243 掛け違えたボタン(2)

「私はまだ納得できてませんよ? もう一週間ないっていうのに、どうして今日まるまる個人練習なんですか」


「今日しかないからだろ。個人練習できる日は」


「……それはまあ、そうかも知れませんけど」


 大学から出ると、待っていたかのようにペーターは隊長の命令への不平を口にし出した。それをたしなめるのはいつも通り俺の役目だ。


 実際のところ、隊長の言っていることは何も間違っていない。明日の水曜日は常会としての最後の練習。明後日の木曜日は団員だけで本番形式の通し稽古。金曜日は舞台の仕込み。土曜日は裏方つきのゲネプロ。そして日曜日が舞台の当日である。つまり明日から当日までの四日間、我々にはもう個人練習できる時間がないのだ。


「個人的なやり残しは今日中に片をつけろってことだ。隊長が言ってたのはそういう意味」


「そうなんですか? でも私には個人的なやり残しなんてないと思いますよ。あるのはかけあいでのやり残しばかりで」


「おまえにはなくても俺にはある」


「え? あ、それじゃつき合っていただいたの迷惑でしたね……」


「ああ、まあ別にいい。舞台に必要なことだからな。それに――」


 それにアイネと顔を合わせるのが気詰まりだから――口先まで出かかったその言葉を、俺は寸前で呑みこんだ。ペーターは一瞬不思議そうな目で俺を見たが、何も言わず視線を前に戻した。


 しばらくの沈黙があった。相変わらず人気ひとけのない商店街に、二人分の靴音が単調に響いた。


 ……それにしてもアイネだった。今朝のあいつは本当に取りつく島がなかった。怒ったときはいつもあんなものと言えばあんなものだが、おはようと言って返してもらえなかったときにはさすがに唖然としてしまった。一晩越したのに怒りが持続しているというのも珍しいし、キリコさんが心配するのも無理はない。経験上、こういうときは時間を置くしかない。だから今日一日アイネと顔を合わせずに済む隊長の命令は、正直、ありがたかった。


「それにしてもうちは恵まれてますよね」


 行く手に見えてきたトタン屋根の小屋を眺めながらペーターがしみじみと呟いた。言わずと知れた俺の在所だ。次の言葉は決まっている。彼女は俺とここを横切るたびにこの台詞を口にする。それでも俺は「何が?」と返し、ペーターにその続きを促す。


「先輩のおうちのことです。専用の稽古場がある演劇サークルなんてそうありませんよ」


「ああ、まあな」


 用意しておいた生返事でその短い会話を終えた。彼女からもそれ以上の言葉はなかった。


 俺が入団して以来、ヒステリカには専用の稽古場ができた。俺が住んでいる小屋がそれだ。もともとは祖父が道楽でやっていたピンク映画館で、その祖父が亡くなるのと同時に俺のものになった。親が存命なのに俺が相続するというのもおかしな話だが、税金などを考えるとその方が得ということらしい。もっともそれは表向きの理由で、さびれた場末の商店街にある、ほとんど資産価値のないあばら屋を体よく俺に押しつけたというのが実際のところなのだろうが。


 ただもともとその小屋の近くにある今の大学への進学を志望していた俺にとってその相続は決して悪いものではなく、大学入学を機に俺は親元を離れて小屋に移り住んだ。そしてそれはヒステリカという劇団にとってはもっけの幸いとなった。天井が低い舞台には照明を吊るすことができず、何より狭すぎるため公演にはどのみち使えないが、ちょっとした練習を行うにはなかなかに悪くない場所だったのである。


 隊長とキリコさんにより現場の視察が行われて以来、ヒステリカの活動はもっぱら俺の小屋で行われることになり、ペーターの言うように専用の稽古場の様相を呈している。事実、明日の常会も明後日の通し稽古も、その専用の稽古場でやる予定になっている。


 いきおい、俺の小屋がヒステリカメンバーのたまり場になるのは自然な流れで、三日を空けず誰かがいるというのが現状だ。特にペーターは何かと理由をつけてはほとんど毎日のように入り浸っており、おかげで彼女の家お抱えの運転手は――御大層にそんなものがいる家なのだが――俺の小屋までの道ならば目をつぶっても走れると豪語しているのだという。


