079 水面(2)

 早朝の『中庭』にまだ空気は冷たかった。


 顔を出したばかりの太陽を受け長い影を伸ばす椰子の間を巡り、実をつけているもので最も背が低いと思われる一本を選んだ。それでもいただきは充分に高い。優に10メートル……いや、20メートルはあるだろうか。そこから見下ろすことを思うだけで身体に力が入らなくなるのを感じる。だが降りるときの心配をする前に、まずはその頂まで登ることを考えなければならない。


「……無理だろ」


 けれども新鮮な陽光に輝く葉のを眺めて、早くもそんな意気地のない言葉が出た。


 枯れ残った葉の根本はずっと上まで続いている、それを取っ掛かりにしていけばあそこまで登って行ける気もする。の下には赤く色づいた実がたわわに実っているのが見える。その実を手にするためなけなしの勇気を奮い起こす俺を、恐怖というより危険を避けようとする本能が必死になって押し止めようとする。


 ここへ来る前、昨日瓦礫の下に隠したナツメヤシの実をすべて掘り起こしてペーターの枕元に置いてきた。これで俺が首の骨を折ったとしても、彼女はしばらく生き延びることができる。もっとも二十粒かそこらの実でどれほどの水分が摂れるかわからない。せいぜい明日まで……あるいはもっと短いということもありうる。


 そのためにもどうにかしてあそこまで登っていかなければならない。生命いのちの樹の実――いつかペーターを懐柔するために使ったその言葉は、今の俺たちにとって比喩でも誇張でもない。


 冒険だということはわかっている。それを承知の上で決意し、寝台を降りてここまで来たのだ。暑さが厳しくなってからでは遅い、ぐずぐず躊躇っている時間はない。そんなことはぜんぶよくわかっている。だが、いくら自分にそう言い聞かせてみたところで――


「……無理だって」


 腕を伸ばし少し高いところの葉の根本を掴んで、もう一度そんな独り言がこぼれた。


 例の箒を作るとき苦労したことで強靱だとばかり思いこんでいたその根本は意外に脆く、体重をかけるまでもなく簡単に剥がれ落ちてしまう。上へいけばいくほどその傾向は強まるようだし、いずれにしてもこれではまるで取っ掛かりにはならない。そしてその取っ掛かりなしにあそこまで登ってゆくことは、俺には到底できそうにもない。


「……」


 それでもやってみなければわからない。そう思って俺は見切り発車で最初の登攀とうはんを試みた。……だが登り始めてほどなく、両手、両脚で木の幹に抱きついたまま少しも動けなくなった。


 這い上がって行こうにもわずかに脚の力を緩めるだけで身体は逆にずり落ちてくる。そうならないためにはこうしてのようにただ幹にしがみついているしかない。


 しばらくそうして木にまっていたあと、諦めて地面に足をついた。それからまた木の頂を見上げ、そこへ登るための方法を冷静に考えてみることにした。


 ……葉の根本が取っ掛かりにならないことはわかった。この身ひとつで登ろうとしても間抜けな姿を晒すだけ……それもよくわかった。だとすればやはり道具がいる。あのときウルスラが手本を示してくれたように、俺もまた人間が道具を使う生き物であることを今ここに証明して見せなければならない。


「……」


 あれこれ考えた挙げ句に落ち着いたのは、昔テレビで見たどこかの原住民の登り方だった。


 高い椰子の幹に短いロープを回し、それをずらしながら登ってゆく方法。詳しいところまで覚えているわけではない……むしろうろ覚えとさえ呼べないような漠然とした記憶で、ただ登り手がロープを幹に回していたことしか思い出せない。


 本当ならそんな不確かな手段に頼りたくはない。だがこうしている間にも気温はじりじりと高くなってゆき、額には早くも玉の汗が滲み始めている。


「……チッ」


 躊躇っている時間はなかった。軽く舌打ちして俺は決意し、シャツの前ボタンを外しにかかった。


 すべて外してしまうとそのシャツを脱ぎ、椰子の木の幹に回した。両方の袖を掴んで引っ張ってみると長さ的には問題ないようだ。裸になった背中を太陽がちりちりと灼くのを感じながら木の頂を見上げた。そして踏ん切りをつけるために大きく息を吐き、勢いよく大地を蹴ってその幹に足をかけた。


「……よし」


 そうやって登り始めてすぐ、その登り方が予想外にうまくいきそうな感触を得た。


 靴底を幹にほぼ垂直に当て、シャツの両腕を引っ張って摩擦を確保する。その状態からシャツの腕を交互に引いてシャツをにじりあげると、ほんの少しではあるが上へ歩を進めることができた。


 危ういバランスを保ちながらの小さな一歩には違いない。だがそれは今の俺にとって、月面に着陸した人類の一歩にも等しい果てしなく大きな一歩であるように思えた。


 もう迷うことはなかった。中腰の不格好な姿勢はどう考えてもあのときテレビで見た原住民のそれとは違っている気がしたが、構わずに上を目指し一歩、また一歩と登っていった。


