291 出撃と葬送(4)

 キリコさんとの会話はそれっきりで、俺とアイネは部屋の隅に追いやられた。


 それから部屋に集った者の半分が俺たちと同じように部屋の隅に移り、残りの半分がキリコさんの前に列をつくった。彼女の診察を待つ人の列だ。背の低い椅子に腰掛けたキリコさんは聴診器を耳に、まるで熟練した町医者のように居並ぶ男たちを診てゆく。


「どういう人なんだ? あの人」


「……先生だって言ってるじゃない」


「そんなこと聞いてるんじゃない」


「……何が聞きたいの?」


「昨日は見なかったけど、うちの部隊の人間ってことなのか?」


「……違う。うちの部隊の人間じゃない」


 いかにも面倒臭そうな回答に、俺はやれやれと思った。アイネはまたへそを曲げているのだ。ここまで廊下を歩いてきたときより、はっきりとそれがわかった。大方、さっきのやりとりで笑いの的になったのが気に入らないのだろう。


「いつもいるわけじゃないのか?」


「……いつもじゃない。ときどきやって来て、こんな風にわたしたちを診てくれるの。あと薬も持ってきてくれる」


「薬ってのは?」


「……撃たれたときに飲む薬。あそこに並んでいるのは、最近、撃たれてその薬を飲んだ人たち」


 ――機嫌の悪いアイネからどうにか引き出した情報を総合すると、キリコさんはここのホームドクター的な存在ということのようだ。


 部隊の人間ではないが、こうして定期的に訪れては健康を診てくれる。何より彼女の置いていく薬で何人もの命が助かっている。だから、部隊の誰もがキリコさんを尊敬し、隊長でさえも彼女には頭を低くする……ということらしい。


 そうした枠組みが理解できても、俺の混乱は完全には消えてくれなかった。……というより、話を聞くほど頭がこんがらがっていくようだ。


 飲み薬で銃創が治るというのは例によってだから納得もできる。今ここにキリコさんが現れたのも、まあいいだろう。


 ただアイネの話を聞く限り、引っかかる部分が幾つもある。何より、わずかな食料と水を奪い合うため複数の部隊がしのぎを削っているというこの廃墟において、《博士》がどういう立ち位置なのかがわからない。言葉を変えれば、における《博士》の役割がひどく不自然で掴み所のないもののように思えてくる。


「この部隊だけなのか?」


「……何のこと?」


「あの先生が薬置いてったり、診てくれたりするの」


「……知らない」


「気にならないのか?」


「……どうだっていいじゃない。そんなの」


「他の部隊に情報流すことだって――」


「そこまでにして」


 あくまで静かな、けれどもそれまでとは違う真剣な声でアイネは言った。思わず俺はアイネを見た。だが彼女の方ではこちらを見ずに、聞こえるか聞こえないかの声で囁くように言った。


「先生はここでは絶対なの。誰よりも、隊長よりも。そんな人に疑いかけるようなこと言って、ただで済むと思う? 銃口向けられる前に、もうこの話をするのはやめて」


 喉の奥から絞り出すようにアイネは言った。そこではじめて、周囲から自分に向けられる視線があることに気づいた。


 錐のように尖った敵意ある視線――それが真っ直ぐ自分に突き刺さっているのがわかり、背筋に戦慄が走った。そして俺は、アイネの言葉の意味をはっきりと理解した。


 それを理解した刹那、周囲からの視線は消え、また元の和気藹々とした空気に戻った。


 だが、俺は戻れなかった。昨日、あんなを済ませたところで、俺はまだ部外者なのだと――キリコさんではなく俺こそが部外者なのだと、そのことをまざまざと思い知らされた。それきり俺は舌を切り取られたように沈黙した。隣でアイネが溜息をつく小さな音が聞こえた。


 ――それから小一時間もキリコさんの診察は続いた。もうアイネに話しかけることもできず、手持ちぶさたのまま俺は取り留めもなくその光景を見ていた。


 キリコさんの前に座って、色褪せたジャケットの腕をまくりあげる男。何か冗談を言われたのかキリコさんはのけぞって笑い、男の腕をぴしゃぴしゃと叩く。男は大仰に痛がる素振りを見せながら、まるで子供が母親に見せるような罪のない笑顔をキリコさんに向ける。


 そんな情景を眺めるうち、アイネに告げられたことが実感として理解できた。


 この部隊でキリコさんはDJよりも絶対だとアイネは言ったが、たぶん、それは少しニュアンスが違う。昨日の印象からして、DJもまたここでは絶対の存在だ。ただ、DJは恐れられると共に信頼されるいわば畏敬の対象で、キリコさんは純粋にの対象なのだ。


