080 水面(3)

 『王の間』に戻るとそこにペーターの姿はなかった。


 寝台の上には今朝中庭に向かう前に俺が置いていったナツメヤシの実が手つかずのまま残されている。それを見て言いようのない虚脱を覚えながら、彼女の痕跡を探して部屋の中を見まわした。


 ……何もなかった。例によってあいつはまた俺の前から姿を消した。そう思って溜息をつき、そのまま俺は寝台にうつぶせに倒れこんだ。


「……」


 咳き込むほどの砂埃が鼻先に立つのがわかった。ぐったりと寝転んだ姿勢で、目を閉じ息を止めてその砂埃が静まるのを待った。


 ……もう何をする気力もなかった。起き上がるのはもちろん、指一本動かすのも嫌だ。手首は相変わらず激しい痛みを訴えているが、それをどうにかしようという気持ちもなければ、怪我の具合を確かめようとする思いさえ湧いてこない。


 だいぶ時間が経ってから目を開けた。左頬を寝台に押し当てた視界の真ん中に、赤いナツメヤシの実が鮮やかに映った。


 表面の張りがなくなり始めた、けれどもまだ充分に艶やかで瑞々しい果実。ひりつくような喉の渇きに思わず手を伸ばしかけて――かすかな理性の声にそうするのを止め、手を元に戻した。


「……」


 ペーターはどこへ行ったのだろう、と思った。


 今朝の様子からすれば自分がしでかしたことについて反省しているようだったし、そのことを咎め立てするつもりはないという俺の意思も伝えた。だから彼女が俺から身を隠す理由はもうどこにもないはずだ。


 それなのにあいつはまたいなくなった……その事実に俺は怒りでも諦めでもなく、ただ全身がばらばらになってしまうような深い脱力を覚えた。


「……」


 眼前にナツメヤシの実を眺めながら、あいつはなぜこれを食べなかったのだろう、と思った。


 水も食糧も残らず壊した……あの短い会話の中で彼女は確かにそう言っていた。裏を返せば、ペーターは俺と同じように一昨日の夜から何も口にしていないということだ。そんな話を聞くまでもなく、あいつがずっと飲まず食わずでいたことは、やつれて眼窩がんかの落ち窪んだ顔を見るだけでわかった。


 そう……今朝の段階でペーターの衰弱は疑うべくもなかった。


 生気のない表情で眼差しだけが煌々こうこうとした光をもってこちらを見るその様子に、今にも切れそうな細い糸を思った。俺よりも彼女の方が危険な状態にある、はっきりとそう感じた。


 そう感じたからこそ俺はこのナツメヤシの実――いったんはあいつの目から隠した最後の食糧をここに置いてから中庭に向かったのだ。


「……」


 ペーターを捜しに行かなければならない、と思った。


 あいつを捜し出して無理矢理にでもこのナツメヤシの実を食べさせる。そうしなければあいつは今日という日を乗り切ることができないかも知れない。


 ……だがそう思ってみても身体は動かない。文字通り骨折り損に終わった木登りのために気力を使い果たしたこの身に、あいつを捜してまた城中を這いずり回る気力など、もうどこにも残ってはいない。


 水が飲みたい、と思った。


 あれほど激しかった空腹は嘘のように消え、今はただひび割れたような喉の渇きだけがある。かすかな呼気いきの苦しさが脱水症の兆候を示しているのがわかる。


 ……水が切れてそろそろ二日、そうなるのも自然な帰結だ。あいつのことばかり心配している場合ではない。このままでは俺も今日一日をしのげるかわからない。改めて考えるまでもなく、俺も充分に危険な状態にあるのだ。


「……」


 もう真昼に近い。風の絶えた砂漠に太陽は天火オーブンのように大地を焦がし、部屋の空気はじりじりとその灼熱の度合いを増してゆく。


 剥き出しの上半身は既に汗まみれで、胸にも背中にも砂粒が張りついているのがわかる。その砂粒が流れ落ちないのは汗が少ないからではない。ただ乾ききった大気の中に、汗は流れ出るはしから蒸発していってしまうというだけのことだ。


 砂が陽射しを遮ってくれた昨日は別として、今日の暑さは一昨日までと比べても一段と厳しい気がする。……いや、間違いなく別次元の暑さだと感じる。体内の水がきれかけているからそう感じるのかも知れない。