 腕を引く度にシャツがぎしぎしと悲鳴をあげるのが聞こえた。腕にこめなければならない力は大きく、顔から裸の背筋からたちまち汗が噴き出してくるのがわかった。


 だが、それも今はどうでもよかった。ただ汗で手が滑らないようにしっかりと袖を掴み、ゆっくりと着実に幹をいった。


 この登り方でいけば腕が駄目にならない限りどこまでも登って行けるという予感があった。その予感に衝き動かされるように、手と足に意識を集中してそのぎこちない登攀を続けた。


「……」


 そうして登り続け、やがて木の高さも半ばまできたところで俺はいったん登攀の手を休めた。半信半疑だった気持ちが確信に変わるのを感じつつ初めて地面を見下ろし、それからまた目指すべき木の頂に目を戻した。


 ……そこでふと、その頂に到達したあとのことが気になり始めた。


 このままあそこまで登っていけたとしてその先どうすればいい? 両手が塞がっているこの状態ではあの実に手を伸ばすことができない……そんな当たり前のことに今さら気がついたのだ。


 最初は葉の茎を掴めばいいと思った。もう一粒一粒がわかるほど近くなった実の房の上、黒々と生い茂る葉の茎はちょっとのことではびくともしなさげな太さとしなりを見せている。……だが実際にぶら下がったときその茎が折れないという保証はない。


 もう一度下を見る……落ちるにはここでも高すぎる。下手をすれば即死、そうならないにしても骨の一本や二本は覚悟しなければならない。


 そうなるとまたしかない。あの茂みに腕を突っこんでだっこちゃんになれば、どうにか片手を実の房に伸ばすことができる……ようにも思える。だが首尾よくそうできたとして、そこから元通りシャツを幹に回してこの体勢に戻ることができるのか。


 それに……そうだ。そもそも考えてもみなかったがこの方法でここまで登ってはきたものの、果たして同じ方法で降りてゆくことはできるのだろうか?


「……」


 もう一度頂を見上げ、そこにたどり着いた自分を想像した。……登り始める前にそうしたときのように身体から力が抜けるのを覚え、躍起になってその想像を頭から追い出した。


 とにかくあそこまで登るしかない……その先は登ってから考えればいい。半ば自分に言い聞かせるようにしてシャツの袖を持ち直し、その頂を目指してまた一歩を踏み出した――その矢先だった。


「――!」


 気がついたときには両腕を後ろにまわして地面に尻もちをついていた。呆然と椰子の木を見あげ、シャツが幹の中程にぶら下がったままになっているのを認めて、ようやく自分が足を滑らせて落ちたのだと理解した。


 ……まず思ったのはどうやってあのシャツを回収しようかということだった。だがそう思って立ち上がろうと手に力をこめた瞬間、痺れていた手首に内側からハンマーで殴るような激痛が走った。


「ぎっ……!」


 呻いて思わず腕を引いた。前に回してみて、痛みを覚えたそれがペーターの噛み傷が残る左手首だと知った。落ちたときに突いて捻挫したものか……それとも骨が折れているのか。


 そう思っている間にも痛みはどんどん酷くなり、堪らず俺はその手首を押さえてうずくまった。


「……ぐぐ」


 しばらく我慢しても痛みは治まらなかった。やはり骨が折れているのかも知れない。


 全身に脂汗をかきながら、やがて俺は地面に仰向けになった。裸の背中に先の尖った石がちくちくと痛い。……けれども手首を内側から殴り続ける激痛に比べれば、そんな痛みはどうということもない。


 たどり着くことができなかった木の頂と、その幹に間抜けにぶら下がっているシャツを眺めた。


 たわわに実る赤い房は遙か遠く、もう少しで手が届きそうだったことが嘘のようだ。その実よりだいぶ下にシャツははためくこともなく、気落ちしたようにぐったりと項垂れている。


 ……あの高さまでは登ることができたのだという思いが、逆に溜息をつきたくなるほどの深い疲労を俺にもたらした。


「……」


 手首の痛みは徐々に耐え難いものになってゆく。だがそれももうどうでもよかった。


 死んだように横たわったまま、俺はもう一度木に登る方法を考え始めた。まずシャツを回収しなければならない。そのためにはあそこまで登っていかなければならない。けれどもそのためにはまずあのシャツが必要だ。それにこの手首でさっきと同じようにあそこまで登って行くことができるのだろうか……。


「……何やってんだろうな」


 思わずそんな呟きがこぼれた。


 本当に、俺は何をやっているのだろうと思った。裸の上半身に汗はあとからあとから吹き出してくる。だがその汗はもう、にわかに手首を襲った激しい痛みのためのものではない。


「……本当に何やってんだろ、俺」


 もう一度呟いて身体を起こした。ふらふらと覚束ない足取りで林を出ると、容赦のない陽の光があざけるように顔を灼いた。

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