091 消えかけた光の中で(3)
静寂に充たされる大学の構内を歩きながら、自分がなすべきことをもう一度心に確認した。
この町のどこかにあいつを捜し出すこと。そして今度こそ一緒の舞台に立とうと、自分の言葉であいつにそう告げること……それだけだった。
ずぶ濡れの服はそのままだった。疲れ切って崩れ落ちそうな身体も、どこへ向かえばいいのかわからない目の前の暗闇も。
それでも俺は濡れて額に張りついた髪を両手で掻き上げ、また宛てもなく夜の町に駆け出した。
「……」
大学の前を横切る高台の通りに、根本から切れて地面まで垂れ下がった電線を見た。駐輪場の自転車は揃ってなぎ倒され、折り飛ばされた生木の枝が道路の真ん中に無造作に転がっている。
そんな嵐の爪痕がそこかしこに残る町を、同じようにぼろぼろの身体を引きずるようにして走った。もう息があがるほど速く駆けることはできなかった。痙攣の治まらない脚にどうにか力をこめ、文字通り幽鬼のように深夜の町を彷徨った。
空を覆っていた厚い雲がきれ、雨は絹糸のような霧雨に変わった。その霧雨の中に、気がつけば町は夜明けを迎えようとしていた。
音もなく漂い落ちる無数の粒子の向こう側に、紺一色だった景色はゆっくりとその本来の色彩を取り戻していった。
やがて生まれたての太陽が地平に顔を出したとき、あがりかけていた雨は最後の輝きをもって瞬く間に消えてなくなった。
雨上がりの朝の町をそのまま歩き続けた。
下着まで濡れそぼっていた服が乾く頃には陽は高く昇っていた。ただそうしてせっかく乾いた服も、暑くなるにつれ全身に噴き出してくる汗のためにまた元通り湿ってゆく。
じりじりと容赦なく照りつける夏らしい陽射し。だが止めどなく流れ出てくる汗は、たぶんそんな陽射しのためばかりではない。
「……」
まだ乾ききらないアスファルトから立ちのぼる湿気がむせ返るようだった。こんなスチームの中を歩いていれば汗をかくのは当然だと、疲労のためにうまくはたらかない頭にぼんやりとそう思った。
よく晴れた空にはいつの間にか入道雲があがっていた。それでも大雨に降りこめられた翌日の町は、今も何となく憂鬱な顔つきをしているように見えた。
徹夜で走り続け、そこからさらに半日近く歩いた町の光景は、俺にとってまったく見慣れないものになっていた。初めて目にするその景色は、はや午後に差しかかろうとする陽射しの中に揺らいでいた。
……幻のような景色だと思った。いつか見た現実から乖離した景色とは違う。むしろ現実感があり過ぎるために、それは俺の目にどこまでも遠く映る。子供の頃、映画の中で観た風景のように……あるいはいつかどこかで出会った古い記憶の中の情景のように――
そこでふと、その印象が間違いではなかったことに気づいた。俺はいつかここに来たことがある……もう何度目になるかわからない既視感を覚え、俺は立ち止まった。
そうずっと前、俺は確かにここに来たことがある。
夏の初めのよく晴れた日、雨の浸みたアスファルトから立ちのぼる臭いを嗅いだ蒸し暑い午後。この場所をあいつと二人きりで歩いたときのことを、俺はまだはっきりと覚えている。
「……」
それに気づいたとき、周囲の景色は見覚えのあるものになっていた。それは手入れの行き届いた生け垣が続く閑静な住宅街、ペーターの家から少し離れた宅地の間を縫う舗道だった。
高校の頃、彼女が演劇部に入ってまだ間もない日に偶然出会い、そのまま二人で歩いた道だった。取り留めのない話をしながら初めてあいつと二人きりで同じ時間を過ごした、よく晴れた日曜の午後の街角だった。
――それは確かにあの日の街角だった。
記憶の中に色褪せかけたあの日の通りに俺は立っていた。そんな思いに逆らわないまま俺は小路を曲がり、あの日あいつと出会ったその場所に出た。
昼下がりの太陽の下、短く刈り込まれた生け垣が青々とした葉を光らせていた。通学路の標識が濃い影を落とす間道にはあのときと同じ淡い陽炎が立ち、その向こうから今にも彼女が現れる――そんな錯覚を覚えた。
「……」
俺の姿を認め、意外そうな顔で訝しむように声をかけてきた――そんな彼女の面影が陽炎の中に浮かんで消えた。
そこには誰もいなかった。
記憶から切り出された日曜日の午後に、出会うはずのあいつの姿はどこにもなかった。ただ鮮やかな初夏の陽射しに照らされるあの日の景色だけがあった。
……幻のような景色だった。誰もいないその間道を眺めながら、しばらくぼんやりと俺は立ち尽くした。
