242 掛け違えたボタン(1)

「――お言葉を返すようですが部長、僕はこの台本通りりましたが?」


 じめじめした薄暗い体育館に俺はカラスと向かい合っている。彼は右腕を突き出し、その先に持った台本をひらひらと揺さぶって見せる。長雨が薄い屋根を鳴り物に、ひどく陰鬱で耳障りな旋律を奏でている。


「あのな……そういうことを言ってるんじゃないんだ」


「じゃあどういうことを言ってるんです? 頭の悪い僕にもわかるように説明してくれませんか。僕は通りにりました。練習の時間を惜しんで検討を重ねた、ありがたい通りにね」


 そう言って彼はまた見せつけがましく台本を揺さぶる。湿り気を含んだ藁半紙の束が広い体育館に気の抜けた音を響かせる。他の部員たちは嵐を避けるように押し黙っている。誰のものだろうか、小さな咳払いがその沈黙を乱し、また元に戻る。


「僕が台詞を間違えましたか? どこか一言でも間違ってましたか?」


「おまえが台詞を間違えないことくらい、よく知ってる」


 彼は台詞を間違えない。彼が演技の中で台詞を噛んだり間違えたりするのを、少なくとも俺は一度も見たことがない。機械のように正確な台本通りの演技、それが彼の役者としての矜持に繋がっていることは理解している。それを見込んで彼に役を宛ったのは俺だ。けれども――


「……もう止めてください、部長。台詞を間違えたのは私です。申し訳ありません……本当に申し訳ありませんでした」


 今にも泣き出しそうな顔で彼女ペーターが仲介に入る。その言葉通り、台詞を違えたのは彼ではなく彼女だ。それはほんのささいな間違いだった。よほど注意深い観客でなければ気づかないほどの。だがその間違いを無視して彼が台本通りの台詞を押し通したことで齟齬は誰の目にも明かなものになった。


 ――演出である俺が見過ごせないのは彼女ではなく彼だ。それでも台詞を間違えたのは彼女で、そのためにこの状況があるのは疑いないから、彼女は必死になって責任を自分に持っていこうとする。


「悪いのは私です。本当に申し訳ありませんでした。……お願いします、もう一度やらせてください。今度はちゃんとやります。ちゃんと気をつけて頑張りますから……」


 消え入るような声で彼女が言う。けれども彼女は決して『台詞を間違えない』とは言わない。もう一度やってもまた台詞をたがえる、それが彼女にはわかっているのだ。


 ……だが俺は彼女を責めない。俺に彼女を責めることはできない。なぜなら彼女は台詞を違えるのではない。ただ役に入ってしまうだけなのだ。そうして役に入りきってしまった彼女は、ときとして台本に書かれていない台詞を喋り出す。それはまったく仕方のないことなのだ。それを理解したうえで彼女に役を宛ったのは俺だ。だから俺は彼と彼女に向かい、こう言わざるをえない。


「問題が流れた。話を元に戻そう」


「……でも!」


「いいから黙ってろ! 俺が問題にしているのはカラスのことだ」


「聞いていますよ、さっきから。僕の演技に悪いところがあれば直します。だから僕にも理解できるようにはっきりとそれを聞かせてください」


「ならはっきり言うけどな、俺にはおまえが演劇を履き違えてるように思えてならないんだよ」


「へえ……僕がどのように演劇を履き違えていると?」


「台本を間違えないでくれるのは結構だ。けどな、台本をただ間違えず読みあげるのが演劇、ってのは少し違うんじゃないのか?」


「……何を言い出すかと思えば。それなら何のために台本なんてものがあると?」


「たいした間違いじゃなかっただろ。あれくらいアドリブでどうにかできたはずだ」


「質問に答えてくれませんか。それなら何のために台本なんてものがあるんです?」


「物語の軸を定めるために決まってるだろ。俺が言いたいのは――」


「物語の軸を定めるのが台本なら、どうしてそれを歪めた人ではなく守り通した僕に矛先が向くんですか? そんなに軽いものなんですか? この台本は」


「そうじゃない。俺が言いたいのは――」


「問題を流さないでください。この台本はそんなに軽いものですか? これまでのやり方じゃ駄目だってあんなに長い時間をかけて、それでようやく出来あがった台本を無視するのが部長の言う『改革』ですか? ……つき合いきれませんね。馬鹿にするのもいい加減にしてほしい」


