290 出撃と葬送(3)
「何よ。そんなにじっと見つめちゃって。もう飽きちゃったの?」
「……飽きた?」
「その後ろにいる女に。そんな熱い目であたしを見つめるってことは、たった一晩でそっちに飽きちゃったのかな?」
そう言ってリカは悪戯っぽい笑みを浮かべた。
いつも通りのリカだった。……表情から口調まで、俺がよく知っている、まったくいつも通りの。おまけに台詞の中身まで、いかにもこの状況でこいつが口にしそうな内容だった。
「昨日とずいぶん違うな」
「何が?」
「態度。昨日は話しかけても返事してくれなかったのに」
「え、そんなの当たり前でしょ? あのときはまだ仲間じゃなかったんだから。それに、おかしな動きしたら背中に穴開けるのがあたしの役目だったし」
「……やっぱそうだったのか」
「今はもうそんなことしないって。ちゃんと仲間になったんだもんね。昨日はろくに話せなかったから、改めて。これからよろしくね、ハイジくん」
「ああ……よろしく」
そう言って差し出されるリカの手をとり、握手した。満面の笑みで俺を見つめながらリカは二回、三回と、その繋がれた手を上下させた。
……本当に、まるでいつも通りのリカだった。何となく引っかかる部分はあったが、この混沌とした世界の中で、気心の知れた仲間に邂逅できたことは素直に嬉しかった。
「なんか、懐かしい気がしたんだよね」
「え?」
「ハイジくんのこと。最初見たとき」
「……そうか」
「ねえ、あたしもハイジくんと会ってる?」
「何の話?」
「昨日、ハイジくんが隊長に言ってた話。ここに来る前にいた場所で、ハイジくんは隊長と仲間だったんでしょ?」
「ああ、その話か」
「それ聞いたとき、ピンと来たんだ。そこで、あたしもハイジくんと仲間だったんじゃないか、って。ねえ、そうじゃない? あたしもハイジくんの仲間だった?」
「……さあ、どうだろ」
目を輝かせて答えをせがむリカに、俺はとぼけてそう返した。そんな俺の回答にリカは不満げな表情を浮かべ、「ちゃんと思い出してよ、会ってるから絶対」と捲し立てる。
まったく、本当にどこまでもあのリカだった。自然とこみあげてくる笑いを抑えて、俺は俺でいつも通りに「ああ、会ってる会ってる」と、素っ気なく返した。
「えー、なによそれ……。もっとこう、なんかないの? 隊長のときみたいな」
「で、何の用だって?」
「え? あ、そうそう。忘れるとこだった。先生が来たから」
「先生……?」
「そう、先生。そうだ、あたしは隊長を呼びに行かないと。用はそれだけよん。じゃ、またあとでね」
それだけ言ってリカは振り返り、そのまま後ろ手に扉を閉めようとする。だがそこで思い出したように頭だけこちらに向け、少し気まずそうな表情をつくって、言った。
「あと、昨日は相棒が失礼なことしてごめんね」
「相棒?」
「カラス」
「ああ……あいつか」
「許してやって。悪いやつじゃないから」
「別に、もう何とも思ってない」
「本当? ありがと。いい男だね、ハイジくん」
「そのへん覚えとくように」
「覚えとく。じゃ、またね」
それだけ言い残し、リカは視界から消えた。
「……変わらないな」
扉の向こうにリカを見送ったあと、俺は思わずそう独り言ちた。昨日、最初に会ったときは別人だったが、こうしてうち解けて話してみれば、やはりリカはリカだった。
「行こ」
と声がかかった。振り返るとアイネがいかにも億劫そうに床から立ち上がるところだった。
「え?」
「先生が来てるんでしょ。行かないと」
「ああ……うん。けど、先生って誰?」
質問に返事はなかった。会話を避けるようにアイネは俺の脇を抜け、ドアノブをひねって廊下に出た。そのまま一人で薄暗い廊下を歩いていってしまう。
一応、扉を閉め、わけがわからないまま俺はその後を追った。
「実はさ、あいつとも会ってるんだよ」
追いついて話しかけてもアイネは無言だった。
……どう見てもへそを曲げているときの態度だった。向こうでは何度となく目にした彼女だが、さすがにこちらではこれが初めてだ。
何よりまったく思い当たる
「前に話した向こう側の世界でさ。ちょうどさっきみたいな感じだったんだ。軽口叩き合える気安い関係。友だちっていうのとは、少し違うかも知れないけど」
水を向けるようにリカの話題を振ってみても、アイネの反応はない。まるで俺などいないかのように黙ったまま歩き続ける。
そんな彼女に、段々と俺の方でも
「言いたいことがあるなら言えよ」
「……」
「なに怒ってるんだ、さっきから」
「……別に、怒ってなんてないし」
ようやく出てきた一言目がそれだった。歩調は小走りに近いハイペースのまま、視線をこちらに向けてくることもない。
やれやれ、と内心に溜息をついた。こうなってしまったアイネには、もうこの言葉を使うしかない。
「
「……」
「気に障ることしたなら謝るよ。何で怒ってるのか教えてくれ」
「だから、別に怒ってない。どうして怒るのよ。ハイジは何もしてないのに」
だったら何で――そう声を荒げかけて、そこでふと俺はおかしなことに気づいた。
