292 出撃と葬送(5)

「いつも通りだ。ちゃっちゃと探してこい」


 扉のないその部屋の入り口の前に立ち、親指で中を指差してDJはそう言った。


 低い無感動な声で「へい」と呟きながら二人が中へと入ってゆく。けれども俺は入れない。その部屋の中に足を踏み入れることができない。


「どうした? 早くしろよ」


 入室を促すDJの声が聞こえる。それでも俺は動けない。


 そこは昨日ルードに連れられて来た部屋だった。にやけ顔のルードに同じように入れと言われた、あの部屋だ。その部屋の中にあるもの、告げられた言葉の意味を思って、俺は一歩も動けない。


 だがこのまま黙ってDJの命令を無視し続けることはできない。だから俺は否応なく、その質問を口にする。


「……いつも通りじゃわからない」


「ん?」


「いつも通りと言われても俺には、何をすればいいのか……」


「ああ、そうか。そういやそうだったな」


 はじめて気づいたようにそう呟くと、DJは胸の前で腕組みをした。それから気怠そうに目を伏せ、ぼんやりとした抑揚のない声で、「この中に何がいるかは知ってるな?」と言った。


「……知ってる」


「なら話は早え。のを探して引っ張り出してこい」


「……」


「少しでも動くやつはいい、やつだ。紛らわしいのは目をひん剥いて見ろ。真ん中の黒いのが縁まで広がってるのがいたら、そいつを引っ張ってこい」


 淡々としたDJの説明を、俺は聞くともなしに聞いた。……内容は理解できた。何をしろと言われているのかも、頭ではわかった。それがわかっても、俺の足は前に出ようとはしなかった。


「わかったか?」


「……」


「わかったらさっさと動け」


 相変わらず淡々とした声だった。だがそれが最後通牒であることが俺にはわかった。《兵隊》が決して逆らってはならない、上官である隊長からの命令だ。


 ……そう、《兵隊》は何があっても命令に逆らってはならない。それがどんな命令であっても、ただ従順に従わなければならない――


 薄暗い部屋に入ると、むっとするような異臭がまず鼻をついた。


 その臭いで俺はすでに吐きそうになった。幾つもの臭いが混じり合ったその異臭は、けれどもそのひとつひとつの臭いが溶け合うことなく、水と油のように分離している。


 濃厚な汗の臭い。かすかな血の臭い。くぐもった排泄物の臭い。ひときわ強く鼻を刺す腐敗した精液の臭い……。


「遅えぞ新入り。何してたんだ」


 闇の中に気安い声が響いた。グレンといっただろうか、スキンヘッドの男の声だ。


 さっき部屋を出て追いついたときも、彼は同じ声で言った。――遅えぞ新入り。何してたんだ。にやにやと笑いながら、何をさせられるかわからずにいるこちらの気負いをほぐすように。


 あのとき、俺がどんな顔でどんな回答を返したのか、もう思い出せない。そして今の俺はその声に、どんな返事も返すことができない。


「そのへんにはいねえだろ。そっちの奥の……ああ、どう言やいいかな。そう、窓のある部屋のほう見てくれ」


 今度はヒダリテからの声だ。薄闇の中に、二人が立ち働いている姿が見える。


 ……そうだ、俺も働かなくてはいけない。そう思って、真っ白になった頭にヒダリテの言葉を思い返した。――窓のある部屋のほう見てくれ。


 窓のある部屋。この暗闇の中に、光射す窓のある部屋……。


 窓ではなかった。天井すれすれに穿たれたそれはただの穴で、大きさもエアコンのダクトほどしかない。


 窓と呼ぶには小さすぎるその穴からは、けれどもそれに見合うだけの光が漏れこみ、部屋の様子を薄ぼんやりと照らしていた。


 幾つもの生白い裸体が折り重なるように床に横たわっている。食い散らされた死肉を思わせるその光景に一瞬目を背け、喉にこみあげてくるものをどうにか飲み下したあと、そちらに足を向けた。


