241 どうして(3)

 ――マンションからだいぶ離れても苛立ちは晴れなかった。カラスをやりこめたことでわずかに溜飲は下がったが、親友を捜しに来たことにつけこんでアイネを部屋に連れこもうとしたあいつの下衆ゲスさ加減に反吐が出る思いだった。


 こんなに腹が立ったのは本当に久し振りだった。だからアイネに「痛い」と言われるまで、俺はそのことに気づかなかった。


「え?」


「……もういいでしょ。いつまで握ってるのよ」


 そこまで言われてようやく俺はアイネの手を握ったままでいたことに気づいた。


 慌てて手を離すと、彼女はその握られていた手をぎこちなく閉じたり開いたりした。その仕草でよほど強く握っていたことがわかり、俺は「ごめん」と謝罪の言葉を口にした。


 ……アイネから返事は返ってこなかった。赤い西日を背に受けてその表情はよくわからないが、どこか怒っているようにも見えた。


 強引に連れ出してしまったことを怒っているのだろうか。……いや、違う。おそらくアイネの気に掛かっているのは、そこで聞くべきことをちゃんと聞けなかったことだろう。


「さっきリカに会ったよ」


「え?」


 やはりそうだったらしく、アイネはそこではじめて俺に顔を向けた。


「会うには会ったけど、俺の顔みたらすぐいなくなった」


「……なにそれ」


「俺にもよくわからない。事故か何かで人だかりができていて、その中にいたんだ。おおかた会議をサボったのが気まずかったんだろ。でもまあ、ちゃんといたことはいたから」


 アイネは納得のいかないような顔つきで俺を見ていたが、やがて「そう」と一言もらし、俯いてしまった。あの現場で見たままを伝えなかったのは俺なりの配慮だったが、そんなアイネを見ていると居たたまれない気持ちになってくる。


「携帯に電話しなくて、ごめん。ちゃんとそうしてれば、わざわざあいつの顔見なくて済んだのにな」


 言ったそばから鳴りを潜めていた怒りがまたむらむらと湧き起こってくるのがわかった。いっそこのままとって返して殴ってやりたいくらいの気分だった。これまでいくらカラスに腹が立っても、あいつを殴ろうとまでは思わなかった。だが今回の件はどう考えても度が過ぎている。


「だいたいリカも、何だってあんなやつと……」


「……優しくしてくれるんだって」


 思わず口にした俺の疑問に、独り言のような調子でアイネは答えた。


「え?」


「二人きりのときはすごく優しくしてくれるんだって」


「……」


「きついことは何も言わないし、お店とかでもぜんぶ奢ってくれる。服も靴も時間かけて選んでくれて、何にもないときにプレゼントしてくれる。どこかのお姫様みたいに扱ってくれるんだって、リカはそう言ってた」


「……へえ」


 ぽつぽつとアイネが語るのを聞きながら、俺はなぜ彼女がそんな話をするのかわからなかった。そのことを尋ねようとして……なぜか尋ねられなかった。


 二人の間に沈黙が流れた。そうして俺たちはしばらく黙ったまま夕暮れの道を歩いた。


「……前に聞かれたことだけど」


 沈黙を破ったのはアイネの方だった。そう前置きして、彼女は静かにその話をはじめた。


「わたしが学院を出た理由。少し長くなるけど……聞きたい?」


 ――それはもうずっと前に俺が何気なく彼女に尋ね、保留になっていた質問だった。アイネが内部進学のある私立校のエスカレーターを降りてうちの大学に来た理由……。


 二人の分かれ道までにはまだだいぶ距離がある。それを確認して、俺は「聞きたい」と言った。その答えにアイネは小さく頷き、語りはじめた。


「知ってると思うけどあそこは中高一貫のお嬢様学校で、中にいたのもそういう子たちばかりだった。わたしはそういうの柄じゃないから、ずっと出ようかなと思ってはいたの。一緒に出ようってリカに誘われてたのもあるし。あの子はわたしよりはっきりしていて、高校にあがるころにはあと三年で出るって、まわりにそうふれまわってたから」


「……なるほど」


 何となくわかる話だった。学院は完全無菌の淑女養成が売り文句で、全寮制ということはもとより塀の上にまで立っている。


 口の悪い連中は『収容所』と呼んではばからないし、実際に俺も何度かその名で呼んだことがある。そんなところにリカやアイネがいたのでは、それは息苦しくもなるだろう。


「……でもね。高二の冬までわたしは決心がつかなかった。親はそのまま行ってほしいようだったし、学院にはリカの他にも友だちがいたから。大学――学院の大学だけど、そこに演劇部があって、先輩から誘われてたってこともある。うち出た子はみんなそこに入ったから。わたしもあのまま行ったら、当然そこに入ってたと思う」