 そうした事情を考えれば、ペーターが小屋の前を通るとき必ず口にする『恵まれている』という言葉は、ただヒステリカのことばかりを言っているのではないということがわかる。彼女はそこに二重の意味を含ませており、もちろん俺はそのことに気づいている。そしてもちろん、俺はそれを無視している。……高校時代からずっと続いているこの微妙な関係は、好むと好まざるとにかかわらずこれからも続いていくのだろう。


「それで、そのお店というのはどこにあるんですか?」


「もうすぐそこ。ほら、あの店だ」


 そう言って指さしたあと、俺は「おや?」とつい口に出した。いつもならこの時間はあがっているはずのシャッターが半分まで降りている。


「お休みですか?」


「……どうだろう」


 同じ商店街ということもあり、この店は俺の行きつけである。古く汚い店だが意外に品揃えが豊富なことと、ときどき思い出したように珍しい商品が並ぶことが気に入っていて、モデルガンは必ずこの店で買うことにしている。土日、祝日関係なくいつも開いているのも取柄のひとつで、この店には休みというものがないとずっと信じていたのだが……。


 だがそう思っていたはしから店主の老人がそのシャッターをくぐり、店から出てきた。そして模型の箱だろうか、手に持ったボール箱にはたきをかけはじめた。よほど埃まみれだったとみえ、煙のようにもうもうと埃が舞いあがっていくのが見えた。


「――ん?」


 老人の方で俺たちに気づいたようだ。一頻りはたきをかけた箱を手にしたまま、声をかけられるのを待つようにこちらを見つめている。店主とは会計のときすらほとんど話をしない間柄だったので少し気が引けたが、思いきって声をかけてみることにした。


「あの、今日はお休みですか」


「……急ぎかね?」


 こちらの質問には答えず、値踏みするように俺とペーターを眺めながら老人はそう返した。


「急ぎと言えば急ぎです」


「ほう、どんなわけで?」


 ぎょろりとした目をこちらに向け、ぶっきらぼうな口調で尋ねてくる。不躾な応対にかすかな苛立ちを覚えたが、俺はその気持ちを抑えて、演劇の小道具としてモデルガンを買いに来たことを老人に説明した。


「――演劇専門の店もあるにはあるんですが、やはりそういうところだと高くついてしまうんで。俺……僕が演劇で使っている銃も、ここで買わせていただいたものなんです」


 俺が一通り話し終えると、老人は何も言わず店の中に戻っていってしまった。機嫌でも損ねたのだろうか……そう思い待っているうち、老人はまたのっそりとシャッターをくぐって出てきた。手に小さな鳶色の箱を持っている。


「これはどうかな」


 さっきと同じようにはたきをかけて埃を払い、老人はその箱を俺の方に差し出した。蓋を開けてみると、中に入っていたのはすっぽりと手に収まるほどの小さな銃だった。


「これは、デリンジャーですか?」


「ああ、そうだ」


 俺の質問につまらなそうに答えると、老人はまた店の中に入っていってしまう。俺は箱を脇に抱え、そのデリンジャーを注意深く眺めた。


 精巧な象嵌の施された美しい銃だった。二本の銃身を備えた本体は総金属製のようで、小振りではあるがずっしりと重い。ぱっと、本物の銃にしか見えない。撃鉄を起こし、引金を引く。がちり、と音がして、手には小さいながらもはっきりとした反動があった。


「……どうですか?」


 いつの間にか隣にいたペーターが覗きこむようにして尋ねてくる。俺はもう一度その銃のはじき具合を確かめたあと、それをペーターに手渡した。


「試してみろ」


「はい」


 そのデリンジャーはあつらえたように彼女の小さな手に収まった。俺のやり方を見ていたのだろう、ペーターはぎこちない手つきで撃鉄を起こし、引金を引いた。金属の鈍い音が響き、彼女の細い手首がわずかにぶれるのが見えた。ベストだ、と俺は思った。


