286 魔弾の射手(4)
気がついたとき、周囲には青い薄闇と人々の喧噪があった。
打ち貫きの窓から漏れ込んでくる月の光……その他には灯りのない部屋の中で人々はさっき回し飲みした煙草ではなかったもの――煙草もどきを手に手に、陽気な喧噪のうちに浮かれ騒いでいた。
「なあ新入り、聞いてんのか」
「……え?」
声のした方に視線を向けると、そこには口元から白煙を立ちのぼらせる傷だらけの顔があった。俺の入隊試験で偽の隊長役をしていた男。名前はたしか――
「……ルード」
「あ? 何だ何だ?
男はそう言って笑い、ばしばしと痛いほど強く俺の肩を叩いてくる。そう……確かさっきその名前を聞いた気がする。この傷だらけの顔の男はルード。カウボーイのように両腰に拳銃を提げた、下品なことばかり口にする男……。
「覚えるって、そら覚えるだろさ。さっきからおめえ、何度自分の名前言ったか覚えてるか?」
その隣から少し聞き取りづらい声が飛んでくる。マスケット銃のような長い銃を背中にさした小男がぎこちなく顔を歪めて笑う。その上唇は鼻まで完全に裂けている。この男の名前はラビット。
「……」
そのさらに隣には小山のような巨漢が、一言もなく煙をくゆらせている。この男はゴライアス。モーゼルに似たいかつい銃を自分の身体に立てかけ、聞いているのかどうかわからない表情で俺たちのやりとりを眺めている。
「ああ言った言った。そりゃ言ってやったね。言うに決まってるだろ、偽の隊長だなんてぬかしやがるもんだから。
「だったらおめえも新入りなんて呼ぶんじゃねえよ。そっちこそ覚えてるか? さっき聞いた名前をよ」
「覚えてるさあ! 覚えてるに決まってるだろう! 新入りの名前はハイジ! この色男の名前はハイジ!」
「そう、ハイジ。この新入りはハイジ」
何がおかしいのか、そう言ってルードとラビットは肩を叩き合う。そんな二人を眺めながら、煙の回し飲みが終わってからこれまでの記憶がゆっくりと戻ってきた。
煙草もどきがDJに戻されたあと、人々は部屋の中央に盛られた山からおのおの枯れ草をとって例の辞書で巻き、それを吸いながら一人一人、俺のところに自分の名前を伝えにきた。
試験のときとは打って変わって、どの表情も明るく気さくだった。たいていの者は名前を名乗るだけだったが、俺の手をとって握手をし、さらには親しげに肩を叩いてくる者もいた。
アイネの挨拶はなかったが、部屋の隅からちらちらとこちらを見ているのが視界に入っていた。ただ俺の知っている顔の中で、カラスとリカだけは最後まで俺の前に姿を現さなかった。
「けどすげえよなあ! あのクソッタレの『黒衣の隊』のやつブッ殺したってんだからなあ!」
「それよ。そいつがおれはまだ信じられねんだ。そんなことができるのかって」
「ばっか! ホントのことに決まってんじゃねえか。いいか? 考えてもみろ。あのアイネがそんなことで嘘つくと思うか?」
「ああ、まな。けど、そんでもおれにはまだよくしんじられねんだな」
「ならそのうちだ! そのうちこのハイジ先生がおまえの目の前であの黒服にでっかい穴あけてくれるってよ!