 この汗が出なくなったとき本当の地獄が来るのだろう。そしてそれがそう先の話でないことは、もう口の中に唾が出てこないことからも明らかだ。


「……」


 このまま死んでしまったらどうなるのだろう、と思った。


 あの日曜のホールで自分の頭に向け銃の引き金を引いて始まった舞台。自分の立ち位置も掴めないまま袖へと追いやられたその舞台において、俺は今まさに死のうとしている。


 それはでのことに過ぎないと思っていた。ここで死ねば最後までわけがわからなかったこの舞台の枠組みからも解放される、何の疑いもなくそう思っていた。


 ……けれども、違っていた。その認識が根本的に間違っていたこと……ウルスラがくれたパズルのような言葉の意味に、昨日の夜、俺は気づかされた。


 ここで死んでもあそこへは帰れない、それだけははっきりとわかった。


 俺が生まれ育った町……これからもずっと暮らしていくと思っていた町に、俺はもう戻れない。


 空の青に水銀が溶けて混じるように……あるいは風ではない何かが四方から押し寄せてくるように、あそこは変質してしまった。


 統御の破綻により取り返しがつかないまでに変質し、遠からず滅びようとしている。ウルスラはそう言っていた。


 そして彼女の言葉を借りればそこは実験的に構築された非現実の世界で、俺がいるこここそが現実の世界で――


 現実の世界で――――…………・・・


「……う」


 迷宮に入りかけた思考は灼熱の中に掻き消えた。


 もう一度同じことを考えようとし……それができないのを認めて、自分がいよいよ危険な状態に陥ろうとしていることを理解した。


 ……このままでは本当に死んでしまう。熱に朦朧とする意識で他人事のようにそう思い、立ち上がるために寝台に手を突いた。


 ……できなかった。どれだけその手に力をこめてみても、砂まみれの寝台から身体は一向に持ち上がってはくれない。暑い、とにかく暑い――


 暑い――――…………・・・


「ぐ……」


 何度か起き上がろうとして挫け、やがて俺はそうするのを諦めた。


 身体に力が入らない。徒労に終わった木登りの疲れが出たのか、それとも別の理由によるものか。


 ……もし別の理由によるものだとしたら、その先に待っているものは何となく想像がつく。だがそう思ってみたところで、踏ん張っても立てないのだからどうすることもできない。


 手の指先がわずかに痙攣しているのがわかる。左手首の痛みは衰える兆しをみせないままそこにあるが、まるでその痛みだけが俺の身体から切り離されて宙に浮かんでいるように、もう大して気にならない。


 呼気いきが苦しい……熱く乾いた空気が肺を内側から灼いている。次第に弱く、小刻みなものになってゆく呼吸を感じながら、気がつけば自分の身に死がもうそこまで迫っていることを認めた。


 ――――…………・・・


 ――――…………・・・


 ……水が飲みたかった。


 朦朧として途切れ途切れになる意識の中に死への恐怖はなく、ただ水への渇望だけがあった。


 ひとすくいの水を口にできるなら死んでもいい……本気でそう思った。心の中には水しかなかった。


 ――けれども緩慢にその機能を停止しようとする頭が考えるのは、水のことではなかった。


 焼き尽くされるような渇きの狭間に、俺はペーターのことを考えた。


 瓦礫と太陽の光以外何もない部屋の片隅に、一人きりで死を迎えようとしている彼女を想像した。


 その彼女のために自分がすべきこと、しなければならないことを思った。そしてそのために、どれだけ動けと命じても動かない身体を堪らなくもどかしいものに感じた。


 ――――…………・・・


 ――――…………・・・


 ぼやけた視界に赤いナツメヤシの実だけがやけにはっきりと鮮やかに映った。


 その実を口にしたいという欲求は狂おしいほどで、身体が動いて手を伸ばせたならば実際にそうしていたかも知れない。


 けれども俺はそうしなかった……そうできなかった。


 そうしてもう一度、なぜペーターは俺が枕元に置いたこの実を食べなかったのだろう、と思った。


 ――――…………・・・


 ――――…………・・・


 その思考も続かなくなり、ペーターのことが頭から消えたあと、俺の中には渇きだけが残った。


 ただ水が飲みたかった……それ以外に何も考えられなかった。


 もうどんな水でもよかった。泡の浮いたどぶの水でも、流してない便所の水でもいい。知性のない虫けらのように四ツ這いになって水がすすりたかった。


 そこに至って、俺はがこの城にあったことを思い出した。


 ――――…………・・・


 ――――…………・・・


 今こそあの泉の水を飲むときだ、と思った。


 多少毒が含まれていてもいい……いっそ一口飲むだけで死ぬ水でも構わない。


 膝をついて貪るように水を飲む自分の姿を脳裏に描いて、その衝動は俺の中で確かなものになった。


 今すぐあの泉に向かおう、そう思った。そして生物としての本能のおもむくまま、何も考えずにその泉の水をすすろう――


 ――――…………・・・


 ――――…………・・・


 そう思って寝台から立とうとした。だがどれだけそうしようと試みても、俺は寝台の上に身体を起こすことができなかった。


 なぜ起き上がることができないのか、もうその理由がわからなくなった意識で俺はしばらく足掻き続けた。


 やがてその意識もきれぎれになり、眠りに落ちるときとは明らかに別の真っ暗な淵に落ち込んでゆくのを感じながら、最後に一度だけペーターの姿を思い描こうとして――できなかった。

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