240 どうして(2)
「……!」
不意に耳に飛びこんできたその言葉に俺は足を止めた。
不吉な予感がすっと頭を
……そんなことはあるはずがないと思った。行方不明になった友だちが町中で撃ち殺されるなどという、今どき三流ドラマでも使わないそんなベタな展開は。けれども俺は必死に駆け、人だかりに着くや前の人を押しのけるようにして中へ中へと進んだ。
「――
「――
「――今どき見てくれだけじゃ極道かどうかなんてわからんだろ」
「――そりゃまあ、そうかもわからんけどな」
現場はぐるりをテープで包囲され、そのテープに寄りかかるようにして多くの野次馬がひしめき合っていた。「見せ物ではありません!」と、迷惑そうな声が警官の手にするメガホンから響いた。
包囲の中には停車したまま警告灯を回し続けるパトカーと、そのまわりで忙しく立ち働く数人の警官の姿があった。その足下にはいかにも丈夫そうな青色のビニールシートが無造作に広げられていた。
「――美人だったのかい」
「――はあ? 何の話だ」
「――
「――なに聞いてんだ。
「――何だ、そうなのか」
……何だ、そうなのか。密かに聞き耳を立てていた野次馬たちの会話に、俺はほっと胸を撫で下ろした。最初に感じた通り、そんなドラマみたいな展開がそうそうあるわけないのだ。
「――改
「――ばか言え。改
「――見てないんじゃなかったのかい」
「――音は聞いたさ。あれは改
安心したところでまわりを見まわせばいつの間にか黒山の人だかりだった。十重二十重に取り巻くそこへ更に人が集まってきている。……もうここにいる意味はないし、このままでは外に出られなくなる。そう思い、その場をあとにするために俺は後ろを振り向いた。
――突風が吹き、群衆にざわめきが起こった。
振り返れば風で捲れようとするビニールシートを警官が必死に押さえつけているところだった。だが風の勢いは強く、浮きあがったビニールシートの下に濃いグレーのスーツに包まれた腕がにょっきりと突き出しているのが見えた。
……成り行きで嫌なものを見たと思った。けれどもすぐには目が離せなかった。その腕の先にぎこちなく五指を折り曲げる手――おそらくまだ硬直のはじまっていないその手が、自分には見えない何かを掴もうとしているように見えた。
そこでふと、俺は視線をあげた。
「……リカ?」
いつからそこにいたのだろう。現場を挟んでちょうど真向かいにリカが立っていた。反射的に声をかけようとして……だがすぐにその必要がないことに気づいた。
リカはじっと俺を見つめていた。周囲の喧噪をよそにいつになく真剣な面もちで食い入るように俺を見つめていた。
それは奇妙な光景だった。現場を囲むテープを破らんばかりの熱狂でビニールシートの下を覗きこもうとする群衆のただ中にあって、リカだけが射竦めるような目でこちらを凝視していた。まるでこの場に――いや、この世界に俺と彼女しかいないような……いてはいけないような異様な感覚があった。
そこで俺はリカがその右手に何かを持っていることに気づいた。――それは拳銃だった。途端、喧噪が耳に届かなくなり、きーんという高い音が聞こえはじめた。リカの手にする拳銃がゆっくりともたげられこちらに向けられるのを、まるで他人事のように呆然と俺は眺めていた――
「いい加減にしなさい! 見せ物じゃないんだ!」
鼓膜を破るような声があがり、群衆は一瞬にして静まりかえった。
耳を押さえている人が何人も目につく、それほどの大音声だった。どうやらパトカーのスピーカを使ったようだ。取り巻きはみな恨むような目をパトカーに向けている。「うるせえだろ!」と煽り返す野次馬の声が今さらのようにあがった。
「見せ物ではありません。関係のない者は立ち退くように」と、さっきより幾分小さな声でパトカーから警官の声が響いた。
「――」
ふと我に返り正面を見た。リカはもうそこにはいなかった。……何度か瞬きをしてみたが、やはりいなかった。
風はもう止んでいた。興醒めしたのか、あるいは警告を受け容れてのことか、群衆は一人また一人と帰りはじめていた。それでもまだ人はひしめくほど多かったので、向かいにまわることは諦めざるをえなかった。俺もその場を去ることにした。
帰り際にもう一度真向かいを見た。リカの立っていたその場所では、汗に顔をてからせたおばさんが前に屈むようにしてビニールシートの下を覗こうとしていた。西に傾きかけた太陽の光はまだ充分に強く、アスファルトからはゆらゆらとかすかな陽炎があがっていた。
リカは本当にいたのかも知れない。――だがあるいは、この炎天に白昼夢を見たのかも知れない。人混みを掻き分けながら俺はそのどちらが本当なのかしきりに考えたが、結局答えは出なかった。
◇ ◇ ◇
妙な事件に腰を折られたせいで気持ちを立て直すのに時間がかかり、カラスのマンションに着いたのはもう夕暮れに差しかかろうとする時分だった。二階の向かって右から二番目の202号室、そこが記憶に残っているカラスの部屋だった。
階段の下からもわかるその部屋の扉に目を遣ったとき、俺は「おや」とつい小さく口に出した。カラスの部屋の扉は開かれ、先客がこちらに背を向け立っていた。肩と頭を見ただけでわかる、アイネが来ていたのだ。
アイネが尋ねるならわざわざ俺まで顔を出すことはない。そう思い引き返そうかと考えたが、やはり少し気になってマンションの階段をのぼった。ちょうどうまい具合にこちらに扉があって、遣り取りをしている二人から俺は見えない。俺は気づかれないように足音を忍ばせ、その扉に近づいていった。