一通り挨拶が終わったあと、このルードとラビット、それにゴライアスが俺の傍へ来て、そのままこの調子でたわいもない話を続けている。歓迎の宴だというのに、他の人々は俺などいないかのようにめいめい盛り上がっているが、この三人だけは俺から離れない。あるいはDJに接待役でも命じられているのかも知れない。
それでも、白い煙の漂う薄闇の部屋の空気は、俺にとって心地いいものだった。
さっき吐き気を
「ところで、だ。話を戻すが、ハイジさんよ。さっきの話は本当なのか?」
「さっきの話?」
「あれだ、あの何だかよくわからねえ話。こことは別の場所で隊長と仲間だったとか、そうじゃなかったとか」
「……その話か」
緊迫した一時の記憶が蘇り、少しだけ酔いが醒めた気がした。スパイの誤解をとくために咄嗟に考えた回答だったが、それは奇しくも昨日、銃口を向けてくるアイネに対して返した答えと一緒だった。
こことは別の世界で、俺たちは仲間だった。
……まったく素のままの演技にもほどがあるが、口に出してしまった以上、俺は今後もこの路線で演じ続けるしかない。
「ああ、本当だ」
「わからねえな。何だその別の場所ってのは? そんならハイジはこことは別の場所から来たって、そういうことなのか?」
「そういうことなんだと思う」
「けど、そんだとおかしくねか? 隊長はずっとここにいたぜ。それがどうしておめえの言うそこにいる?」
「それは……」
ラビットの質問に思わず考えこんだ。
確かに言われてみればそのあたりは引っかかるところだった。俺たちがいたあの世界のあいつとここにいるDJとが同じ人間だとしたら、俺があの舞台上で自分の頭を撃ってこちらの世界へ来たように、いつかどこかでDJも同じようにして来たのでなければ説明がつかない。
「D……隊長はいつからここにいるんだ?」
「言ったろ、ずっとだ。隊ができてからずっとここにいる」
「その前は?」
「なんのことだ」
「隊ができる前は?」
「そんなのおれは知らね。この隊は隊長がつくった。そんで、いまおめえが入ってきたみたいにみなあとから入ってきたんだ。最初からいたやつも何人かいるけどな」
「なるほど。じゃあたぶん、そのときだ」
「そのときって、どのときだ?」
「隊ができたときだ。隊長はそのときにこっちへ来た。隊ができる前は俺が言ったその、こことは別の場所にいたんだと思う」
「……まあそんなら話はわかるが、おれにはまだよくわかんね」
「そうだ。そういやそこには隊長の他にアイネもいたって話なんだよな?」
「ああ、いた。アイネもいたし、リカやカラスもいた」
「リカ!?」
「カラス?」
それぞれ別の名を口にしながら、ラビットとルードは目を丸くして俺を見た。そう言えばリカとカラスが向こうの世界にいたことを話したのはこれがはじめてだった。リカたち本人にはもちろん、アイネにもこの話はしていない。
「みんな仲間だった。アイネもリカも、カラスも隊長も。……もっともカラスのやつとはあまり仲が良くなかったけどな」
「ていうことは、だ。そこには
「え?」
「だってそうだろ。ハイジの言うように隊長やリカたちがそこからやって来たってんなら、
「そうか……そうだな」
考えてもみなかったが、確かにその通りだと思った。ここが劇の中の世界だとして、俺たちがあちらの隊長によってここへ送りこまれたとするなら、当然、ルードやラビットたちも同じようにしてここへ送られて来たと考えるしかない。
俺は傷だらけのルードの顔を眺め、唇が鼻まで裂けたラビットの顔を見た。それから黙って煙を吐きながらこちらを窺っているゴライアスのいかつい顔を見た。
「いたんだと思う」
「俺らたちがか?」
「ああ、ここにいる全員。みんな俺が言ってた、こことは別の場所から来たんだと思う」
「おいおい待ってくれよ!
「ばか。隊長のときのこと忘れたのかよ。おれたちは覚えてねが、おめえは覚えてるってことなんだよな? ハイジ」
「そう、そういうこと」
言ってしまってから、自分が嘘をついたことに気づいた。俺はあの世界でラビットやルードたちに会ったことはない。彼らの顔など見たこともない。……だがいずれにしても同じことだと思った。ここが劇の中の世界だとするなら、彼らはみなあちらの隊長がかき集めてきた役者に違いないのだから。
「どんな場所なんだそこは」
「え?」
「その場所だ、
「ああ……ぜんぜん違う。ここよりずっと暮らしやすい」
「どんなところが?」
「水がある」
「……水? 水ってこれのことか?」
そう言いながらルードは上着のポケットからペットボトルを取り出し、目の前で振って見せた。そしてその蓋を開け、少し口に含んでからまた蓋をしてポケットに戻した。
「これこの通り、水ならここにもあるぜ? 何も違わないだろ」
「そうじゃない。外の話だ」
「外?」
「ここの外には水がないだろ。けど、俺たちがいたその場所には、外に水がある」
「……っていうと、こいつが外にごろごろ転がってるってことか?」
「違う違う。そこでは水が地面を流れてるんだ。そいつを何万本も合わせたような水がいつも地面を流れてる。それを『川』っていうんだけど……聞いたことない?」