「これにしよう」


「え? いいんですか? そんなに簡単に決めちゃって」


「何時間探しても、たぶんこれ以上のものは見つからない」


「そんなにいいものですか」


「ああ、これがベストだ」


 彼女に告げた通り、何時間探してもこれ以上のものは見つからないと思った。


 今回の道具を選ぶうえで一番の懸案はペーターの小さな手でうまく扱えるものがあるかということだったが、この銃ならばその点は申し分ない。撃ったときの反動が見た目にもはっきりとわかるし、『愚者』が隠し持つ銃としてデリンジャーというのは実に悪くない。あれだけの説明で店主はよくこんなぴったりのものを選んでくれたものだと、俺は内心に深く感心した。


「ならこれに決めました。でもいくらなんでしょう? こういうものの値段ってよくわからないんですけど」


「問題はそこだな」


 素人目に見てもその銃はかなり高価なものに思えた。俺は半開きのシャッターから頭だけ突っこんで中の様子を窺った。店内は雑然としており、通路から棚の上からそこかしこに商品の箱が転がっていた。老人は薄暗いその店の奥で、箱の中身を確かめて帳簿のようなものに何やら書きつけているところだった。


「棚卸しですか?」


「……そうだよ」


「ちょうどよかったんで、あれいただきたいんですが」


「ああ、持っていきなさい」


「幾らですか?」


「だから持っていっていい」


「え?」


「お代はいらないってことだよ」


 思いがけない老人の言葉に、俺は頭を外に戻しペーターと顔を見合わせた。彼女も話を聞いていたらしく、申し訳なさそうな表情で頭を左右に振った。俺はまたシャッターの下に頭をくぐらせた。


「そういうわけにもいきませんから……」


「どうしてだね? 儂が持っていっていいと言っているんだから、遠慮せず持っていけばいい」


 口調こそ穏やかだが、老人の声には有無を言わせない響きがあった。少し考えて、俺は言った。


「ではお礼に棚卸しを手伝います。何かできることはありませんか?」


「何もないよ。そんなことをされたら却って迷惑だ。棚に飾るんでも戦争ごっこに使うんでもなく、芝居に活かしてくれるんなら無料タダで持っていっていい――」


 話はそれで終わりだった。俺はそれ以上何も言えず、ペーターと一緒にお礼を言って店をあとにした。


 ……今までそんな気前のいいところを見せたためしがない店主が、なぜ今日に限ってという疑問はあったが、あまり深く考えないことにした。目的の小道具としてはいいものが見つかったのだ。そのこともあってか、帰り道のペーターはいつになく上機嫌だった。


◇ ◇ ◇


 小屋で軽い昼食をとってからペーターとは別れた。演技を見てほしいと彼女は言ったが、隊長の命令を口実に断った。ペーターを帰してしまったあと、俺は昨日の会議で隊長からもらった『虎の巻』を持って、小屋のほど近くにある公園まで歩いた。


 公園には誰もいなかった。そこは子供の頃によく遊んだ場所であり、錆の浮くブランコもペンキの剥げた滑り台もその頃から何も変わっていない。大学に入ってからも何度か足を運んでいるが、いつ来ても忘れられた場所といった印象を覚える。周囲に人家はあるはずなのだが、こと最近、この公園で年頃の子供が遊んでいるのを見たことがない。


 北の隅に立つにれの木の木陰に、俺はベンチに腰掛けて『虎の巻』を開いた。粗末な藁半紙の冊子には昨日の会議のメモが青いボールペンのインクで書きつけてある。そのメモと、印刷された文字――決して上手いとは言えないがどことなく味のある隊長の筆跡――を照らし合わせながら、ひとつひとつの場面のイメージを頭の中に形作っていく……。


「……」


 だが集中は長続きしなかった。思い出さないようにしていたが唐突に意識に浮かび、頭の中に描いていた舞台のイメージは霧散してしまった。もう一度集中し直そうとして……それを諦め、『虎の巻』を枕に俺はベンチに寝転がった。深緑の葉々の間を縫って、ぎらぎらと力強い木洩れ日が俺の目を射た。


「はぁ……」


 ……気にかかるのはやはりアイネのことだった。隊長のはからいでこうして距離を置いてはいるが、明日まで顔を合わせないでいたとしてそれで解決できるかと問われれば、自信をもってイエスの答えを返すことはとてもできない。……と言うより、逆にこのままアイネと話さないでいていいのかという思いがふつふつと沸きあがってくる。