 動く影はなかった。触れられるほどに近づいてみても、その裸の身体たちに動きはない。


 わずかに脚を広げ、うつぶせに横たわる小柄な女の裸。手足を丸めて横臥する、あばらの浮いた女の裸。……青い痣、赤黒く乾いた血。歯形のついた乳房。白い液体にまみれた、死んだ貝を思わせる女性器……。


 淡い光の中に浮かび上がるそんな光景を、俺はただ呆然と眺めた。


 全身を流れる血が急速に冷たくなっていくのを感じた。心臓の鼓動が次第に弱くなっていく。噎せ返るような臭いの中に、息さえもまともにできなくなっていく。


「……!」


 爪先が何かに触れた。そう思うのと同時に、足下に横たわる身体がびくんと身を竦ませた。


 ゆっくりと頭をあげてこちらを見る。ぎこちない泣き笑いのようなひきつった表情で、暗い色に怯えきった目で俺を見つめる。


「許して……許して……許して……」


 小さく押し殺した震える声で、何度も何度も女は繰り返した。


 金縛りにあったように俺は動けなかった。呼吸を止めて、ただじっとが過ぎ去ってしまうのを待った。


 女はしばらくそうしていたが、やがてぷつりと呟くのをやめ、ひきつった表情を顔から消して、ぐったりと疲れたように元のうつぶせに戻った。


「……っ!」


 刹那、喉の奥からもの凄い勢いでこみあげてくるものがあった。鼻につんとくる嫌な臭いをこらえ、必死になってその逆流を押しとどめた。


 ……そうして吐き気をやり過ごしたあと、どうせなら吐いてしまえばよかったと、ふとそう思った。


 いっそ吐いてしまえばもう少し楽になるのかも知れない。……この光景を、もう少し冷静な目で眺められるようになるかも知れない。


「……殺して」


 反射的に声のした方を見た。壁に背もたれ、脚をM字に開いたしどけない女の姿があった。虚ろな目でじっと床を見ている。その口からもう一度、「殺して」という呟きがもれた。


「殺して……ねえ、殺してよ」


 視線を床に落としたまま、だがはっきりと俺に向けて懇願するように女は呟いた。


 床につかれた両手はどちらも重々しい鉄の鎖で壁に繋がれている。股間から何か赤茶けたものが垂れ下がっているのが見える。垂れ落ちているのではない、垂れ下がっている。……あれはいったい何だろう……何が垂れ下がっているのだろう。


「……もう殺して……お願いだから殺して」


 ゆっくりと頭がもたげられ、その目が俺を見ようとする。澱んだその瞳に囚われる寸前、俺はほとんど必死の思いで振り払うように目を背けた。


 ――と、そこで別の視線にぶつかった。重ねた両手を枕に、行儀よく膝を曲げて横臥する女と偶然に目が合った。


「……」


 女は最初からこちらを見ていたようで、俺が視線を向けても身じろぎひとつしなかった。そればかりか少女のように無垢な微笑みを浮かべ、じっと俺を見ている。


 あまりに場違いなその微笑みに、俺は思わず見入った。ぽってりとした唇はうすく開いている。その唇がわずかに動いたように見えた。


「……」


 ……俺に何かを語りかけようとしているのだと思った。何だろう、彼女は何が言いたいのだろう。


 その無垢な微笑みに引き寄せられるように俺は近づき、唇のそばに耳をそばだてた。


 ……何も聞こえなかった。向き直って間近に女の顔を見た。いっぱいに開かれた二つの目があった。だが、その目に俺の姿は映っていなかった。その目には何も映っていなかった。


 彼女が見つめていたのが俺ではなく、もっと別のところだということに、ようやくそこで俺は気づいた。


「――お、見つけたじゃねえか」


 振り返ると、かがみこんでこちらを覗きこむグレンの顔があった。その顔がねぎらうように相好を崩して言った。


「早めに見つけてくれて助かったぜ。ああ、こいつか。無理もねえ。こいつは昨日ルドルフの野郎が、みんなが止めるのも聞かねえでさんざん嬲りまわしてやがったからなあ――」