「……だから、ここでいいって言ってるじゃない」
「そういうわけにもいかないんです。頼みますから」
「お茶とかそういうのはどうでもいいの。さっきそこで飲んできたばかりだから」
「お茶というのは言葉のあやです。中に入ってもらわないと困るんですよ。本当に」
俺は扉に背をあてるようにして二人の会話を聞いた。その時点でもう俺の頭は沸騰をはじめていた。こともあろうにカラスはアイネを部屋に連れこもうとしているらしい。恋人であるリカのことを尋ねにきた、その親友のアイネをだ。
来る道で思い描いていた和解の構図は一瞬で吹き飛んだ。そう……俺と相容れるはずもない。カラスというのは所詮こういうやつなのだ。
「誰も困らないでしょ、ここで話したって」
「あのですね……考えてもみてください。貴女はさっきリカについて何と言ったか覚えてますか。行方不明だの事件に巻きこまれただの、平気で口にしていましたよね」
「……」
「そんなことを玄関で話して、僕が隣近所にどう思われるか、頭のいい貴女にはわかるでしょう。僕が困るんですよ、中に入ってもらわないと」
実にカラスらしい話の持っていき方だった。論理の隙を衝き、強引に相手の言い分を悪と認めさせる。そう言うカラス自身、『行方不明だの事件に巻きこまれただの、平気で口に』しているわけだが、劣勢にある相手の耳にその言葉は残らない。
「……それならちょっと出てくれない? お茶でもおごるから」
「何もわかってないですね……。玄関でできない話を喫茶店でするんですか? それこそどんなことになるか、目に見えてるじゃありませんか」
「それは……」
「いいからあがってください。……それとも、僕はそんなに信用の置けない男ですか?」
で、これが殺し文句だ。論理的に自分の非を認めさせられた状況でこう言われて『うん、信用が置けない』と返せる女はそういない。相手が親友の恋人なら尚更だ。それでもアイネは動かない。だがもうあとはカラスの思い通りだ。
「いいから、ほら。中に入ってください」
「あ……ちょっと!」
とうとう腕を引いたらしい、アイネの背中が見えなくなり、扉が閉まろうとする。俺の我慢もそこまでだった。閉まろうとする扉を掴んで引き開け、二人の前に躍り出た。
「……なら、俺も入れてもらっていいか?」
引き開けた扉にもたれかかり、小さく頭を傾けるいかにもなポーズで俺はそう言った。さすがに二人とも驚いた様子で、しばらくそのままの姿勢で俺を見ていた。
先に立ち直ったのはカラスだった。アイネの腕を掴んでいた手を離し、その手をジーンズのポケットに挿し入れると、背筋を伸ばして「これはどうも。お久し振り」と言った。
「こちらこそ。久し振り」
「ハイジさんも一緒だったんですか。水臭いでしょう、盗み聞きなんて」
「なに、だいぶご無沙汰でばつが悪かったんで。と言うか、おまえにその名前で呼ばれる筋合いはないんだけどな?」
「失礼。だいぶご無沙汰で本名忘れたんで」
「ああ、そう。そいつは残念だ」
平静を装い言葉を返しながら、俺の心は煮えくりかえるようだった。何がおぞましいかと言って、カラスにハイジさんと呼ばれるほどおぞましいことはない。そうしてこいつはそれを知っていて、今となっては絶対に俺をその名でしか呼ばないのだ。
けれどもここで激昂してはカラスの思うつぼになる。経験を踏まえれば、こいつがペースを掴む前に片づけなければならない。
「……で、俺も入れてもらえるの?」
「三人はちょっと。あいにく狭い部屋なんで」
「そんならこいつは連れて帰るよ。まあ、なんだ。邪魔したな」
そう言って今度は俺がアイネを腕を引き連れ出そうとする。「彼女は僕を訪ねてきた客ですが」と、即座にカラスから声がかかる。
「ハイジさんに何の権利があって連れて帰るわけですか?」
「権利……権利というか、この場合は義務になるのかなあ」
「義務?」
「義務だろ。自分の恋人のことを何かと気遣うのは」
俺のその一言にカラスは目を丸くし、アイネは少し困ったような何とも言えない顔で俺を見た。彼女にはあとで謝らなければならないな、と表情には出さずに俺は思った。
「へえ……そういう関係だったんですか。知りませんでした」
「まあ言ってなかったし。けどもう覚えただろ? 忘れないでくれよ」
「でもそれとこれとは――」
「何もわかってませんね。足踏み入れただけで妊娠するようなところへみすみす自分の恋人をやれますか? そんな無責任なことできるわけないじゃないですか、彼氏として」
最後はカラスの口調を真似て言った。カラスはまだ何か反論しようとして、だが諦めたように口を閉ざした。ここまで言えばさすがのこいつも膝を屈する。逆にここまで言わなければこいつは参らないのだ。
「……やれやれ、ひどい言われようだ。何で僕がそこまで悪し様に言われないといけないんですかね」
「そりゃまあ日頃の行いってやつだろ。ところで、リカは元気?」
「さあ……最近連絡とってないんで」
「ああ、そう。そういうことなら邪魔したな」
そこに至って俺はアイネの手を掴み、そのまま歩き出した。「ちょっと……」と彼女は小さく言いかけたが、それ以上なにも言わなかった。
背後でゆっくりと扉の閉まる音が聞こえた。もう二度とここへは来ない――冷めやらない怒りの中に、俺はそう心に決めた。
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