俺がそう言うとラビットとルードはきょとんとしてお互い顔を見合わせた。ゴライアスまでもが口をへの字に曲げて奇妙な表情をつくっている。
やがて、そこに笑いが起こった。周りの面々が驚いて振り向くほどの、それは哄笑だった。
「あはは……あはは……。いやあ、なかなか面白いやつだな! 気に入ったぜハイジ!」
「ほら話もそこまでいきゃたいしたもんだ。……おれはおめえを信じる、信じるさ」
ばしばしと俺の肩を叩き、涙さえ流してラビットとルードは笑い続けた。ゴライアスはその横にあって口をへの字に曲げたまま呆れたような顔で俺を見ている。
少し考えて、そんな三人の反応の理由に思い当たった。それについて、俺は腹立たしさよりむしろ新鮮な驚きを覚えた。
……そういうことだ。川が大地を流れているというのは、彼らにとって笑いの種になるほど想像もつかないことなのだ。
「それはそうと、ハイジさんよ」
一頻り笑い終えたあと、ルードがそう言って俺の頭を胸に抱きこんだ。饐えた煙の臭いと男の体臭が混じった強い臭いが鼻をつき、その太い腕の間で俺は思わず顔をしかめた。
「……何だよ」
「ここだけの話、アイネはどうだった?」
「アイネ?」
「具合はどうだったかって聞いてんだよ。どんな声だして、どんな感じでアレするかってことだ」
そこまで聞いて、ルードの質問の意味を理解した。……やれやれと思った。こんなところへ来てまで俺はアイネとの関係を勘ぐられている。
腕を軽く叩くと、ルードは力を緩めて俺の頭を解放してくれた。顔をあげた先ではルードにラビット、それにゴライアスまでもがにやにやとしまりのない下品な笑みを浮かべていた。
「……やってねえよ」
「おいおい、待ってくれ。そんなはずはねえだろ?」
「やってないものはやってない」
「やったに決まってる。そんでなくて、どうしてあのじゃじゃ馬があんなに懐く?」
「懐いてるのか? あれで」
「懐いてるなんてもんじゃねな。カラスに銃むけたのがその証拠さ」
「ああ、そうだ。あの男嫌いのアイネがなあ。おまけに命令とはいえ
「だから、本当にやってない。……第一、それで昨日の夜、あいつにもう一歩のところで撃ち殺されそうになったんだからな」
俺がそう言うと三人はまた顔を見合わせた。それからさっきよりも大きな声で、また一頻りばか笑いを聞かせてくれた。
「そうか! 撃ち殺されそうになったか!」
「こっちは嘘じゃねようだな。いかにもありそうな話だ」
「けど、そうすっと懐いてる理由がわからんな」
「いや、そんでおれにはわかった。おおかた助けられた礼だろ」
「ああ、それならわかるな。あいつの律儀なとこは今にはじまったことじゃねえ。――けど、そうか。そういうことならおまえさんにも分け前が必要だな」
ルードはそう言って立ちあがると、俺の腕を引いて強引に立ちあがらせた。そうして何も言わず、そのまま部屋の外へ出て行こうとする。
「……どこへ行くんだ?」
「いいから、ついてこい」
にやにやする男たちを残し、ルードのあとについて部屋を出た。廊下は漆黒の闇で、けれども目が慣れているのか、先をゆくルードの背中を追いかけることはできた。
「なあ、どこへ行くんだよ?」
「黙ってついてくりゃわかる」
そんなやりとりを交わしながら五分か、あるいは十分ほども俺たちは歩き続けた。どこへ向かっているかはわからなかったが、さっきまで部屋で吸っていた煙の酔いはまだ頭の裏に残っていて、ふらふらといい気分で暗闇の中を歩いた。
その酔いが醒めたのは、半開きの扉の前でルードが立ち止まった、そのすぐあとだった。
「ほら、着いたぜ?」
そう言ってルードは右手の親指を立て、それを部屋の中に向けて俺に入るように促した。
「……」
「昨日は『戦利品』が多く入ったからな。今ならまだ壊れてねえのが選りどり見どりだぜ? さあ、楽しんでこいよ」
ルードの指が差す先、半開きの扉の向こうには艶めかしい女の声が響いていた。絡み合う幾つもの裸の身体が、闇の中にぼんやりと白く浮かんで見えた。どこか苦しげで悲痛な感じのする喘ぎ声と、さっきあの部屋で聞いていたものそっくりの粗野な笑い声。
ルードが口にした『戦利品』という言葉で、中をよく見なくてもだいたいのところはわかった。そしてここが紛れもない戦場であることを――男は犯し、女は犯される無法地帯であることを――改めて思い出した。
「おう、どうしたい? 遠慮はいらねえぜハイジ。俺らたちの楽しみといったら――」
「……いらない」
「へ? あんだって?」
「俺はいらない」
「……」
できるだけ軽く返そうとした。だが硬く強ばった声しか出ず、語尾が震えてしまったのが自分でもわかった。
そんな俺をどう思ったのだろう。ルードは軽薄な笑みを消して真顔をつくった。そしてしばらく俺を見つめていたあと、興がそがれたように「何だよ」と言った。
「何だよ、あんた隊長と一緒か」
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