078 水面(1)
ぴちょん
――喉が渇いた。
寝ているのか起きているのか自分でもわからない、
水が飲みたい――ただそれだけを思った。渇きのために眠りに就けないでいるのか、眠りの中にまで渇きが追いかけてきているのか……あるいはその両方だろうか。
ぴちょん
どこからか水滴の音が聞こえる。
だがそれは俺の切ない願望を映す、夢になりきれない夢だとわかる。寝入りばなのあやふやな意識に、欲してやまないそれがこびりついているのだ。
どうせならもっとはっきりと夢になってほしかった。そうすれば俺はきっとこの水を飲める……せめて夢の中でぐらい好きなだけ飲ませてほしい。
ぴちょん
だがそんな思いも虚しく、渇きを癒すことは叶わなかった。
水はたしかにあった。虚空からしたたり落ちる水滴と、その水滴を受けて波紋を広げる
けれどもその水を飲むことはできなかった。間近に見るその水面は手の届かない彼方にあって、どれだけ顔を近づけようともその水に口をつけることはできない。
ぴちょん
やがてその
最初、水にこぼしたインクのような淡い染みに過ぎなかったそれは、俺の眼下でゆっくりと人の像を結んでいった。
明確な輪郭をもって像が完成したとき、揺らいでいた
なりかけだった夢は、いつしか本物の夢に移り変わっていたようだ。ただその夢の中にあって、何でまたこいつが出てくるのだろうと思わずにはいられなかった。
カラスの夢などもう何年も見ていない。それがなぜこの差し迫った夜にわざわざ、しかもよりによってこの服装のカラスを夢に見なければならないのだろう?
そんな俺の思いなどお構いなしにやがてカラスは何かを語り始めた。けれども鏡の向こうからじっとこちらを見て盛んに口を動かすカラスが何を話しているのか、俺にはまるでわからなかった。
何を言っているかわからない、実際にそう声に出してもみた。だがその声に反応はなく、胸の前に軽く腕を組む軽薄そのもののポーズでカラスは話を続けた。
いつまで聞き続けても声は届かなかった。カラスが何を喋っているのか、俺に何を伝えようとしているのかわからなかった。
それよりも喉が渇いた……水を求める気持ちは少しも衰えることなく俺の中にあった。そんな話はどうでもいいから水をくれ、とカラスに言いたかった。お前が映っている鏡を元の
そこで不意にカラスは口の動きを止め、喋り疲れたように視線を落とした。そしてまたおもむろに視線をあげて値踏むような、見下すような目でじっとこちらを見た。
……懐かしい顔だった。そう、一時期は毎日のように目にした敵意と軽蔑の混じり合った顔だ。あの頃のこいつはよくこんな目で俺を見た。もっぱら俺を吊し上げるために――新しいやり方に挑む演出としての俺を否定し、沈黙をもって弾劾するために。
……だがなぜだろう。あの頃は苛立ち以外なにも感じなかったその顔に、今こうして向かい合う俺は堪らない懐かしさを覚えた。もう二度と会えないと思っていた友だちに再び巡り会えた――そんな気さえした。
カラスのことを疎ましく思う気持ちが消えたわけではない、それとはまったく別の次元にその感情はあった。こんな気持ちでこいつの顔を眺める日が来るとは思わなかった。……奇妙な感慨の中その顔を見つめる俺を前に、カラスの方でもじっとこちらを見る視線を逸らさない。
そして――俺は理解した。
あの頃から長い年月を経て初めて、これがこいつなりの友情の表現だったのだということを理解した。
それはここでしか理解できないことだった。そして夢が覚めればもう忘れてしまうことだった。
だが、はっきりと俺は理解した。こいつは俺を嫌っていたのではなかった。ただこういう形でしか俺に友情を示すことができなかったのだ。
胸が温かくなるような感動があった。
その一方で、水を渇望する思いは何の変わりもなく身体の中心にあった。思いがけず与えられた感動と思っても与えられない望みとがない交ぜになり、だが天秤の針はぎりぎりで生理的欲求の方が勝った。友情があるなら水をくれ。臆面もなくそう思い、実際にそう声をかけようと口を開きかけた。
