288 出撃と葬送(1)
――夢を見ている。それが夢とわかる夢の中で、あの路地の光景を見ている。
目の前にはアイネがいる。ぼんやりと淡い月明かりの下に裸のアイネと向き合っている。
透きとおるように白い肩と胸……そこから下は暗闇に溶けて見えない。路地の底に澱む青みがかった濃い暗闇。その暗闇から彼女は冷たく光る目でじっと俺を見ている。
二人の間には死体が横たわっている。腰までずり下がったズボンをそのままに、だらしのない姿勢で寝転がる男の死体。
右手の中には硬い銃把の感覚がある。その銃身からの熱と辺りに立ちこめる硝煙の臭いに、ここがたった今この男を撃ち殺した直後の場面であることを知った。
「楽しんでくれているだろうか」
不意に低い声が耳に届いた。隊長の声だった。昨日からそう呼ぶことになった
けれどもその姿は見えない。隊長の姿などどこにもない。そう思ってすぐ、目の前に立つ女の唇が動いていることに気づいた。その隊長の声が、アイネの口を借りて語られているものであることを理解した。
「楽しんでくれているだろうとも。君は今、
アイネの唇から漏れるその声はたしかにあの隊長の声だった。鷹揚で深みのある聞き慣れた声。どうやらこの舞台のことを言っているようだ。
そのことがわかって、俺はにわかに反発を覚えた。……楽しんでなどいない。まだとても楽しめるところまでいっていない。わけのわからない世界にいきなり放りこまれて、どんな役かもわからない役をぎりぎり演じるだけで精一杯だ。
「そんなことはない。君はよくやっている。そのわけのわからない世界で幾つもの困難な場面に行き当たりながら、どの場面でも実にうまく立ち回っている。ここまではまず及第点と言っていいだろう。自信を持っていい」
声にならない俺の声は、けれども
気休めなんて隊長らしくもない。俺がどれだけできていないか、自分が一番よくわかっている。今やっているのはとても演技などと呼べたものではない。なにしろ俺は、自分が演じているのがどんな役なのかさえ未だに掴めていないのだから。
「そうだ。君が今やっているのはとても演技とは呼べない代物だ。状況に合わせて卒なく立ち回っているに過ぎない。素のままの演技をただどうにかこなしているだけだ」
そう、俺は素のままの演技をどうにかこなしているだけだ。あの日曜日のホールで
そんなものは演技ではない、演技と呼ぶにはほど遠い。この舞台に立ってこの方、俺はまだどんな役も演じていない。演じることができていない。
「それでいいのだ。ここまではそれでいい」
「あのときも言ったはずだ。最初は素のままの演技でいいと。場面、場面で思ったまま、君の感じたままを演じてくれればいいと」
「その点、ここまでの君はよかった。だが、その話に続きがあったのを覚えているだろう。ちょうど頃合いといったところだ。このあたりでそろそろ演じはじめてもいいはずだ」
そこで俺は
ただできていないだけだ。それがまともな演技になっていないというだけのことだ。自分が演じている役がどんな役かもわかっていないというだけの話だ。
「じきにわかる」
「もうすぐに、その役がどんな役かわかる」
「さあ、そろそろ頃合いだ。君が待ち望んでいたこの世界で、自由に思うまま演じるといい。これまでような素の演技ではない、君自身の演技を。本当の舞台がはじまるのはそこからだ。……では私もこのあたりで控えに入らせてもらうとしよう」
それだけ言うと
薄明かりの下に浮かぶ真っ白な背中が俺の目を射た。それが路地の奥の闇に飲まれていくのを見守りながら、ひとつの言葉が頭に引っかかって離れないのを感じた。
――控えに入る?
