293 出撃と葬送(6)

「……」


 ルードはもう笑っていなかった。息がかかるほど近くから、何を考えているかわからない茫漠ぼうばくとした目で俺を見ていた。


 ぼんやりとして取り留めのない――だがどこか悲しい目だと俺は思った。返事ができないまま、俺はただじっとその目を見つめ返した。


「前にいたんだ。今のお前みたいなシケたツラしてここを出てったやつが。ありゃいつの話だったかなあ。『砂走り』とってたときだったか」


「……」


「どうしてそんなツラしてたのか知らねえ。けど、結局そいつは帰って来なかった。穴だらけになって死んだよ。敵の斥候にぶつかって、何発も何発も撃ちこまれて」


「……」


「お前のツラ、そのときのそいつにそっくりだ。だからお前は今夜死ぬ。そんなツラしてたんじゃ、きっと死ぬ」


 そこまで言うとルードは真面目な言葉をごまかすように元の笑みを浮かべ、俺の肩にまわした腕にぐっと力をこめた。


 万力のような腕に締めつけられた首がきしみをあげる。だが俺はもうその腕を払いのけようとはしなかった。


 ……無遠慮なルードの予言を、けれどもその通りだと思った。


 そんなツラをしてたんじゃ死ぬ、とルードは言った。それはつまり、そんな気持ちのままでは死ぬ――ということだ。


 そう……このまま戦場に出れば、俺は死ぬ。こんなもやもやしたやり場のない気持ちを抱えたまま殺し合いの場に出れば、たぶんこいつの言う通り、死ぬ。


「なら……どうすればいい?」


 自然とそんな言葉がこぼれた。


 その言葉を待っていたかのように、ルードの左手がすっと俺の目の前に差し出された。その指には煙草――茶ばんだ紙で巻かれた燃えさしの煙草が挟まれている。


 つんとする嫌な臭いに思わず顔をしかめ、けれども俺はその煙草を受けとった。


「昨日が初めてだったんだな」


 そのルードの問いかけに俺は無言で頷いた。するとルードは小さく鼻を鳴らして、「それじゃ無理もねえ」と独り言のように呟いた。


「何が?」


悪心バッドになるのも無理もねえってことさ。あのあとアイネに殺されるとこだったぜ。うちの相棒に吐くまで飲ませるな、ってよ」


 そう言ってルードは視線を外し、向かいの壁に意味ありげな目配せをする。その視線の先ではこちらの様子を窺っていたものと見えるアイネが、いかにもわざとらしく目をそらすところだった。


 張りつめていたものが弛んだ感じで、ルードに目を戻す。するとルードは昨日に見せた人懐こい笑顔で、「ばーか、冗談だ」と言った。


「カマかけてみただけよ。けどま、そんなこったろうと思ったぜ」


「……」


「なあ、ハイジ。おいらたちが戦うのは何のためだ?」


「……生きるためか?」


「そうよ。俺らたちが戦いに出るのは、生きるためだ」


「……」


「戦いに勝って、生き残る。そのためには全部、頭ン中から追い出さなきゃいけねえ。違うか?」


「……その通りだ」


「そのために俺らたちゃを飲むんだ。正しい飲み方を教えてやる。俺らの言う通りに飲んでみろ。いいか、俺らの言う通りにだ」


 わかったと言う代わりに、俺はその燃えさしの煙草を口に含んだ。


 饐えた臭いのする煙が鼻を抜け、いがいがと鼻腔に貼りついてくる。その嫌な感覚をこらえて、俺はルードの言葉を待った。


「まずは煙をいっぱいに吸いこむ。胸ン中がいっぱいになるまで……そうだ。そしたらそこで息を止めて……おっと、むせるなよ? そう……そうやって煙を胸ン中にためる。そうしてその煙がじんわりと身体に染みこんでくるのを待つんだ」


 ルードの言う通り、煙をいっぱいに吸いこんで胸にためた。そしてその煙が血に溶けて、身体中に運ばれてゆくのをイメージした。


 ぼんやりと、頭の裏側に鈍い熱が生まれるのがわかった。暖かい光のようなものが、そこから全身に広がってゆくのを感じた。


「どうだ。火がともったか?」


「ああ……点った」


「そうしたら、今度はその火をんだ。ぼわんとしてるそれをな、鋭くどこまでも。そのことだけを考えるように。頭ン中がそれだけになるように」


 言われた通り、俺はに意識を集中した。が鋭くとがってゆくのを必死になってイメージした。


 最初のうちそれはうまくいかなかった。「うまくいかない」、正直にそう言うとルードは「なら、もっと吸ってみろ」と言った。


 言われるままに煙を吸い、さっきと同じように胸にためる。頭の裏の火が少しだけ大きくなるのを感じながら、俺はまたそれを作業に戻る。


「何も難しいこっちゃねえ。むずむずするような熱い塊があるだろ? 頭と首の間あたりに。そいつをひっ捕まえるんだ。そいつをひっ捕まえて、押さえつける。押さえつけたらそいつがのを待つ」