 部屋の外ではDJとキリコさんが待っていた。その二人の陰に隠れるように『蟻』が立っている。


 女の死体を抱えて俺より先に出たグレンがそれを無造作に降ろすと、キリコさんはその死体にちらりと目をやり、DJに二言、三言何かを告げた。DJがわざとらしい笑顔をつくり、小さく手を振って一礼するのが見えた。


 キリコさんが『蟻』に何かを言っている。それに応えてか、『蟻』はおもむろに懐から黒い袋のようなものを取り出し、その場に広げ出した。


 まだ硬直がはじまっていないのだろう、女の死体は青白い四肢をだらしなく床に投げ出している。『蟻』がその死体を抱きあげ、広げた袋の上に横たえる。


 それで、俺は理解した。薬の対価としてキリコさんが求めたもの、『蟻』を従えてきた理由――この舞台における彼女の役が深い淵のように底の見えないものであることを、いっぺんに俺は理解した。


「――おおい、何やってんだ」


 グレンの呼びかける声が聞こえた。見ればDJたちはもうずいぶん遠く、午後の陽光の照らす廊下の先を歩いていた。


 ……そうだ、俺もついていかなければならない。何の感情の動きもなくそう思って、彼らを追い、一歩を踏み出しかけた。


「負けないでね」


 唐突なその一言に、思わず足を止めた。


 キリコさんの声だった。俺が向き直ると、彼女は真摯な表情にほんの少しの笑み――キリコさんらしい挑発的な、だがはっきりそれとわかる激励の笑みを浮かべて、もう一度言った。


「負けないで。何があっても」


 まるで温かい水のように、その言葉が心の深いところに染みこんでゆくのがわかった。


 何もかも見透かすような目で、キリコさんはじっと俺を見ていた。


 どれだけそうして見つめ合っていたのだろう。やがて我に返った俺は、返事も挨拶もないまま小走りに――ただ逃げるようにその場をあとにした。


◇ ◇ ◇


 部屋に帰りついたときには、もう夕暮れだった。窓際で銃を解体していたアイネは、入ってきた俺を一瞥すると、何も言わずまた元の作業に戻った。


 俺は帆布袋が立てかけてある部屋の隅まで行き、ほとんど崩れ落ちるようにその場に腰をおろした。死にかけた太陽の光に赤々と照らされるコンクリートの部屋を、しばらくぼんやりと眺めた。


 かちゃかちゃと銃をもてあそぶかすかな音が、次第に濃くなってゆく夕闇の中に流れ、消えていった。


 すべて理解したうえでの気遣いなのか、それとも別の理由なのかわからない。どちらにしても彼女が根ほり葉ほり聞かずにいてくれることが、今の俺にはありがたかった。


 それでもアイネはやがておもむろに手を動かすのをやめ、小さく独り言のように「時間」と言った。


「もう時間だから、支度して」


 何の支度を? そう聞き返そうとして言葉を呑んだ。……口にしていい質問ではない。それに、聞くまでもなく答えはわかっている。


 今夜、これから俺たちは殺し合いをするのだ。そのための支度をしろと、彼女は俺にそう言っているのだ。


「……どんな支度すればいい?」


「決まってるでしょ。戦いに出るための支度」


「それはわかるけど、どんな支度をすればいいかわからない。これが初めてだから」


「そんなの自分で考えて」


 冷たい声でそう言うと、アイネはやおら頭をあげてこちらを見た。鈍い茜色に染まった顔から、射るような視線がまっすぐに俺をとらえた。


「戦いに初めても何もない。死ぬか生き残るか、それだけ。生き残るための支度をして。自分で考えて、それくらい」


 突き放すような口調でアイネは言った。それきり口をつぐんで、もうこちらを見ることもしない。


 小さく溜息をついて、アイネらしい励まし方だと思った。それとも早々に見切りをつけられたのかも知れない。


 ……どちらでもいい、そんなのはどうでもいい。ぐちゃぐちゃに乱れた心をどうにもできないまま、それでも俺は帆布袋に向かい彼女の言う支度をはじめた。


 まずは銃。デザートイーグルを取り出してベルトに挿す。そこでふと弾が入ったままだったことを思い出し、一度ベルトから抜いて――だが結局また元のようにベルトに挿す。弾は入ったままでいい……そんなのはどうでもいい。