隊長の口から出たその言葉がしきりに気にかかった。聞き慣れたその言葉のどこかに、何かとてつもなく大きな違和感を覚えた。
だがそこで、夢は終わりを告げた。その違和感の正体が何かわからないまま、俺の意識は夢の外側を目指して急速に覚醒していった――
◇ ◇ ◇
首の裏にざらついた砂の感覚があった。
午後の太陽が射すコンクリートの部屋は、昨日の起き抜けがそうであったように、暑く乾いている。
だが寝起きの感覚は昨日よりだいぶましだった。この暑いさなかにあって俺は毛布をはだけることなく、背中に敷いた上着をずらさずに寝ていた。袋の端を丸めた枕もちゃんと頭の下にある。
慣れてきたということなのだろうか。あるいは単に昨日眠れなかったから今日はよく眠れたというだけなのかも知れない。
ぼんやりそんなことを考えながら毛布の中に伸びをし……そこで俺は顔をしかめた。寝ている間にかいた汗のためか、肌という肌に薄い膜が張ったような不快感があった。少し身体を動かすはしから、その不快感はもっとわかりやすく痒みへと変わっていった。
……考えてみれば当然だ。もう二日も身体を洗っていないのだ。
無性にシャワーが浴びたかった。この肌に貼りつく嫌な感触を熱い湯で洗い流すことができたらどんなに気持ちいいだろう。けれどもこの砂漠の真ん中にそれが不可能な望みであることはわかっている。飲み水にさえ事欠くこの場所でそんな贅沢が許されるはずもない……。
そう思ってはみても痒みは治まらなかった。むしろ身体を動かすたびにじわじわと強まっていくようだ。シャワーは無理でも、この痒みだけはどうにかならないだろうか。少しでも水を浴びるか、せめて何かで身体を拭くだけでも。
そう思って身体を起こした――そこでこちらに向けられた白い背中を見た。
「……」
窓から射す光の帯の向こう側にアイネの白い背中があった。
夢の続きを見るような気持ちで、俺は呆然とその背中を見つめた。短い髪のかかる首筋から半脱ぎの服に覆われた腰まで、一糸まとわぬ裸だった。太陽の光を避けた薄暗がりの中にあって、たおやかな曲線を描くその背中はいっそう白くぼんやりと輝いて見えた。
……どうやら身体を拭いているようだ。ほどなくしてそう気づいたあとも、俺はしばらくその背中から目を離すことができなかった。
不意にアイネが頭だけこちらに向け、「おはよ」と言った。そうしてすぐまた頭を元に戻す。
その何気ない挨拶に、俺の方ではまともに返事を返すことができなかった。だがそこでようやく我に返り、慌ててその無防備な背中から目を逸らした。
「よく眠れた?」
「ん……」
「よく眠れたか、って聞いてるんだけど」
「ああ……昨日よりはだいぶ」
「そう。よく眠れなかったんじゃないかと思って。ずいぶん悪酔いしてたみたいだから。そっちはもう大丈夫?」
「……何の問題もない」
「なら、よかった」
まだよく働かない頭で、ほとんど機械的にぎこちない答えを返した。それきり会話は途切れ、アイネが身体を拭くかすかな音だけが残った。
しゅっ、しゅっと間断なく続く、聞こえるか聞こえないかの音。やがてその音をさせているもの――反対側から見たアイネの姿がひとりでに思い浮かんで、今さらのように心臓の鼓動が速くなってゆくのを覚えた。
「……」
振り払おうとしても駄目だった。肌を拭くかすかな音が、まるで悪魔のささやきのように想像をかき立てる。視界に入っていないのがいけないのかも知れない……こんなことならまだ背中を見ていた方がいい。
ふとそう思い、頭を向けた。そこでアイネと視線がぶつかり、俺はまた弾かれたように目を逸らした。
「どうかした?」
――どうかしたも何もあるか。そう返そうとして、返せなかった。
心臓の鼓動は早鐘を打つようで、いま口を開いたらどんな言葉が飛び出すかわからない。返事がないのをどう受け取ったのか、アイネはそれでまたしばらく沈黙した。