「……わかった」


 そんな言葉とともにまた一服の煙を飲み下して、雲のように広がるその熱い塊を掴もうと躍起になった。


 ――と、それまでまったく掴みどころのなかったそれが一本の棒になるのを感じた。


 ぼんやりとした火が鋭くのがわかった。漠然としていた鈍い快感がほとんど瞬間的に脊髄に集まり、金属の柱のようにしっかりと固まったのを覚えた。


「……とがった」


「よし、それでいい。しばらくそいつに集中しろ。そいつのことだけ考えろ」


 言われるままに、俺はそのに意識を集中した。は頭の裏から背筋にそって真っ直ぐに伸び、ちりちりと焼けつくように熱を持っている。


 何だろう……これはいったい何だろう?


 疑問の答えはすぐに出た。……それは俺の神経だった。鈍い熱をもって燃えているのは、俺の神経そのものだった。


 それを理解した途端、まるで霧が晴れるようにぱあっとのを感じた。


「どうだ、か?」


「ああ……


「そうだ、それだ。そいつのために俺らたちゃそれ飲んでるんだよ。わかったか?」


「……よく、わかった」


 ――それは圧倒的な感覚だった。


 身体中の神経が剥き出しになったように鋭敏になっているのがわかった。頭のてっぺんから足の先まで、全身に光が広がっているようだ。その光は鈍い熱を持ち、どこまでもクリアで、どこまでも鋭い。


 その感覚の手綱を、今、自分がしっかりと握っていることに気づいた。


 この手綱を放せば、ちょうど昨日のように俺はどこまでものぼってゆき、そしてどこまでも落ちてゆく。けれどもこの手綱を握っている限り、俺はこの感覚を自由にことができる。「目をつぶってみろ」と、そこでルードの声が届いた。


「目をつぶって、耳に意識を集中してみろ」


 目をつぶり、耳を澄ました。するとどうだろう、不思議なことが起こった。まるで塞がれた視覚の分が聴覚にまわったように、耳が異様に鋭くなるのがわかった。


 それまでぼんやりしたざわめきとして聞こえていた周囲の声が、ひとつひとつはっきりとした言葉の連なりとして耳に届く。そうしてあたかもカメラのズームを合わせるように、特定の会話を狙ってその音を拾うことさえできる。


「よし、目をあけてみろ」


 目を開けると、聴覚にまわっていた感覚が瞬時のうちに視覚に戻った。だがその視覚に映る映像は元のままではなかった。


 紫煙のたちこめる暗闇にうごめく人々の姿が、底光りする古い映画の一場面のように、鮮やかに胸に迫った。


 わずかに感度の落ちた耳は、けれどもやはり元の耳とは違って、そこかしこにあがる笑い声、小さな囁き、舌打ちや足を踏み換える音までもが一体となって、戦いを目前に控えた戦士たちのたむろする一室の、その本来の姿をありありと訴えかけてくるようだった。


「……すごいな」


「わかったか?」


「ああ、わかった」


「そう、そのツラだ! そんな面してりゃ、今夜におっんじまうようなこたねえ!」


 そう言ってルードは肩にまわしていた腕を放し、その手でばしばしと俺の背中を打った。


 痛さに顔をしかめ――ルードの言う通り、胸に巣食っていたあの遣り場のない気持ちがすっかり消えていることに俺は気づいた。


 ……そんなものはもう影も形もなかった。煙草の吸い方のレクチャーにことよせて、ルードは俺の気持ちを解放してくれたのだ。そのことがわかって、俺は礼を言おうと後ろを顧みた。


「よお、やってるか?」


 と、ちょうどそこへラビットとゴライアスがやって来たところだった。昨日、俺を迎えてくれた三人が揃うと、ルードは当然のようにその輪の中に俺を加え、ラビットから差し出される煙草の吸いさしを口に含む。