けれども俺がそうするよりカラスが口を開く方が早かった。さっきと同じように唇を動かし、届かない声で何かを喋り始めた。
軽く胸の前に腕を組んだ姿勢のまま、見下すような不遜な表情を崩さずに。いっときは波紋に揺らぎ、だが今はもう微動だにしない
その声は届かなかった。カラスが何を喋っているのか俺にはまるでわからなかった。
……そんなことよりも喉が渇いた。とにかく一滴でいいから水が飲みたかった。無言で喋り続けるカラスにそう言ってやりたかった。何を言っているか聞こえない、そんな話はどうでもいい。そんな話はどうでもいいから、ほんの一滴でいいから俺に水を――
ぴちょん
水滴の音と共に波紋が生まれ、鏡だったそれは一瞬で
それと共に映し出されていた像も揺らぎ、急速にぼやけたものとなってゆく。それで俺はこれが夢であったことを思い出した。
……そう、これは夢だ。夢の中で水を飲んでも仕方ない。ここでどれだけ水を飲んだところで、目が覚めてみれば渇ききった自分がいる……それだけのことだ。
そう思いながらも俺は波紋の広がる
だが、水などどこにもなかった。ややあって波紋の消えたそこはもう
カラスとの友情を確認した感動の残滓はまだ胸の奥にあった。
激しい渇きに呑まれ消えそうになりながらも、その残滓が燃え残った
満ち足りた夢を見たあと、寝覚めまでのあいだ全身を包みこんでくる暖かな余韻。
水への渇望のためにその余韻を素直に感じられないまま、終わってみればやはり夢になりきれなかった感のあるその短い夢に別れを告げた――
◇ ◇ ◇
――目を覚ますと黎明だった。壁の破れ目に覗く空はわずかに白み始めているが、部屋の中はまだ薄暗い。
そんな空をぼんやり眺めながら真っ先に感じたのは渇きだった。喉がからからに渇いている……いや、そんな言葉さえ生やさしく感じられるほど渇ききっている。それを実感して今日ひとつめの溜息をついた。……結局、夢から覚めてみても、そのあたりは夢の中と何も変わらないのだと思った。
その覚めたばかりの夢を思い出して、にわかに激しい羞恥と屈辱とが胸にこみあげてくるのを覚えた。この極限に近い状況でなぜあんな夢を見てしまったのだろうと思う。なぜよりによってあいつを……しかもあんな感動のおまけつきで。
起き抜けの頭にその感動の残滓がまだかすかに後を引いているのが一層不快で、気分を変えるために俺は寝返りをうった。
「……」
そこで初めて、こちらに顔を向けて同じように横たわるペーターと目が合った。
薄明かりの寝台に、ほつれた毛を頬に張りつかせたままペーターはじっとこちらを見ていた。
反応はなかった。息がかかるほど近くに転びをうった俺の顔と視線が合っても、ペーターの表情に変化はなかった。
薄汚れた顔だった……砂埃にまみれ、目の下にはくまのようなものができている。その薄汚れた顔にどこか憂鬱そうな表情を浮かべ、何も言わずただぼんやりとペーターは俺の顔を見ていた。
「……喉、渇いてるだろ」
かすれる声で切り出した。その問いかけに返事はなかった。うすく開かれた唇からはどんな言葉も漏れない。
巻かれたねじを使いきった人形のように動かない彼女は、時おりの瞬きがなければちゃんと生きているのかさえわからないと思う。
「水飲んだか? 昨日」
「……」
「飲んでないなら危ないぞ。汗もかいただろうし」
「……」
返事はなかった。ペーターはただじっと目を逸らすことなくこちらを見ている。
それを確認して俺はまた寝返りをうち、元通り天井を見上げた。その破れ目から覗く空の色は、まだ薄明の濃い青のままだ。
そんな空を眺めながらもう一度同じ質問をかけようとして、けれども言葉にしないまま溜息に流した。ペーターの顔色を見れば返事など聞かなくてもわかる。それに渇いているという答えが返ってきたところで、水の蓄えがないこの状況ではその渇きをどうすることもできないのだ。
