287 魔弾の射手(5)

 ルードと別れたあと、いったんは元の部屋に戻ろうとした。だが真っ暗な廊下を歩いているうちに急に気分が悪くなり、冷たい汗が出てきた。もうもうと煙の立ちこめる喧噪の部屋を思って、俺はにわかに吐き気を催した。


 ……やはりもうあの部屋には戻りたくないと思い直し、手近な扉を開けて中に入った。そしてほとんど倒れこむようにして、その部屋の壁際に腰をおろした。


「……」


 壁に穿たれた窓の外に、空はうっすらと白みはじめていた。そこはちょうど昨日アイネと過ごした場所のように、何もないがらんどうの部屋だった。


 ……ひどく寒かった。自分という存在が少しずつ奪われ、消えていってしまうように寒い。俺は膝を揃えて抱きかかえた。そうして背中を丸め、膝を抱く腕に力をこめた。


「……っ」


 吐き気はどうにか我慢できそうだったが、まだ治まってはいなかった。黎明を迎えようとする窓の外の景色を、昨日とはまったく別の気持ちで眺めた。


 ここは別の世界なのだという実感に胸が締めつけられるのを覚えた。――そう、ここは別の世界だ。その別の世界に迷いこんだ俺は異邦人で、わけもわからないままその混沌の中に呑みこまれようとしている……。


「――大丈夫?」


 突然の声に頭をあげると、そこにはアイネの姿があった。目の前に少し腰をかがめるようにして、気遣わしげに俺の顔を覗きこんでいた。


「酔ったの?」


「……どうも、そうみたいだ」


グラスなんて吸うから。それも、あんなに」


 そう言ってアイネは半分ほど水の入ったペットボトルを差し出した。俺は無言で受け取り、それを飲んだ。喉に貼りついていた煙の粒子が生温い水に洗い流されてゆくのを感じた。


「……グラス?」


「さっきみんなで回した、あれ。加減も知らないくせにあんなに吸って。どうせはじめてだったんでしょ? はじめては悪酔いしやすいから」


 そう言いながらアイネは俺の隣に腰をおろした。その短い説明で、さっき自分が吸ったものの正体がわかった。……あれはグラスだったのか。確かにそれを吸うことで自分の身に起こった変化は、海外でそれを試してきたという友だちに聞いた話とよく一致する。


「そういやアイネはあまり吸ってなかったな、さっき」


「さっきだけじゃなくて、いつも吸わない」


「嫌いなのか」


「大嫌い。そうなるから」


「そうなる?」


「今のハイジみたいに、すぐ悪酔いするから」


「なるほど」


 そう相づちを打ってから、自分がもうそれほど気持ち悪くなくなっていることに気づいた。どうやら悪心バッドはうまくやり過ごすことができたようだ。アイネがくれた水のお陰かも知れないし、あるいは隣に気心の知れた話し相手が来てくれたからかも知れない。


「さっきはありがとう」


「え?」


「助け船出してくれたこと。カラスに撃ち殺されずに済んだ」


「……お礼なんていらない。借りを返しただけだから」


「借り?」


「昨日、助けてもらった借り」


「ああ、あれか」


「これで貸し借りなし。次はもうあんなことしないから。覚えといて」


「……わかった」


 突き放すようなアイネの言葉は、だがどこかやわらかかった。カラスに銃を向けて立つアイネの横顔を思い出し、それに続くDJとのやりとりが自然と頭に蘇った。


「そういえば、相棒が死んだんだってな」


「え? ……うん」


「ごめん、知らなかったから」


「なんで謝るの?」


「昨日、色々と無神経なこと言ったんじゃないかと思って」


「……気にしないで。そんなに長く組んでたわけでもないし」


「そうなのか?」


「うん。わたしと組む相棒バディはいつも早く死ぬから」


「……その早死にする相棒バディに、俺はなったわけだ」


「そういうこと」


 そう言ってアイネは懐から鳶色の袋を取り出し、俺の方に差し出した。今朝のものと同じ健康補助食品だった。ごわつく紙袋の封を切り、中身を口に運んだ。塩気の利いた素朴な味は相変わらずで、二食続けてとなるとさすがに物足りないものがあった。


