077 隠された小部屋(6)

 ――真上にさしかかった月が天井の破れ目に顔を見せている。寝台から見上げるその月は大きく、表面の模様がはっきりと見て取れる。


 相変わらず風はない。辺りは月光の降り注ぐ音が聞こえるほどの静寂に充ち満ちている。さっきこうしてここに寝転がっていたときと何も変わらない。


 ただひとつ違いがあるとすれば、耳をすまさなければわからないほどの寝息がすぐ隣で響き続けていることだ。


 ペーターを抱えて『王の間』に戻った後、とりあえずその身体を壁にもたれさせて、寝台に降り積もった砂を椰子の葉のほうきで掃き落とした。何度も表面に手で触れ、ざらついた感触がなくなったところでペーターをその上に移した。


 ウルスラが持ってきてくれた毛布はこの部屋にあったために切り裂かれずに済んだもののひとつだ。その毛布を広げて身体にかけ、隣に横たわって溜息をつくまで、粗略な扱いにもかかわらずペーターは一度も目を覚まさなかった。


 もうだいぶ遅いはずだが、眠気は一向に訪れない。かといってさっきのように何か物思いの種が浮かんでくるわけでもない。


 状況は何も改善されていない。現にこうしている間も空腹と喉の渇きはひっきりなしに窮状を訴えている。けれどもこの部屋を出る前に感じていたような空洞は、もうどこにもない。そのことを思いながら俺は月を眺めるのをやめ、再び寝台に身を起こして隣の寝顔を見下ろした。


 ――土埃で汚れた顔は病人のようにくすんでいる。頭はぼさぼさで、記憶に残るリボンでまとめた艶やかな髪は見る影もない。色褪せた染みだらけのドレスはようやく服としての体裁をとりつくろっているといった風情だ。浮浪者という言葉さえもう当てはまらない……隣で寝息を立てているその姿に、秩序ある世界を追放されて荒野に死を待ったという中世の罪人を見る思いがする。


 小さく寝返りを打ち、こぼれ落ちた髪が顔にかかった。その髪を元通りに戻して、薄汚れたその顔をいつまでも見つめ続けた。明日、目が覚めたときにはまたどこかへいなくなってしまっているのかも知れない。もしそうだとしても、こうして言葉を交わすこともなくただ傍にいる――今はそれだけでいいのだと思った。


「……人の気も知らないで」


 思わずそんな独り言がもれた。そう呟かずにはいられないほど、平和で満ち足りた寝顔だった。


 あの状態で寝入ってしまったことを思えば、こいつは一人でいる間ずっと眠れないでいたのかも知れない。この寝台は俺が占領していたわけだし、他に安眠できる場所などないのだからそう考えるのが自然だ。俺がどこか別の場所で夜を過ごすべきだったのだ……そんなことをしたところで、彼女が代わりにこの寝台を使っていたかはわからないけれど。


 こうして穏やかな寝顔を眺めていると、ついさっき隣部屋で起きたことが嘘のように思える。熱に冒されたように震える小さな身体の感覚は、今も腕の中にある。


 ただあのとき明らかに異常な状態を見せていた彼女のことを、俺はそれほど心配しているわけでもない。ペーターに降りかかったものがあの広場で俺の身にもたらされた現象と同じなら、それはあくまで一過性の症状だと経験的にわかるからだ。


 それよりも彼女の身体に水分は足りているのか……俺にはそちらの方がよほど心配だった。あの恐慌は一時いっとき苦しいだけであとに何も残さないが、脱水症は間違いなく死に直結するのだ。昨日、今日とこいつはちゃんと水を飲んでいたのだろうか。あどけない寝顔を見つめながら、そればかりが気になった。


 ……底に切りこみを入れる前のペットボトルの水を少しでも飲んだのだろうか。あの土壁の向こうの部屋で、小窓から洩れる光の中にその水を一滴でも口にすることがあったのだろうか――