その風景を眺めながら、あの日のことを思い出した。
この場所でばったりあいつと会い、バス停までの道すがら手探りにぎこちない会話を交わしたときのことをひとつひとつ思い返した。
俺がまだあいつを自分に懐いてくるただの後輩として見ていた頃。その関係を少しだけ違ったものにするための魔法がかけられた……たぶん、最初で最後の午後だった。
「あ――」
不意に、あのときの感情が胸にわきおこるのを感じた。
遠い昔に失ってしまったもの――あいつに対して感じていた真新しい気持ちが、
気怠いばかりの暑い午後に、思いがけず彼女に会った瞬間に感じた高揚と、小さな困惑。そんな気持ちのままお互い何となく並んで、陽射しの中をそぞろ歩きしながら感じ続けた、この時間が俺たち二人にとって特別なものに違いないという根拠のない確信――
「……」
微睡むような景色に、あの日の道はただ真っ直ぐに続いていた。
こんな道をあいつと二人でどこまでも歩いてゆくことができる……あの頃の俺はそう思っていた。そんな未来を思い描き、そうなることを心の奥で願っていた。
どこにでもあるような道をどこにでもいる二人のように手を繋いで歩くこと……いつかそんな日が来ることを漠然と、だがはっきりと信じていた。
けれども、その手が繋がれることはなかった。この日、この場所で繋がれることのなかった俺たちの手は、それから一度も繋がれることのないままお互いを見失った。
そうして俺たちは離ればなれにあの長く曲がりくねった迷路に迷いこみ、今もってそこから抜け出せないでいる。出口のないその迷路にあいつを捜して、自分がどこにいるかもわからないまま一人、立ち尽くしている。
――どうしてこうなってしまったのだろう。後悔でも悔恨でもなく、純粋な疑問としてそう思った。
この午後に、この景色の中で感じていた混じりけのない気持ちのまま、ぼろぼろに壊れ果てた自分たちを思った。
……そのふたつは重ならなかった。今の俺たちはこの日思い描いていた予想図から、あまりにもかけ離れていた。
この道の彼方にそんな自分たちがいることが信じられなかった。この高揚の果てにあるものが行き場を失った離ればなれの二人だと、そう考える自分を認めることができないもう一人の自分がいた。
どうしてこうなってしまったのだろう。もう一度そう思って――そこでふと、またあの波が押し寄せてくるのを感じた。
あの無人の芝居小屋で、嵐の庭園で起きたそれが、圧倒的な記憶の濁流が瞬く間に俺の意識を埋め尽くしていった。
あの日、この場所でペーターと歩いたひとつひとつの景色、ひとつひとつの感情が掘り起こされ、積み上げられ、そしてまたあの時々と同じようにひとつの大きな情動――あの日の午後をもう一度やり直したいという思いに収束してゆくのを感じた。
「……」
けれども、生まれかけたその思いは陽炎のように立ち消えた。その衝動はあの芝居小屋や庭園でのそれのように、俺の心を激しく揺り動かすことはなかった。
なぜだろうと考え、すぐにその答えは出た。その衝動から逃れるための鍵を、俺は最初から持っていた。
『あの日の午後をもう一度やり直せるとしても俺はまた同じことをする』
――それが、俺にはわかっていた。
……そういえばこの午後のことを何日か前、夢に見たことを思い出した。
あの廃墟の砂まみれのベッドで眠る明け方の浅い眠りに、たしかこの午後の出来事を夢に見た。その夢にはちゃんとあの日と同じあいつがいて……けれどもその夢の終わりに俺は同じことを思った。
あの午後をもう一度やり直せるとしても、俺はまた同じことをする。不確かな夢の中の意識で、確かに俺はそう思った……。
「……」
ぼんやりと立ち尽くす俺の前に、日曜日の午後は続いていた。初夏の陽射しに照らされる人通りのない街角は、何も変わらないままその場所にあった。
眩しいその景色を眺めながら、今いるここが夢の中なのではないかという錯覚にとらわれた。いつかのように明け方の浅い夢の中に俺はこの風景を見ているのだと、そう思った。
……アスファルトから立ちのぼる熱のように意識に浸みこんでくるそんな思いを、けれども俺は頭を振って追いやった。そしてもう一度、目の前に続くその景色を見つめた。
ここにペーターはいなかった。それだけ確認して、俺はまた歩き始めた。
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