 それからまた袋に手を突っこんで闇雲に中のものを探る。マガジン――予備のマガジンなどいるのだろうか? 答えを考えようともせずにそれをジーンズのポケットに突っこむ。ガスの補充……はいらないだろう。いるかも知れないが、どうでもいい……それももうどうでもいい。


 BB弾の詰まったポリ袋を取り出す。そのまま袋に戻そうかと思ったが少し考え、一掴みの弾をホックのついたジャケットの胸ポケットに流し入れる。


 携帯――いらない。水――いらない。食料――もっといらない。ライター、ウイスキーの瓶――こんなのはどれもいらない。


 袋の中身はそれで終わりだった。それ以上、何もなかった。支度はこれで済んだ、と思った。そう思ってアイネを見た。


 ちょうど整備が終わったらしく、腰に提げたホルスターにグロックを納め、アイネは立ち上がるところだった。


 そんな彼女を眺めながら――俺は結局、何の支度もできていないと思った。


 身支度を調えたところで、行き場をなくしたぐちゃぐちゃの気持ちは変わらない。今、自分に必要なのはそちらの準備だということはわかり過ぎるほどわかった。


 ただ、そちらの準備は身支度のように簡単にはいかない。こんな気持ちのままどこへ行ける? 何ができる? どんな演技ができる?


「支度できた?」


 けれどもアイネからかかるその声に、すべての考えを頭から追いやって、「できた」と返した。


 そうして俺の答えを待たず扉をくぐろうとする彼女を追い、窓からの夕陽の消えようとする部屋をあとにした。


 ――黄昏の広間には、もうもうと紫煙が立ちこめていた。


 すでに紺色に近い暗闇の中に幾つもの小さな赤いが浮かんでいる。赤い灯はそこかしこを揺らめきながら大きくなり、また小さくなる。


 鼻をつんと刺すいがらっぽい臭いと、すっかり肩を叩き合う兵士たちの姿。「いつもこうなの」とアイネが言った。


「戦いに出る前は、いつもこう」


 不快をにじませた口調でそれだけ言うと、アイネは煙を避けるように壁際に移り、腕組みして壁に背もたれた。


 俺も倣おうと足を向けかけたところで、後ろから乱暴に肩にまわされる腕があった。「よう」と耳元で低い声がした。目をやると無精髭の伸びたいかつい横顔が、やけに親しげな目つきでこちらを見ていた。――ルードだった。


おいらのこと覚えてるか? 忘れちまったとは言わせねえぜ? ハイジさんよ」


「……覚えてるよ。ルードだろ」


「おお覚えてた、覚えてた。ちゃんと覚えててくれたんだな、ハイジ」


 そう言いながらルードは大柄な身体を震わせて笑った。


 饐えた臭いのする煙混じりの息を間近に吐きかけられては堪らない。軽く手の甲を打って、腕を放してくれと合図する。だが腕の力は緩まない。もう完全に出来あがっているようだ。


 硬い無精髭がちくちくと頬に当たる。俺は早くも堪りかね、非難をこめてルードの横顔を睨んだ。


「いい加減にしてくれ」


 そう言いかける俺に、ルードはしんみりと呟くように「死ぬぜ」と告げた。


 ――心臓の鼓動が大きく跳ね、すぐに小さくなった。そんな俺にもう一度、「死ぬぜ」とルードは繰り返した。


「今夜死ぬよ、お前。そんなツラしてたんじゃな」

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