「……」


 ――隠し部屋で感じた漠然とした不安がまた蘇った。すぐ傍で眠るペーターの姿を眺めていてもその不安は消えずに、逆にゆっくりと大きくなっていった。


 ……こいつはいったい何を思ってあの部屋のものまで台無しにしてしまったのだろう。あの部屋に隠しておく限り、俺の目に触れることはなかった。他にまだ別の隠し場所があるのだとしても、あの部屋の物資を放棄する理由にはならない。そしてもしそれがなければ、明日から彼女は俺と同じ生存の危機に直面することになる。


 ……それはなぜか。なぜペーターは自分が生き延びるための水と食糧までも一絡ひとからげにしてしまったのか――


「……」


 ペーターを見るのをやめてまた天井を見上げた。


 ……答えが出ないことを考えていても仕方ない。明日、目を覚ましたときペーターがまだ隣にいたら――それが少しでも俺に彼女だったならば、そこで聞いてみればいい。どんな回答が返ってくるにしても、俺にできることは限られている。


 あとはもうこいつの望み通り干涸らびるか、それとも毒の入ったあの泉の水を飲み、彼女にも同じように飲ませるか、ふたつにひとつだ――


「……」


 ――取り留めもなくそんなことを考えながら、不意に奇妙な違和感を覚えた。


 それはちょうど何かを忘れてしまってそれを思い出せないような……けれども思い出したくないような、そんな据わりの悪い感覚だった。


 何かが掛け違っていると思った。何か大きな問題を俺は見落としている。そんな声が頭の中で響いた。……だがそれが何かわからない。


「……」


 明日について考えるのをやめてもその違和感は消えなかった。頭の裏にこびりついたように、いつまでも執拗にその言葉を繰り返してくる。


 本当に何なのだろうと次第に苛立ちさえ感じ始め、それでも声は呟くのをやめなかった。……俺は何か大きな問題を忘れている。その問題を忘れたまま、思い出さないようにしている。いや……本当は忘れてなどいない、ちゃんと覚えている。その問題をちゃんと覚えていながら、向き合うのを恐れて考えないようにしている――


『昼に申し上げましたように、ここは現実の世界などではありません。そして崩壊は時間の問題です。あの方の精神がそうであるように』


「――あ」


 思わず跳ね起きた。


 何かが音を立てて繋がった気がした。


 掴みどころのない暗示めいたウルスラの言葉……耳にしたときには何を言われているのかさえわからなかったそれが、一瞬で霧が晴れたように見えてくるのを覚えた。


 ここは現実ではありません、あちらこそが現実なのです――あのときウルスラはそう言っていた。


 ここは確かに貴方の元いた場所です、そしてそこは大きく変質してしまったのです――あのときウルスラはそう言っていた。


 ここは実験的な劇場のようなもので、統御が破綻したために壊れようとしています――あのときウルスラはそう言っていた。


 ここの崩壊は時間の問題です、――あのときウルスラは確かにそう言っていた。


「……」


 心臓が冷たくなり、鼓動を早めた。手に汗が滲み、指先が震え始めた。


 無意識にその手を口元にあてた。……だがそんなことをしても、一度生まれた考えは頭から消えなかった。


「……そんな馬鹿な話が」


 言いかけて止まった。


 ここまで俺はそんな馬鹿な話を実際に目の当たりにしてきた。そしてひとつ、またひとつと頭に蘇ってくるそのすべてが、そんな馬鹿な話を裏付けているように思えた。……そんな馬鹿な話が、ともう一度頭の中で繰り返した。けれどもそのあとには、どんな言葉も続こうとしない。


 風はもうなかった。吹き荒れていた嵐はやみ、廃墟は静謐な夜の中にあった。


 捜し求めていた相手は寝台の上で安らかな寝息を立てている。だがその隣にあって、俺はもうその顔を見ることができない。あの広場で身に受けたものとはまったく別の――だがそれよりも大きな恐慌のために瞬きすることも、まともに息をくこともできない。


 そんな馬鹿な話が、ともう一度繰り返した。……けれどもあとは続かない。次第に激しくなってゆく心臓の動悸を持て余して、せめて叫び声をあげないでいるのがやっとだ。


 感情では受け容れられない。理性で考えても信じられない。だがそのどちらをも超えたところではっきりと感じた。


 俺たちはいつの間にか――いや、もうとっくの昔に、そんな馬鹿な話の枠組みに捕らわれていたのだ。

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