 彼の声のトーンが下がっている。煮えきらない論争に嫌気がさしてきたのだ。……このまま続ければ彼はこの場を去る。決裂はすぐそこに見えている。


「もう止めてください! 悪いのは私ですから!」


 その決裂を止めようと彼女が割りこんでくる。必死になって悪いのは自分だと言い張る。――だがここで彼女は唐突にその主張を止める。そうしてきっ、ときつい目で彼を見据え、続きの言葉を口にする。


「でもカラス先輩、部長の気持ちも考えてあげてください。役者が演出に逆らったら舞台にならないじゃないですか。こんな風にいがみ合ってる時間、私たちにはないじゃないですか」


「……わかってますよ。言われなくても」


「だったらどうして演出に逆らったりするんです。こんな不毛な喧嘩して何になるんですか。台詞間違えて悪かったのは私ですけど、全然それに合わせようとしなかったカラス先輩も悪いって、部長が言ってることはただそれだけじゃないですか。それがどうしてこんな喧嘩になるんですか。こんなんじゃまた……」


 俺が言いたくて言えなかったこと。それを彼女は代弁してくれる。そう、彼女はいつだって俺の味方だ。……けれども今この場であからさまに味方をしてくれることを俺がどう感じるか――この胸の底からもやもやと湧き起こってくるどす黒い感情を、彼女はわかっていない。そういう彼女の態度を彼がどう受け止め、どう使ってくるかということも。


「……勘弁してくれませんか。で来られると本当にげんなりする」


 結果、俺が最も嫌悪するこの指摘がくる。一方的な誤解に基づく一方的な指摘。それが誤解であることを彼はもちろん熟知している。熟知しながら――反論できない俺の苦しみをよく知りながら、真綿で首を締めあげるように彼はその指摘を続ける。


「裁判での除斥事由って知ってますか? 公正を期すためにを除くシステムができてるんですよ法律では。たとえば当事者のどちらかと判事が夫婦とか内縁の関係とか、ならどうしたって公平にはなりませんから。……だいたいそうなるとさっきのにも別の裏が見えてくる。だとしたら僕は本当にいい面の皮だ」


 彼はやれやれというように肩をすくめ、白けきった目で俺を見る。彼女は何かを期待するような目を俺に向けている。胸の奥に渦巻くどす黒い感情をやり過ごそうと、俺は痛いほど歯を食いしばる。


 ……ここで俺が爆発したらすべてが終わる。この二人なくして『車中の人々』の完成はない。彼と彼女の演技が噛み合ってはじめて舞台は回り出す。もしそれが叶うならば……。逆にそれが叶わなければこの夏も――この最後の夏も、学院に勝つことはできない。


 沈黙し歯を食いしばったまま、そう何度も自分の心に言い聞かせる。そんな俺を嘲笑うかのように彼はなおも続ける。


「やれやれ。今期に入ってからこの手の衝突ばかりだ。こんなことは言いたくありませんが、問題はもっと根が深いんじゃないですか? ねえ部長、ひとつ考えてみてはくれませんか。僕としてはあなたの提唱する『改革』とやらがそもそもの原因だという考えを捨てきれないんですよ。つまり台本がどうこうということではなく、見切り発車で我々の演劇の方向性を大きく変えてしまったことが――」



 ――砂を噛むような目覚めだった。自分がその夢から確かに抜け出ていることを確認して、俺は大きく溜息をついた。


 ……かつて毎晩のように見続けた演劇部時代の夢。高校最後の大会に向けて部長兼演出をやっていた頃の苦痛に満ちた日々の思い出。外はまだほの暗く、窓には俺の顔が映っている。……酷い顔だった。だが夢の中にいたときは、もっと酷い顔をしていたのだろう。


