない場所に俺が――俺たちがこれ以上生きながらえる意味などあるのか……。


「……」


 けれどもそのすべてを頭から追いやって、俺はまたペーターのことを考える。


 あの部屋の隅で箱からペットボトルを一本ずつ取りあげ、その底にカッターの刃を突き立てては戻す彼女の姿を思い浮かべる。小窓からの逆光に表情はわからない。その表情を、俺は想像することができない。あいつが何を思いながらその哀しい仕事を果たしたのかわからない。……彼女の心を覗きこむ俺の目には、どこまでも深い闇の他に何も映らない。


 ……ペーターは今どこにいるのだろう。今にも崩れ落ちそうな天井を見つめながら、諦めに似た思いでぼんやり考える。風の音が死んだこの静寂の中に一人、あいつはどうしているのだろう。この城のどこで何を思い、何もかもが壊れかけたこの夜を越えようとしているのだろう。


 広大な砂漠の真ん中に、俺たちは二人きりでいる。どこかで大きく擦れ違ったまま、互いの姿を見ることさえできないでいる。


 これまでずっとそうだったように。多分、これからもずっとそうであるように。


「……」

 

 その継ぎぎだらけの関係の中に、今はほんの小さな安らぎのようなものを感じる。あの舞台前日の夜にペーターを見失った時にはとても考えられなかった思い……。この先どうなろうとも、俺たちはきっと変わらない。この冗談のような舞台が跳ねたあと何がどう変わろうとも、こうやって噛み合わない関係を続ける俺たちはいつまでも変わらないのだ――


「……ん?」


 ふと、かすかな物音が聞こえた。


 ともすれば聞き逃していたかも知れないごく小さな音だったが、耳が痛くなるほどの静寂の中、その音は確かに聞こえた。天井の破れ目が連なる南の壁向こうから、音は聞こえた気がした。しばらく次の音を待ってそれが来ないことを確認したあと、こちらは音を立てないように気をつけながらゆっくりと寝台を降りた。


 廊下に出て左隣のそこは一昨日、襲撃者をやり過ごすためペーターと共に潜んだ部屋だった。あのとき俺が咄嗟に投げた煉瓦によってできた瓦礫の山が、その入口の足下を半分塞いでいる。昼間には何度か中に入ったし、見落としがあったとも思えない。それでも俺は入口の瓦礫を乗り越え、煉瓦の破片と石ころだらけのその部屋に踏み入った。


 青白い月明かりの下、部屋の中は充分に明るかった。


 その月明かりの中に、大小の土塊つちくれが明暗のはっきりした影をその背中に落としている。物音を立てた相手が万一ペーターでなかったときのことを考え、最初の数歩は慎重に足を踏み替えたが、すぐに諦めた。砂礫に埋め尽くされたこの床をまったく足音を立てずに歩くことなど不可能だ。それにもし新たな襲撃者が侵入して物陰から狙っているのだとしたら、俺としてはここで撃ち殺されることに何の未練もない。


 だがその部屋の奥で俺を待っていたのは、やはり思った通りの相手だった。


 あのとき侵入者をやり過ごすために二人で隠れていた壁の窪み、ひときわ濃いその陰影の中にペーターは一人うずくまっていた。身体を丸め、膝を抱きかかえるその姿は、道に迷い歩き疲れ遂に動けなくなった少女のようだ。項垂れてはいない、顔だけは起きて前を見ている。月光の届かないその壁の窪みから、何もないがらんどうの部屋をぼんやり眺めている。


「……」


 かける言葉が見つからなかった。言いたいこと、問い質したいことは山ほどあったはずなのに、遂に探し当てた彼女を前に、俺は沈黙して立ち尽くすことしかできなかった。……どうすればいいか、何と言って話しかければいいかわからなかった。


 けれどもそのわずかな逡巡のあと、半ば自動的にその名前が俺の口からこぼれた。


「ペーター」


 ――返事は返ってこない。空っぽの部屋を見つめる目がこちらに向けられることもない。もっとも、その反応は何となく予想できた。虚脱と小さな安心の混じった溜息をついたあと、確認のためにもう一度その名前を呼んだ。