「なに話してやがったんだ? ずいぶん楽しそうによ」


「なぁに、ちょっとばかしアドバイスしてやってたのよ」


「アドバイス? いったい何のこった?」


「あれだ。うちでってくうえで、死なねえようにアドバイスをな」


 自慢げにそう言うルードに、ラビットとゴライアスは顔を見合わせた。それからまたこちらに向き直ると、「そら無駄なことしたな」と醒めた口調でラビットが言った。


「あ? このルード様のアドバイスにけちをつける気かてめえ?」


「そうじゃねえ。どっちみち無駄だって言ってんだ」


「なんだよ。どっちみちハイジは今夜、おっぬってか?」


「ああ、そだな。だってほら、あいつの相棒バディやるってんだからよ」


 ラビットの指差す先で、アイネがさっきと同じようにそっぽを向くのが見えた。今度はルードと俺が顔を見合わせ、それからまたラビットたちに向き直る。


「違いねえ」


 と、溜息混じりにルードが呟くのが聞こえた。それをきっかけに巻き起こる三人の笑いにいつしか俺自身も加わり、乾燥した闇と煙に充ちた広間に、腹の底からの笑い声を一頻り響かせた。


◇ ◇ ◇


 ほどなくしてDJの姿が入り口に見えると、それまで喧噪に沸き立っていた広間は水を打ったように静まりかえった。


 壁際で立ち止まるDJの周囲に、全員一言もなく、靴音さえ殺して集まってゆく。もちろん、その中にアイネの姿もあった。ちらりとこちらを窺い見る彼女にうまく反応できないまま、俺もまた黙ってDJを取り巻く人込みにまぎれた。


「一昨日言った通り、今夜の相手は『猿の部隊』だ」


 周りに人が集まるや、何の前置きもなくDJはそう告げた。取り巻きからはひとつの声もない。みな息を詰めるようにして話に聞き入っている。


「最後に確認した時点で、本隊はD-36に駐留。分隊がC地区に展開。斥候はもうこのあたりをうろついてる。分隊は散開してこちらに向かってる。よって今夜はまずこの分隊を個別撃破し、余勢を駆って本隊を殲滅する。いいな?」


「はい」


 低く押し殺した人数分の「はい」がDJの「いいな?」に続いた。当然、俺は同調できず、時間遅れで飛び出しかけたその返事を慌てて口の中に戻した。


 それからしばらくDJからの指示が続いた。内容は主に敵部隊の情報を伝えるもので、要点だけを短い言葉で簡潔に並べてゆく。


 時おりDJの問いかけに応えて「はい」という返事があがる以外、周囲に声はない。さっきまで俺を構っていた例の三人も、リカも、カラスも――そしておそらく隣に立つアイネも、みな真剣な面持ちで押し黙り、DJの話に耳を傾けている。


「――で、ひとつ命令だ。今夜あたりも『鉄騎』が出張ってくる可能性がある。だが今夜、やつらには絡むな。平たく言えば戦闘を避けろ。いいな?」


「はい」


 もう何度目になるかわからない「はい」の斉唱のなか、一人がすっとその手を挙げるのが見えた。カラスだった。


「カラス」


「はい。『鉄騎』との戦闘は避けろということですが、避けられない場合、特に向こうから戦闘を仕掛けられた場合には?」


「そんときは仕方ねえ。だがこっちからは仕掛けるな。避けて通れるようなら避けろ。いいか?」


「了解しました」


 カラスの質問が終わると、DJは伏せていた頭をおこして周囲に視線をめぐらせた。「他には?」と声が響く。けれども手は挙がらない。


 それを確認してDJは壁際から一歩前に出、並んで立つリカとカラスに向かい、「カラスは斥候。E-16の路地から侵入してC地区の状況を偵察」と言った。


「はい」


 リカとカラスの返事があって、DJはその隣に向き直る。


「ルドルフ、ノーマは第1分隊を構成。分隊長はノーマ。D-12に迂回して横合いから本隊を援護」


「はい」


 今度は四人分の返事が響く。アイネの言っていた部隊の編成がはじまったのだ。


 DJが矢継ぎ早に今夜の部隊を編み上げてゆくのを黙って見守った。


 一人の名前が呼ばれる毎に二人分の返事があがる。最初はそれを奇妙に感じたが謎はすぐに解けた。部隊の最小単位である相棒バディは最初から決まっている。だから片方を呼べば、もう一方を呼ぶ必要はないのだ。