 もう一つ、今度は少し小さめの溜息をついた。そうして、今朝はまだましだと自分を慰めた。


 ……その通り、今朝の夢はそれでもまだましな方だ。カラスに責め立てられる場面で終わったのだから、いつもよりは――あのあと俺が激昂して心の中にあるすべてをぶちまけ、仲間たちがみんないなくなってしまう、あのいつもの終わり方に比べれば……。


 時計に目を遣るとまだ五時だった。


 朝練までにはだいぶ時間がある。だがもう一度寝直す気にはとてもなれなかった。俺は寝台に身を起こし、ぼりぼり頭を掻いた。そのあとまた溜息をつき、これから朝練まで何をして過ごすか――とりあえずそれについて考えることにした。


◇ ◇ ◇


「随分とまたご機嫌斜めだね。今朝のアイネちゃんは」


 練習の中休み。俺とキリコさんは会館前の石段に腰掛け、掛け合いを続けるアイネとペーターを見ている。


 二人の様子は普段通りで、アイネにしてみても特にいつもと変わるところはない。だからキリコさんが言っているのは『俺に対してのアイネが』ということになる。事実、今朝のアイネは俺に対してだけ無愛想で、おはようの挨拶さえまともに返してくれなかった。


「で? どうしてまたあんな感じになってるんだい?」


「さあ……生理か何かじゃないすか」


 原因は何となく思い当たるふしがあったが、軽々しく口に出せる話ではない。やる気のない俺の返事に、キリコさんはつまらなそうに小さく鼻を鳴らした。


「あの子はきっちり毎月二十日からだよ。そのあたりはハイジもよく知ってるだろうに」


「あのですね……知るわけないでしょ、そんなこと」


「あれ、そうかい? そのあたりは押さえとくと便利だよ。あの子はわりと軽い方みたいだけど、それでもつらいにはつらいんだからね。きちんと気遣ってあげるに越したことはない。それが男の優しさってもんだろ」


「……肝に銘じますよ」


 そう言って俺はキリコさんの顔から視線を外した。こちらを慮ってくれているのはわかるが、いい加減その厚意がうざったい。何よりこんな話をしていることを万が一にもアイネに知られたくなかった。自分で切り出した手前キリコさんばかりを責められないが、この手の下品な冗談はアイネの最も嫌いとするところなのだ。


 そう思い、俺は恐る恐るアイネに目を遣った。……だが彼女はこちらを気にする素振りもなく、プラタナスの木陰で熱心にペーターとの掛け合いを続けていた。


「――お姉さんに相談してみる気にはなったかい?」


「何をですか」


「ハイジがあたしに隠してる、その何かをさ」


「なりませんね。放っといてください」


「やれやれ、いいのかねえ。この大事なときだってのにさ」


「放っとけば元に戻りますから。いつものように」


「……まったく同じお返事だこと」


「何か言いましたか?」


「いや、何にも」


 それからまた俺とキリコさんは掛け合いを再開した。けれども案の定というべきか、最後までいまいちのりきれないものに終わった。当然、キリコさんからの辛辣なお叱りを覚悟したのだが、今朝に限って彼女は何も言わなかった。


 ……気を遣われているな、と思った。口ではどんなに無遠慮なことを言っても、キリコさんはいついかなるときでも俺たちを優しく気遣ってくれるのだ。


 だが気を遣ってくれたのはキリコさんばかりではなかった。朝練の終わり際に隊長の口から、『本日中における団員同士で集まっての練習禁止』という命令が下された。今日という一日を各人が自分の演技を見つめ直す時間にしろということだ。このタイミングでそうした命令を下す隊長のいかつい顔の裏に、への配慮を読み取らないわけにはいかないだろう。


 そんな隊長の命令に、二言、三言ペーターが反対の意見を口にしたが、他の三人が揃って承服しているのを見ると彼女も口を閉ざした。キリコさんは研究室に戻り、アイネは授業に向かった。隊長は交流会館に残って何か作業をすると言っていた。


 そうして俺は昨日の約束に従い、小道具のモデルガンを買うためペーターと共に町に出た。

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