「ペーター」


 再度の呼びかけにも、やはり返事はなかった。そこで俺は話しかけるのを諦め、彼女のいる方へ足を向けた。


 一歩進むごとに靴の裏で小石が磨り潰される音が響き、そのたびにペーターの様子を窺ったが、そんな音など耳に届かないかのように何の反応もなかった。それでも俺はできるだけ静かに、呼吸さえ殺して一歩一歩ゆっくりと近づいていった。


 やがて膝を抱えて座る身体の目の前、その肩に手を置ける場所まで来たところで俺は足を止め、そこに至ってもまだこちらを見ない顔を見下ろして三度みたび、その名前を呼びかけた。


「ペーター」


 真上から降りかかるその声に、ペーターは初めて小さく身を震わせたように見えた。そのまま俺はその場にしゃがみこみ、正面から彼女の顔を覗きこんだ。……目は合わなかった。焦点の合わない目が俺の頭を突き抜け、ここではないどこかを眺めるばかりだ。


 また例の発作を起こしているのか――そう思って間近に見るペーターの様子が別の意味でおかしいことに気づいたのはその直後だった。


「……?」


 その狭い暗闇の中に、ペーターは震えていた。ぶるぶると絶え間なく振戦しんせんしながら、それに抗うように全身を硬直させ、歯を食いしばっているように見えた。


 さらによく見ればその顔には玉の汗が滲んでいる。今まさに噴き出てきたものと思われるその汗が頬を伝い、首筋に流れ落ちてゆくのがはっきりと見てとれた。


「おい……大丈夫か」


 咄嗟に俺は肩を掴み、言葉をかけた。けれども依然として彼女から返事は返ってこなかった。ただ俺の手が肩に触れた瞬間びくっ、と小さく身を竦ませ、それからまたいっそう激しく身体を震わせ続けるばかりだ。


 耳朶みみたぶの近くにさえ大粒の汗が浮いているのを眺めて、俺は思わず舌打ちした。水がなくなった今こんな無駄な汗を流している余裕はないと、さっきまでの延長でそう感じてしまったからだ。


「……」


 だがほどなくして、そんなペーターの姿に俺は強いを覚えた。激しく身体を震わせながら何かに耐えるように――何かをやり過ごそうとするかのように必死で奥歯を噛みしめ、全身に流れる汗をどうすることもできないでいるその姿を、俺はどこかで見たような気がした。


 ――いや、確かに俺はそれをどこかでと思った。そう思ってすぐ、目の前に見るそのペーターの姿が、昨日の広場で俺自身が見せていたに違いないものであることに気づいた。


「……」


 そう――目の当たりにするその姿は、何もかもあのときの俺と一緒だった。どれだけ歯を食いしばっても震えるのをやめない身体も、あとからあとから流れ落ちてゆく冷たい汗も。


 そこでまたびくっ、とペーターは身を竦ませた。それで俺には、とわかった。あの風ではない風が周囲から彼女に向かって吹き寄せた……そして今、あの誰もいない広場にペーターは独りぼっちで、迫り来る見えない壁に押し潰されようとしている――


 そう思ったとき、俺の身体は動いていた。しゃがみこんだ姿勢のまま膝を床に立て、倒れこむようにしてペーターの頭を抱いた。


 ちょうどあのときウルスラがそうしてくれたように。そして胸元に押し当てられた額から止処とめどなく震えが伝わってくるのを感じながら、真っ暗な壁の窪みに向かってその言葉をかけた。


「大丈夫だ。俺はここにいるから」


 またひとつ小さく身を竦ませ、けれども腕の中にペーターの震えがゆっくりと治まってゆくのがわかった。


 ……あのときもそうだった。ウルスラがこうしてくれたお陰で、俺はあの広場での恐慌から救われたのだ。ひとつひとつそのときのことを思い出して、彼女が俺にくれたのと同じ言葉を何度も闇に向け、繰り返した。


「大丈夫、俺はここにいるから。いつだって俺はお前のそばにいるから」


 やがて腕の中に震えが止まり、俺が呼びかけるのをやめてもペーターは動かなかった。ジーンズ越しに先の尖った石が膝を刺す痛みを堪えながら、そのままの姿勢で俺も動かなかった。


 耳鳴りがするほどの静寂を回復した部屋に、いつしか規則正しい寝息が響き始めた。


 その寝息が誰のものか確認したあとも、俺はしばらくそのぎこちない姿勢のまま動くことができなかった。

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