けれどもそのやりとりで悪戯な想像はどうにか追い払うことができた。身体を拭く音は続いていたが、もうさっきほど気にはならなかった。動悸が元通りになるのを待って、からからに乾いた喉からようやく一言絞り出した。
「……いつも、するのか?」
「何?」
「そんな風にいつも、するのか?」
「だから、何のこと?」
「いつもそんな風に、誰の前でも裸になったりするのか?」
思い切って顔を向けた。半分まで振り返ったアイネと視線が合ったが、今度は目を逸らさなかった。
何を言っているかわからないといった目でアイネはしばらく俺を見ていたが、やがて頭を元に戻すと、素っ気ない口調で「まさか」と言った。
「犯さないんでしょ?」
「え?」
「ハイジはわたしを犯さないんでしょ? 仲間だから」
当然の決まりを確認するような言い方だった。その言葉の意味するところを理解して、もやもやとした黒い霧のような苛立ちがこみあげてくるのを覚えた。
何だかひどく馬鹿にされたような気分だ。アイネにまったくそんな気がないことがわかる分、余計にやりきれない気持ちになってくる。
「ああ、犯さないよ」
「うん、だから――」
「けど、犯したくないわけじゃない」
「え?」
「昨日も言っただろ。犯したくないわけじゃない。犯さないだけだ」
「どう違うの?」
「俺はアイネを犯したい。犯したいけど、それを我慢してるんだ。だから目の前でそんな格好されるのはきつい。喉が渇いて死にそうなとき、目の前に水があるのに飲めない。そんな感じだ」
「……ふうん」
「わざわざそんな我慢したくない。そういうわけで、頼む。犯されたくなかったら、俺の前でそんな格好しないでくれ」
すぐ返事は返ってこなかった。アイネは身体を拭き終わったようで、手際よく下着を着け、シャツに袖を通していく。
あらかた服を着終わったところで、身体ごとこちらを向き、生真面目な表情で「わかった」と言った。
「ごめん、昨日ちゃんと聞いてたのに。違いがよくわからなかったから、わたしには」
「わかってくれたなら、いいよ」
真摯な顔つきで謝罪の言葉を口にするアイネに、軽い脱力を覚えた。それは俺のよく知る向こう側の彼女だった。
男の生理を取り違えているあたりも、杓子定規なアイネらしいと言えばらしい。あるいは向こう側の彼女も、そのへんはよくわかっていないのかも知れない。
そんなことを思って、俺は小さくひとつ溜息をついた。
「ハイジも拭けば?」
「え?」
「身体。昨日から拭いてないでしょ」
「……ああ、一昨日から。実は拭きたくてたまらない」
「わたしは気にしないし」
「何が?」
「ハイジの裸見ても」
「……そうか」
「だから、拭けば?」
「けど、拭くものがない」
俺がそう言うと、アイネは手の中のものを放ってよこした。湿りを帯びたタオルだった。もちろん、さっきまで彼女が自分の身体を拭いていたものだ。
「それで拭けば? まだ乾いてないから、使わないともったいないし」
さも当然の心得を教えるようにアイネは言った。受け取ったタオルは、さっきまで触れていた身体のためか、わずかに温もりをもっていた。
ふと、濃縮された強い臭いが鼻先をかすめた。汗を煮詰めたような、けれども決して不快ではない臭い。タオルから立ちのぼるその臭いの正体に気づいて、それは一瞬で蠱惑的な麝香に変わった。
思わず口の中にたまったものを飲み下したところで、「まだ乾いてないでしょ?」という声がかかった。
「……」
「水そこにあるから。あまり使ってほしくないけど」
……何もわかっていないと思った。わかったと口では言いながら、結局、アイネは何もわかっていない。そのあたりをもう一度きつく言っておきたい気もした。だが、所詮無駄な努力だということはわかっていた。
舞い戻ってきたもやもやした気持ちをそのままに、俺は大きく溜息をついて上着をはだけた。
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