 その理由もわかる気がする。殺伐として荒んだこの部隊にあって、今ここだけは別世界のように穏やかな空気に満たされている。その中心にいるのはキリコさんで、この空気をもたらしているのも間違いなく彼女だ。


 軽妙な会話、身振り手振り、めまぐるしく変わる表情によって巧みにこの空気を醸している。それはこの場にいる一人一人を理解していてはじめてできることだ。そう、キリコさんはこの場にいる一人一人を把握して、その心のひだに触れるように接しているに違いない。


 それだけではない。その薬とやらによって助かった者にとって、キリコさんは文字通り救いの女神なのだろう。だからこそ、それで助かった者はもちろん、そうでない者もキリコさんを慕い、心を開いて接しているのだ。


 そこまでは理解できた。けれども俺がその先にやはり何か不自然な、得体の知れないものを感じてしまうのはなぜだろう……。


 ふと、部屋の片隅に目がいった。窓から射す陽光のちょうど陰になるそこに、真っ黒な塊がうずくまっているのを見た。


 『蟻』だ。ぼろぼろの粗末な布きれを頭からかぶり、ガスマスクに似た異様な面頬をつけた『蟻』は、主人から声がかかるのを待つ犬のように身じろぎもせず、その部屋の隅からじっとこちらを見ている。実際に見ているかどうかわからない、見ているように俺には見える。


 それまで考えていたことを忘れ、俺は昨日炎天のビルの谷間にそうしたように、その異様な風体に見入った。


 キリコさんを囲む和やかな空気の外に、明らかに異質な空気をまとってその黒い生き物はいた。あの激しい午後の太陽の下を、おそらく死体と思われるものを曳いてゆっくりと歩いていた姿が、その物言わぬ静かな姿に重なった。


 ……あれはいったい何なのだろう。昨日、アイネが『蟻』と呼んだ得体の知れない存在。その『蟻』が今この部屋の隅にうずくまっているのはなぜだろう? やはりキリコさんが連れてきたものなのだろうか。だとしたらなぜ――


 喉もとまで迫りあがってきた疑問の言葉を飲み下して、俺は『蟻』から視線を外した。……さっき釘を刺された以上、ここでアイネにその質問をすることはできない。


 目を広間の真ん中に戻すと、キリコさんの前にできた行列はあと二人を余すのみだった。診察も終わりに近いようだ。そこで俺は改めて周囲を見回し、あるべき顔がないことに今さらのように気づいた。


「……そういえばいないな」


「え?」


「ここにいないやつがいる。隊長とか」


 まずDJがいない。先生が来ているのだから、隊長の挨拶くらいあってもいいはずだが、姿が見えない。


 俺たちを呼びに来たリカと、その相棒だという男もいない。昨日、俺の相手をしてくれた三人の姿も見えない。どういうわけか、俺の知っている顔はみな、この場に姿を現していないようだ。アイネ以外――いや、アイネとキリコさん以外。


「たぶん、草刈りに行ってる」


「え?」


「隊長たちのこと。たぶん草刈り」


「草刈り?」


「そう、昨日のあの草」


「……あの草。どこかで育ててるのか?」


「育てる? 生えてるのを刈ってくるだけだけど」


「ああ、そう。……というか、今夜の分?」


「まさか。乾かさないと使えないし、それに――」


 と、ちょうどそのとき、俺たちの話を聞きつけたかのように扉が開き、リカとカラスが並んで広間に入ってきた。その後からDJが昨日の三人――ルードとラビット、それにゴライアスを衛兵のように従えて扉をくぐり、真っ直ぐにキリコさんの前へ歩み出た。


「どうも。先生にはご機嫌麗しく」


「ずいぶんと遅かったじゃないか」


「申し訳ない。花を摘みに出ておりまして」


「ああ、お花摘みね。C地区のやつかい?」


「いえ、A地区の16ブロックのやつです」


「あそこのがもう収穫かい? まったく月日の経つのは早いもんだね」


 アイネの言う『草刈り』に関する話なのだろう。挨拶もそこそこに二人はしばしその話題で盛り上がった。キリコさんの前に立つDJはさっきまで他の男たちがそうしていたように柔和な笑みを浮かべ、昨日の入隊テストのときのような威圧感は影ほども見えない。