……そう言えばさっきのあの場所でアイネとリカは一言も喋っていない。そればかりか軽い挨拶も、目配せさえなかった気がする。
いつもの二人からすれば、それはかなり不自然なことだ。……まさかとは思ったが、俺は慎重にその質問を口にした。
「リカと……その、喧嘩でもしたのか?」
返事はなかった。つまり、そういうことだった。その事実に、俺は驚愕に近いものを感じた。
男である俺にとって女同士の友情というのは理解できないところが多いが、それでも多少わかる部分はある。そのひとつに、喧嘩をしないということがある。女同士の友情は喧嘩とは無縁――これは一般論と言っていいだろう。
俺の観察が正しければ、アイネとリカの関係はまさにその典型だった。そして、そういう関係の二人がひとたび争ったとき結末がどうなるか――そのあたりも数少ない、女同士の友情について俺がわかる部分のひとつだ。
「ねえ」
「え?」
「
「ああ、そのつもりだけど……」
「なら、わたしの前でその話はしないで」
「……」
「わたしの前で、あの女の話はしないで」
相変わらずこちらを見ずに、ひび割れたような声でアイネは言った。それで、俺はもうそれ以上なにも言えなくなってしまった。
ただ、その言葉で彼女たちの――アイネとリカの関係が俺の知っているようなものでないことがわかって、なぜかそれに堪らない寂しさを覚えた。
それきりアイネからは一言もなかった。長く薄暗い廊下に、二人分の靴音だけが空しく響き続けた。
◇ ◇ ◇
アイネのあとについてその部屋に入ったとき、思わず声をあげそうになるのを俺はどうにか
真っ黒な襤褸に身を包んだ人らしきもの。昨日、アイネが『蟻』と呼んだそれが部屋の片隅にうずくまっている。だが広間の真ん中で取り巻く男たちをあしらっている白衣の女性に、俺はそれ以上の衝撃を受けた。
ちゃんと顔を見るまでもなくわかった。それはキリコさんだった。
「あれが先生」
「え?」
「さっきの質問の答え。あれが先生。キリコ先生」
「――おや、新入りかい?」
俺たちの会話を聞きつけたのか、白衣の女性はおもむろに振り返ってこちらを見た。
それはやはりキリコさんだった。今回の舞台で着るはずだった《博士》の衣装を身にまとい、細い銀縁の眼鏡をかけた、俺のよく知るキリコさんその人だった。
「挨拶」
「え?」
「先生に挨拶。そのくらいできないの?」
「……そうか、うん」
気を取り直し、俺はキリコさんに向き直った。
「失礼しました。先日、この隊に入隊しましたハイジといいます。よろしくお願いします」
「ああいいよいいよ、そんなかしこまった挨拶は。それより、珍しいこともあるもんじゃないか。男に世話を焼くアイネちゃんなんて、どういう風の吹き回しだい?」
そう言ってキリコさんはにんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。「それは」とアイネが言いかけたところで、どこからともなく、「その新入りはアイネの相棒になったんでさ」と、冷やかすような声がかかった。
「へえ、なるほどねえ」
それを聞くとキリコさんは顔から笑みを消し、妙に真剣な表情で値踏むように俺を見つめた。混乱から抜けきれないまま、俺はただ黙ってその視線に耐えた。
やがてキリコさんは俺から目を離すと、さっきとは少し違う、どこか哀れむような微笑をふっとその顔にのぼらせた。
「アイネちゃんの
「え?」
「今日のうちにしっかり見ておかないと。これっきりってこともあり得るからねえ、この顔見るのも」
周囲からどっと笑いがおこった。「違いねえ」と、またどこからともなく声がかかる。
隣に目をやるとアイネは無理に平静を装った顔で明後日の方を見ている。……これは内心にかなり我慢してるときの表情だ。
『わたしと組む相棒はみんな早死にする』
アイネの一昨日の言葉を不意に思い出して、そこでようやくこの笑いの意味がわかった。
「さあ、これ以上いじめちゃ可哀想だ。アイネちゃんは変わりなしかい?」
「変わりありません」
「そっちは? ハイジ君といったかね、あんたは?」
「え?」
いきなりの問いかけにどう答えていいかわからず戸惑っていると、「どこか悪いとこないかってこと」と、隣でアイネが囁いた。
「あ……いえ、ないです。どこも悪くありません」
「ふうん、そうかい」
そう言いながらキリコさんは手に持ったカルテのようなものに何やら書きつけた。そのあと、またおもむろにこちらを見ると、穏やかな笑みを浮かべて、言った。
「案外、板についてるじゃないか。こんな可愛いアイネちゃんを見る日が来るなんて思ってもみなかったよ」
その一言に周囲は一瞬静まり、それから堰を切ったような大笑いがおこった。……この笑いの意味は考えるまでもなくわかる。隣でアイネがどんな表情をしているのか、ということも。
一頻り盛りあがる哄笑の中で、キリコさんだけは笑わずに慈しむような目でこちらを眺めていた。
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