 それもわかる話だった。学院には大学から入る人も少なからずいるが、そういう手合いはエスカレーター組に比べて肩身の狭い思いをするらしい。


 言う人に言わせれば、学院を出るということは中学からの十年間を塀の中で過ごすということであり、それは彼女たちの親にとって――そして一部の彼女たち本人にとって、生涯を通して誇れるステータスになるということなのだそうだ。


「でも、結局わたしはそうしなかった。高二の冬に決定的な事件があって、それでわたしは学院を出ることにしたの。親には反対されたし……リカ以外の友だちには泣かれたけど、わたしはもうそうするしかなかった」


 『事件』という言葉を口にするとき、アイネの唇が少し震えたように見えた。本当に大事なことを話すとき彼女の唇は震える。……俺は黙って話の続きを待った。


「その事件について話す前に説明しておくとね、あそこは名前だけじゃなくて、ちゃんとしたなの。朝夕には神父様のお説教があるし、日曜には教会でミサまであげる。もっともほとんどの子はそういうのをお仕事だと思ってて、真面目にやってる子はあまりいなかったけど。


 もちろんわたしもリカもその口だった。聖書は純粋に倫理の教科書と考えてたし、聖歌は単なるクラシック音楽で、ミサはちょっとシックな雰囲気に浸れる、よそにはない学校行事だった。


 でもね、ちゃんといるの。そういうのを子はちゃんといた。そういう子はミサとかのとき目の色が違うからすぐわかるの。聖体拝領……って言うのは、パンをしゅの身体の一部だっていって神父様からいただく儀式なんだけど、そのときも本当に恭しい手つきでパンを受けとるから、よく見てればすぐわかる。二十人に一人くらいはいたかな。そのくらいいてもおかしくないでしょ。本来はそういう学校なんだから。


 それで、わたしたちのような信じてない子がそういう子たちをどう見てたかっていうと、別に普通の目で見てた。それだけでそういう子たちを特別な目で見ることはなかった。朝夕、週末にと、神様の話は飽きるほど聞いてたから、信じてる子たちもお腹いっぱいみたいで普段はそういうこと口に出さなかったし。……逆に、親切で優しい子が多かったの、信じてる子には。だから自分とは違うってどこかで思っていても、そんなのは表に出さなかった。


 高二のときのルームメイトが、そういう子だったの。ちゃんと神様を信じてる子。寮は三人部屋だったけど、みんながみんなそうじゃなくて二人部屋も幾つかあった。高二になってからわたしはその子と二人で一年間同じ部屋で寝起きしてた。高一のときはリカと同じ部屋で、別れるとき結構つらかったから最初は違和感あったけど、そのルームメイトの子はすごく親切でいい子だったから、梅雨が明ける頃にはすっかり馴染んでた。


 その子は本当に親切だった。部屋の掃除はわたしの分までやってくれるし、何か頼み事しても嫌な顔ひとつせず引き受けてくれた。勉強もよくしてて成績もよかったから、わからないところを教えてもらったりもした。だからクリスマスの準備でちょっと無理してわたしが熱出したとき、その子が遅くまでつきっきりで看病してくれたのも、そんなに特別なことじゃなかったの。


 わたしは風邪を滅多に引かないんだけど、引くときはわりと酷くなる方で、そのときも熱が上がって四十度近くになった。四十度も出るともう立ちあがれないし、意識が朦朧として言葉もうまく出てこない。そんなわたしの額にその子は氷水でタオルを絞ってあてて、絞ってあてて……そんなことを何度も繰り返してくれた。水が飲みたいって言えば持ってきてくれて、明かりが眩しいって言えば豆電球にしてくれた。その豆電球の下でも、その子はずっとわたしの看病をしてくれた。


 そのときわたしはふらふらだったけど、もう何時なんじかわからないのにずっと看病させてるのは申し訳なかったし、このままじゃ風邪をうつしちゃうと思ったから、その子に『もう眠って』って言ったの。そうしたらその子は、『アイネちゃんは心配しなくていいよ。私は大丈夫だから』って、そう言ってくれた。『アイネちゃんが眠るまで、私はずっと起きてるから』って。


 でもその言葉は嘘だったの。ううん……嘘じゃない。でも眠るまでじゃなくて、眠ったあともその子は起きてる。わたしが眠ったら、そのまま朝まででも看病を続ける。それがわたしにはわかった。そういう子だったから。それでもわたしが眠ったら少しは休んでくれるかも知れないと思って眠ろうと頑張ったんだけど、熱が高かったからなかなか眠れなくて、『わたしは眠れそうにないから先に眠って』って言ったの。