「ハイジは別働隊を構成」


「……!」


 唐突に自分の名前を呼ばれ、思わず身を竦めた。当然アイネの名前が呼ばれるものと思っていたからだ。そんな俺に構うことなく、DJは無機的に指令を続けた。


「内容はここから全部隊が退出したあとに伝える。よって出撃命令後もおまえらは残るように」


「はい」


 アイネに遅れまいと返事をした。けれども隣から返事はあがらず、その代わり周囲に小さなどよめきが起こった。


 ――どうしたのだろう? そう思って俺が隣に目をやるのと、「いいか?」という声がDJからかかるのとが同時だった。


 今度はアイネだけが返事をし、周囲のどよめきもそれで収まった。


 何だったのだろう……どこかおかしなところがあったのだろうか。俺がそう思う間に、DJはもう次の組に指示を出しはじめていた。


「――で、全部だな。まだ指示出てねえとこあるか?」


 返事はなかった。それを確認してDJは「なら出撃にかかるが」と言い、そこでいったん切って俺たちに向き直った。


「アイネとハイジは残れ。他は速やかに退出し、オレが行くまで外で待機してろ。オレが出たらそこで改めて出撃命令を出す。それまで待て。いいか?」


「はい」


「よし、行け」


「はい」


 その返事で周りが一斉に動いた。粛々とした足取りで整然と一人、また一人と部屋の口を抜けてゆく。


 薄闇のなかルードがちらりとこちらを窺い、思わせぶりな微笑みを残して出てゆくのが見えた。片目をつぶり小さく手を振ってくるリカと、その隣でいつもの冷たい横顔を見せるカラス。


 ものの数秒経つか経たないかの間に、部屋の中にうごめいていたもののすべてが、跡形なく漆黒の廊下に呑みこまれていった。


「で、おまえらの行動だが」


 全員が部屋を出きってから一拍あってDJの声がかかった。それが別働隊に関する指示だとわかり、気を引き締めて耳を向けた。


「別働隊は『鉄騎』に関するもんだ。さっき『鉄騎』には絡むなと言ったが、おまえらだけは別だ。『鉄騎』の男、あいつが首から提げてるペンダントを狙え。そいつを奪って来い」


 ……何を言っているのかさっぱりだった。もっともアイネにはこの説明で充分なのだろう。


 そう思った矢先、隣でアイネが手を挙げるのがわかった。だがDJはそれを制して、「最後まで聞け」と言った。アイネは手をおろした。


「戦わなくていい。正面からは行くな、隙をついて盗れるようなら盗れ。あと、女が三人揃ってたら諦めろ。今夜は一人いないって情報がある。それがだったら奇襲かけろ。奇襲にならないようならやるな。わかったか?」


「はい」


 揃って返事を返した。依然として俺にはまったく話が見えなかったが、アイネの疑問は解消されたようだ。


 それでいい、と思った。今はそれでいい、必要なことは全部あとでアイネから聞けばいい。「あともうひとつ」とDJの声が続いた。


「おまえらがそのペンダントを狙ってることを、絶対に気づかれるな」


 それまでとは違うゆったりと落ち着いた声でDJはそうつけ加えた。だがその声に明らかな殺気――昨日あの場で俺に向けられたものと同じ掴みどころのない殺気を感じた。


 硬直する俺の隣でアイネがまた手を挙げた。今度は「何だ?」というDJの返事があった。


「そのペンダント狙ってること気づかれたら駄目なのは、誰に?」


「おまえらと、あとオレ以外の全員」


「仲間にも?」


「ああ、仲間にも。今夜の戦闘が終わっちまったあとも」


「――わかった」


 少し詰まったアイネの返事のあとに、DJは目を細めてじっと俺たちを見た。気の抜けた感じのするぼんやりとした、だが背筋を凍らせるような視線……。


 その視線の意味はわかる気がした。それは言葉にしなくても――言葉にするよりも、はっきりとわかる。


「オレらが動くまでここを出るな。出撃したらすぐに出ろ。……まあそんなに硬くなるな。みたいなもんだと思って気楽にやれ」


 最後に緊張を弛めてそう言うと、俺たちの返事を待たずにDJは部屋を出ていった。それを認めるとアイネはおもむろに窓の近くに移った。俺もそれに倣う。


 窓の下に仲間たちが身じろぎもせずじっと待機しているのが見えた。やがてそこにDJの姿が現れ、部隊が四方に散開してゆくのを見届けたあと、こちらを見ないままアイネはその窓から離れた。


「出よ」


「ああ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る