 けれどもそんなDJの笑顔に、俺は奇妙な違和感を覚えた。


 少なくともそれは、向こう側の世界でDJがキリコさんに見せていたものとは違っていた。……どこがどう違うのかわからない、だが確実にどこかが違っていた。その違いに落ち着かないものを感じながら、取り巻きの輪の中で話す二人をじっと眺めた。


「ところで、新しいのが入ったみたいじゃないか」


 それが理由で、前置きもなくキリコさんがそう言って顔をこちらに向けたとき、俺はもう少しで目をそらすところだった。話を振られたDJは、「ええまあ」と適当な相づちを打ち、キリコさんに倣って問題の笑顔を向けてくる。


 見飽きるほど見てきた二人の顔――だがそのどちらも俺の知っているそれとは、やはりどこかが違う……。


「補充はいつ以来だっけね?」


「さあ、そんな昔のことはもう覚えてませんね」


「それにしても、よくあんたのお眼鏡にかかったじゃないか」


「まあ、なにせ魔弾の射手ですから」


「魔弾?」


「ええ、魔弾。撃ち殺したんですよ。例の黒い服着たやつを」


 一瞬、かすかな動揺の表情がキリコさんの目許めもとに走った。それを見つめるDJの目が一瞬――彼女の変化よりも短いほんの一瞬、わずかに細められるのを見た。


 ――刹那の出来事だった。その意味に俺が思いを巡らせるより早く、二人は何事もなかったかのように元の表情に戻った。


「なるほど。それでアイネちゃんの危機を救ったってわけだね」


「お、さすが先生。ご洞察の通りですが、何でわかりました?」


「いやね、さっきから気にはなってたのさ。男嫌いのアイネちゃんが、なんでまたとこんな風に出来上がっちまったのか、ってね」


「まあ、そんな次第です」


「そういう事情じゃ無理もないね。しかしまあ、アイネちゃんも女だったわけだ。一晩でこんなにも可愛くなっちまうなんてさ」


 しみじみとしたキリコさんの台詞に周囲から軽い笑いがおこった。アイネはもう諦めているのか何も言い返さない。あるいはキリコさんだから、言い返したくても言い返せないのかも知れない。


「けど、それじゃアイネちゃんと組ませたのは失敗だったんじゃないかい? せっかく手に入れた魔弾の射手を、みすみす死に急がせるようなもんじゃないか」


「それですよ。オレもそう思ったんですが、アイネのたっての要望で」


「へえ、アイネちゃんがねえ」


「ええ。どうしてもわたしと組ませろって、それはもうすごい剣幕で」


「……そんなこと言ってない」


 ついに堪りかねたのか、低い押し殺した声でアイネが口を挟んだ。


 その一言にDJとキリコさんは互いに顔を見合わせ、続いて盛大に笑い出した。その笑いはあっという間に周囲に広がり、部屋中が哄笑の渦にのまれた。


 アイネがどんな表情でいるか……何を考えているかまではっきりとわかった。けれども俺は、せいぜい同じ顔で黙り込むことしかできない。


「……ま、というわけです」


「いい目のつけどころだね。案外、うまくいくかも知れないよ、この組み合わせは」


「そう願います。――それで、話は変わりますが、先生」


「ああ、薬の話だね。申し訳ないが、今日もこれしか持ってこられなかったんだ」


「いえ。持ってきていただけるだけ、いつもありがたいと思ってます」


 たもとから取り出したガラスの小瓶を振って見せるキリコさんに、DJは恭しく両手を差し出した。小瓶の蓋がまわされ、その中身がDJの手の中にあけられる。遠目に見るそれは白い錠剤のように見えた。


 儀式めいたその受け渡しのあとに、薬はDJのウエストポーチに収まり、空になった小瓶はキリコさんの白衣の中に戻った。


「で、お代は今日もツケかい?」


「いや、連中の話ではそろそろのやつが。いずれにしろ見てみないことには」


 そう言ってDJは周囲を見回した。何かに目星をつけているようで、その視線は広間の中をひと巡りしたあと、俺に向けられて止まった。


「グレンとヒダリテ。それから新入り、来い」


 DJの呼びかけに「へい」との利いた声で応え、スキンヘッドの男と左手のない男がその後について広間を出た。状況が掴めないままそれを眺めていると、「ハイジ」と咎めるような声がかかった。


「え?」


「何してるの。聞こえなかった?」


 眉の間にしわを寄せるアイネの顔に、はじめてDJの言ったことの意味に気づき、俺は慌ててそのあとを追った。


 三人の出ていった錆だらけの扉をくぐったあたりで、またしても広間に盛大な笑いがおこるのを背中に聞いた。

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