 ――今回の件は、いつものそれとはどこか違う気がする。昨日の別れ際、アイネの様子は明らかに普通ではなかった。学院での思い出を延々語ったあと思い出したように怒り出し、俺の頬をひっぱたいて走り去ってしまった。……そのときのことを思い返すと胸の奥に灰色の靄がかかる。その靄が苛立ちと呼ばれる類の感情であることを、こうしてベンチに寝そべっている今の俺は理解できる。


「……」


 俺はアイネを窮地から救った。カラスの部屋に連れこまれようとしていたのを助けたのだ。その前提から考えると、怒るのはむしろ俺の方ということになる。……まるで道化だ。颯爽とヒロインを救い出し、いざ閉幕というところでそのヒロインに平手打ちを食らったのだからざまはない。それで喝采を受けられるのなら我慢もするが、あいにくあの場所には笑い声をあげる観客の一人もいなかった。


 ……ただそれはあくまで俺の側に立った一面的な見方に過ぎない。


 一歩退いて考えてみる――俺があんなことをしなくてもアイネは自力でカラスの手を振りほどいたかも知れない。その可能性は大いにあるし、だとすれば俺の行為はまったくの無駄だったということになる。しかしそれでも俺がアイネのために動いたという事実に変わりはない。その結果ひっぱたかれたのだから、いずれにしても俺には怒る権利があり、逆にアイネはそれほど怒らなくてもいいはずだ。


 だがそれすらも一方的な見解のそしりを避けられないだろう。なぜならその見解には当然考慮されるべき重要な要素が抜け落ちているからだ。


 ……で、核心に入る。俺はたしかに誤解を招くようなことを言った。『あの発言』にアイネが怒ったのだとしたら――まあ間違いなくそうなのだろうが――非は俺にある。極端な言い方をすれば、それはアイネの尊厳の問題だ。好きでもない男から突然の恋人宣言……それがマイナスの方向に作用したときどういった結果をもたらすものかは、俺も客観的には理解しているつもりだ。


「……」


 ただあれがその場限りの方便であったことくらいアイネにも理解できるはずだ。俺の見立てでは、プライドの高いカラスがあれを吹聴してまわることはありえない。それにあいつはつまらない男だが、昨日のやりとりのみをもってあれを周囲に触れまわるような人間ではない。そのくらい俺は知っている。アイネも……おそらく知っていると思う。


 ……そう、誰の目にもわかるほどあからさまな、あれは方便だった。アイネにそれがわからなかったはずはない。礼がほしくてやったことではないが、代わりに平手打ちとあんな捨て台詞をもらったのではいくら俺でも苛立ちを禁じ得ない。不適切なことを言ったのは認める。だが冷静に考えても理はこちらにある。怒るべきは俺であり、アイネではない。少なくとも彼女が一夜を越しても怒っているのは道理に合わない。


「……」


 アイネは可愛いげがないほど理性的な女だ。理がどちらにあるかちゃんと認める頭を持っているし、感情でそれを誤魔化したりしない。そういうところでは本当にさっぱりした気持ちのいい女なのだ。だから今回の件にしたところで、今朝になれば向こうから譲歩の気構えを見せてくれるものと半ばそう信じていた。


 ……けれどもアイネが見せたのは譲歩ではなく断絶の気構えだった。もう週末は本番だというのに、あいつはいったいどういうつもりなのだろう。可能性としては二つ考えられる。昨日のこととは別に何か意味があってそうした態度を取っているのか――あるいは俺に言われたあれが彼女にとってそれほど耐え難いことだったのか。


「……っ!」


 またにわかに苛立ちが沸きあがってくるのがわかる。思春期の少女ではあるまいし、そんなことを深刻に気かけるだとは思わなかった。だが……そういうことならもう一度きちんと謝ったほうがいいのかも知れない。もしあの俺の発言がアイネの中にある何かを傷つけたのだとしたら、どんな言い訳をもってもそれは許されることではない……。


「……ん?」


 どこか遠くの方で蝉の鳴く声が聞こえた。今年になってはじめて耳にする蝉の声だ。俺はしばらく耳を澄ませてその声に聞き入った。


 今年も、もう夏だ。


 またこの季節が来て――あれからちょうど二年が経ったという感慨を、重く深い溜息にのせて空に還した。

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