「――ハイジは、どうなんですか?」
不意に隣から声がかかった。
視線だけ向けてそちらを見た。さっきと同じように虚脱した表情で、眼差しだけが俺を凝視するペーターの顔があった。
何について聞かれたのか察しはついたが、あえて「何が?」と俺は問い返した。その質問にペーターは表情を変えず、唇さえほとんど動かさないまま「喉です」と返事をした。
「ハイジは喉、渇いてますか?」
「渇いてるよ」
「昨日は水、飲んだんですか?」
「飲んでない。一滴も」
俺がそう言うとペーターはまた黙りこんだ。だがその短いやりとりで、いま俺が相手にしているのは比較的まともなペーターだという印象を受けた。
いつかのように喋れないわけではなさそうだし、少なくとも会話は成立する。それで俺は彼女から天井に視線を戻し、おもむろにその質問を切り出した。
「どうしてあんなことしたんだ」
「……」
「やったのお前だろ。何であんなことした?」
「……自分でもわかりません」
長い沈黙のあと、ひび割れたような声で彼女はそう答えた。要領を得ない答えには違いなかったが、何となくそれがペーターの本心であるような気がした。
……いずれにしろ今さら理由などどうでもよかった。壊れてしまったものは、もう元には戻らないのだ。
「……全部やったのか?」
「はい、全部やりました」
「もう残りはないのか?」
「はい、もうどこにもありません」
「……どうするんだよ、それで」
「さあ、どうするんでしょうね」
「……死にたいのか?」
「死にたくありません」
そこだけはっきりと、強い声で
思わず頭を向け、その顔を見た。だがやはりとらえどころのない表情に変化はなかった。それだけ認めて俺は頭を戻し、またさっきまでのように天井を見上げた。
それきりペーターは喋らなかった。俺の方でも、もう彼女に聞くことは何もなかった。
確認すべきことは確認できた。確認したそれは言うまでもなく最悪の事態だが、想像がついたことだけにあまりショックはなかった。
だからといって気が軽くなったわけではもちろんない。まったく期待していなかったとはいえ、もうこの城に一切の水も食糧も残されていないという事実は重かった。
これで早晩、俺たちが生物学的な危機に直面するのは避けられない。それはとりもなおさず、昨日から延々と考え続けて答えの出ない問題にまた今日も――文字通り命懸けで向き合わなければならないことを意味する。
「――怒ってますか?」
「……」
「私がやったこと、ハイジは怒ってますか?」
「……怒ってない」
「嘘です。あんな酷いことしたのに」
「ああ……けど、本当に怒ってない」
そう言いながら俺は、その言葉通り自分がこの件について少しも怒りを感じていないことに気づいた。
泉に浮かぶカロメの空袋を目にしたときからここまで俺の中にあるのは激しい脱力であって、怒りではない。怒る相手が目の前にいなかったというのもあるのだろうが、怒ってどうなる問題でもないという諦めの方が大きかった。
……それにもとを正せばペーターをそうさせたのは、俺自身がウルスラと共に演じたあの舞台の結果かも知れないのだ。そう考えればこの状況は、間接的にであれ俺自身が招いた結果ともいえるのだ。
「私のこと好きですか?」
何の前置きもないその質問に、俺は弾かれたようにペーターを見た。
眼差しだけが訴えるようにこちらを見る、そんな彼女の表情に変わりはなかった。
突然のことにどう答えていいかわからず、交錯する視線をそのままに俺はしばらく沈黙した。ややあって時間切れを思い天井に目を戻そうと頭を動かしかけたとき、ペーターはもう一度その質問を繰り返した。
「好きなんですか? 私のこと」
「……ああ、好きだ」
天井に視線を移したあと、自分でも呆れるほど投げやりな声で俺はそう返した。