「他のはないの?」


「何のこと?」


「これのこと。他の味のやつとか」


「……何を言ってるのわからない」


「他の食料はないのか、ってこと」


「他の食料って、これが食料でしょ? わたしたちが食べるのはいつもこれ。ハイジがくれたようなものなんてないから。にはあったかも知れないけど、にはない」


「……そうか、わかった」


 またひとつの常識を理解して、袋の中の残りを食べた。アイネも自分の分を取り出し、俺の横で同じようにそれを囓った。


 気の抜けた咀嚼音が一頻りがらんどうの部屋に響いた。そのうちに空はだいぶ明るくなり、豪奢な朝の光がゆっくりと部屋の薄闇を押しのけていった。


「隊長と一緒なんだ」


「え?」


「ルードから聞いた。ハイジは隊長と一緒だって」


「……何のことだ?」


「女のこと。隊長と一緒で、ハイジは女を犯したがらないって」


「ああ……そのことか」


「そういう理由だったんだね。昨日わたしを犯さなかったのも」


 アイネはそう言って、穏やかな眼差しをこちらに向けてきた。けれども俺は反射的にそんな彼女の視線から逃れた。


「そうじゃない」


「え?」


「俺は別に女を犯したくないわけじゃない」


「……」


「隊長のことは知らないが、俺はただあんな風にして女を犯すのが嫌なだけだ。女を犯したくないってことじゃない」


「……言ってる意味がわからない」


「わからなくていいよ。犯したくないんじゃなくて、犯さないってことだ。昨日のあれにしてみても……そう。俺はアイネを犯したくなかったんじゃなくて、犯したかったけど犯さなかっただけだ」


「何それ。ハイジはわたしを犯したいの?」


「……ああ、そうだ」


「けど、犯さない」


「そう、犯さない」


「それはどうして? 昨日だって犯そうと思えば犯せたのに。どうしてハイジはわたしを犯さなかったの?」


 そう言ってアイネは真摯な表情を向けてきた。適当に流せる質問ではなかった。俺の答えいかんによっては彼女は俺を撃つ……何となくそれがわかった。


「仲間だから」


「え?」


「俺にとって、アイネは仲間だから」


「答えになってない。わたしたち、昨日はまだ仲間じゃなかったじゃない」


「仲間だったよ」


「……」


「あのとき言ったように、俺にとってアイネはに来る前から仲間だった」


 そう言ってアイネを見た。彼女の方ではまだ納得できないのか、訝しそうな目で俺を見つめ返した。だがやがて諦めたようにふっと視線を逸らすと、「じゃあ、なんで?」と言った。


「ん?」


「ハイジは女を犯したいんでしょ? それなら、『戦利品』の女を犯さないのはなんで?」


「さっき言っただろ。あんな風にして女を犯すのは嫌なんだ」


「あんな風にって?」


「あんな風に抵抗できないようにして力ずくで犯すのは嫌だ」


「そうじゃなければ犯すの?」


 アイネはそう言ってまた真剣な目で俺を見た。だが今度の質問は簡単だった。


「そうじゃなくても、犯さない」


「それはどうして?」


「俺が犯したいのはアイネだから」


「……」


「俺はアイネ以外、誰も犯したくない」


「でも……ハイジはわたしを犯さない」


「そう、犯さない」


「……仲間だから」


「そう、仲間だから」


 そこでいったん会話が途切れた。日はもうだいぶ高くなり、激しい光の洪水が部屋の隅々まで明るく照らし出している。……今は何時頃なのだろうか。それともには時間という概念などないのだろうか。


「……前にいた場所ではどうだったの?」


「ん?」


「前にいた場所では、わたしのこと犯した?」


「……いや、やっぱり犯さなかったな」


「それは、わたしが仲間だったから?」


 そう言われて俺はしばらく考えた。幾つか別の理由も浮かんだが、結局それで合っていると思った。


 ――仲間だったから俺はアイネを抱けなかった。頭の中でそう言葉にしたあと、アイネに聞こえないように小さくひとつ溜息をついた。


「そう、仲間だったから」


「よろしくね、ハイジ」


 アイネはそう言って右手を伸ばしてきた。俺はその手を取り、しっかりと握りしめた。


「ああ、よろしく」


 短い握手を終えると、アイネは思い出したように「眠い」と言った。


「ん? もうそんな時間か」


「……まだ少し早いけど。昨日あまり寝てないし、今夜は出撃するから休んでおかないと」


「出撃?」


「……うん。だからハイジもちゃんと寝ておいて」


「わかった。けど、どこで寝ればいい?」


「どこでもいいけど、相棒バディは同じとこで寝ないと……」


「そういえば隊長がそんなこと言ってたな。俺、まだよくわからないんだけど、その相棒バディっていうのは――」


 そう言って隣に目を向けると、アイネは壁に背もたれた不自然な姿勢のまま、すでに寝息を立てはじめていた。一度起こそうかと思ったが、俺はそうするのを止め、帆布袋から毛布を引き出してそれをアイネの身体にかけた。


「おやすみ」


 息だけでそう言って俺はまたアイネの隣に腰をおろした。けれども俺の方では、まだ彼女のようにすぐには眠りに就けそうにもなかった。


 壁の外には太陽の光が刻一刻とその激しさを増しつつあった。さっきまで肌寒ささえ感じていたのが、もうこんなにも暑い。


 乾ききった大気と砂塵。別の世界に迷いこんだ異邦人という感覚は消えない。だがこの世界で演じるべき役は掴めた気がした。そしてその役を正しく演じ続ける限り、俺はここで最後までやっていけると思った。

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