 その子はしばらく黙ったあと、『眠れないほどつらいの?』って聞いてきた。『うん、眠れないほどつらい』ってわたしは答えた。その子に嘘はつけなかったから。そうしたらその子は、『お祈りをさせてもらっていい?』って言ったの。ほんの少し驚いたけど、神様を信じてる子がこういうときお祈りをするのは普通だと思ったから、『お願い』ってわたしは答えた。


 その子はわたしの額からタオルを取って、その代わりに自分の掌をそこにあてて……それから聞き取れないほど小さな声でお祈りをはじめたの。豆電球の明かりだけだったし、額にのせられた手が半分目を覆ってたから、その子がどんな顔でお祈りをしてたのかわからない。ただ額にのせられた手はひんやりと冷たくて、それにその子の温もりみたいなものが伝わってくるような気がしてタオルより気持ちよかった。


 お祈りをはじめてからその子がどれだけ続けていたのかわからない。ただ、すごく長かったことだけ覚えてる。三十分か、あるいはもっと長い間、その子はわたしの額に手をあててお祈りを続けていたと思う。


 ようやくお祈りが終わったとき、その子は薄暗い中にもはっきりわかるでじっとわたしを見つめてた。信じてる子がミサとかのときにするで。そうして『どう? 少しは楽になった?』って聞いてきた。すごく気遣わしげに、心配そうな表情で。『うん、少し楽になった気がする』ってわたしは答えた。そう答えるしかなかったから。


 ……そうしたらね、その子は泣いちゃった。『嬉しい』って言って。『アイネちゃんの具合が良くなって嬉しい』って、そう言って。


 そのときは本当に意識が朦朧としていたから、どうしてその子が泣いたのかわからなかった。でも朝になって熱が下がってからそのことを思い出して、わたしはもうここにはいられないと思った。……その子のことを変に思ったわけじゃないの。その子のことは今でも好き。けどその事件があってからわたしはもう学院に――朝夕の説教や週末のミサに、それまでのような態度をとり続けることはできなかった。その子のように信じるか、そこを出るしかなかった。だから、わたしは学院を出ることにしたの。


 ――それが、わたしが学院を出た理由。でもこのことは誰にも話さないで。絶対に誰にも話さないって約束して。今日ここで話すまで、このことは誰にも話してないから。親にも学院の友だちにも、リカにも。もし万が一その子に伝わったら、それはハイジのせいだから」


「……約束する、誰にも話さない」


 長い話を聞き終えて、肩にどっと重い荷物を載せられた気がした。だが、それほど悪い気はしなかった。


 きっとアイネは今日までこの荷物を一人で背負ってきたのだろう。その荷物を半分持てと言ってくれたことは、年来の相棒として何とはなしに嬉しかった。


「生涯、誰にも話さない」


 もう一度声に出して誓った。文字通り墓場まで持っていく決意を固めた。こんな話を打ち明けられて誰かにもらしたらその時点で人間失格だ。そのくらいのことは俺にもわかる。


 それにしてもアイネがこんなに長く喋るのは珍しい。ことによると会ってからはじめてかもしれない。……なぜ彼女が今ここでこんな話をしたのか、俺はそれが少し気になった。


「質問に答えたから、今度はわたしから質問していい?」


「ん?」


「どうして、あんなこと言ったの?」


「え?」


「どうしてハイジはさっき、あんなこと言ったの?」


「……」


 唐突な質問に答えが出なかった。


 いつの間にかアイネの顔からは表情が消えていた。真摯で……それでいてぞっとするほど冷たいその表情が、背後からの西日を受け赤々と輝いていた。


 どうして――と、返事を促すようにもう一度アイネは言った。彼女が何について問い質しているのかはわかった。けれどもその質問にどう答えればいいか、俺にはわからなかった。


 俺がいつまでも答えられないでいると、アイネは立ち止まった。――ぱあん、と乾いた音がして、同時に左頬に衝撃が走った。


 俺は何が起こったかよくわからないまま、右手を押さえ悔しそうに唇を噛むアイネの姿を見ていた。


「……もう二度と言わないで、ああいうの。本当に迷惑だから」


 それだけ言うとアイネは飛び出し、夕陽の町を走り去っていった。


 ひっぱたかれた頬に手をあてたまま、そんな彼女の背中を見えなくなるまで眺めていた。……見えなくなってもその格好でいた。魂が抜かれたように、俺はそのまま動けなかった。


 ――どれほどそうしていたのだろう。すっかり陽が落ちて暗くなってから歩き出した俺は、今さらのように胸の痛みを感じた。


 そうしてもうそこにはいない女に向かって、「ああ、そう」と、気のない言葉を返した。

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