……ずっと言いたくて言えなかった言葉のはずだった。舞台前日の夜、嵐の中で彼女を失ってからどうしても伝えたくて、伝えられずにいた言葉。
だがなぜだろう、今こうしてその言葉を口に出した俺には何の感慨もなかった。
彼女の方でもそのあたりを感じたのか、少しの間を置いて回答を疑うように「本当に好きですか?」と問い返してきた。
「本当だ」
「……」
「本当にお前のことが好きだ」
「……何で好きなんですか?」
「知るかよ、そんなこと」
「……」
「だいたい理由が要るのか? そういうのに」
「……そうですよね」
静かな声で自分に言い聞かせるようにそう呟くと、それきりペーターは黙った。天井の切れ間に暗い空を眺めながら、俺もまた口を閉ざした。
……にわかに色づいたその会話に、俺は何も感じなかった。高揚もなければ、かすかな心の震えもない。言葉にして伝えた思いに嘘はなかった。だがなぜ彼女が今さらそんなことを聞きたがったのか、今の俺にはそれさえわからなかった。
自分の心が動かない理由はすぐに思い当たった。それはペーターに対する苛立ちだった。
やってしまったことはもういい、それについては何のわだかまりもない。だがまかり間違えば今日にも命を落とすかも知れないこの状況で浮ついたことを口にする彼女に苛立ちを感じずにはいられなかった。死にたくないと言ったその舌の根も乾かないうちに、だ。
死にたくないならお前はここからどうするつもりなんだ――そう問い質すつもりで俺はペーターに顔を向けた。
「……」
だが頭を傾けて見る先にペーターは目を閉じ、穏やかな寝息をたて始めていた。
声をかけて起こそうかとも思ったが、少しだけ考えてそうするのをやめた。起こしたところでできることなどたかが知れている。それに現実的な問題として、体力の消耗を防ぐためには寝ているのが一番いいのだ。
そのことを思って、俺もペーターに倣おうと一度は目を閉じた。だがしばらくもしないうちに目を開け、寝台に身を起こして窓の外を見た。
気がつけば外はすっかり明るくなってきている。地平から太陽が顔を出すまでにもうどれほどもないだろう。俺がここでのうのうと寝に入るわけにはいかない。ペーターはいいとして俺までそうすることは、消極的な自殺以外の何ものでもないのだ。
首をめぐらしてペーターを見た。その薄汚れた寝顔を見つめながら、昨日の夜に俺を激しく混乱させたひとつの認識を、もう一度頭にのぼらせた。
断片的なウルスラの言葉と幾つかの事件を繋ぎ合わせることでわかったこと。
……言葉にするのが
『ここの崩壊は時間の問題です、あの方の精神がそうであるように』
実感はまるでなかった。夢の中か、そうでなくてもどこか遠い世界の出来事としか思えない。
感情でも理性でもまったく受け容れられないのは昨日の夜から変わらない。それでも……寝て起きて混乱から解放された頭にも、それが紛れもない事実であるという意識が張りついたまま消えない。
自分で気づいていないだけで、俺はまだ混乱しているのかも知れない。あるいは水切れのために頭がうまく働いていない、そういうことも考えられる。
……確かなものなど何一つない気がする。今こうして俺自身が考えていることさえ、もうはっきりとは信じることができない。
「……」
けれども俺は寝台を降り、脱ぎ捨ててあった靴に足を通した。
何もかもが不確かな中で、たったひとつ確かなことがあった。俺たちが今ここで死んではならないということ。何としても生き延びなければならないということ――それだけは間違いなかった。
……時間との戦いだと思った。窓の外に太陽はもう昇り始めている。その太陽を横目に見ながら靴紐を締め、立ち上がった。そのまま出口に向かいかけ――いったん振り返って静かに寝息をたてるペーターの顔を一瞥したあと、俺は足早に『王の間』を出た。
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