102 ある暑い日曜日の午後(4)

 ――そこで、俺はすべてを思い出した。


 俺たちが立つはずだった舞台のこと、ヒステリカのこと。までの一週間に目まぐるしく起きた数々の事件と、嵐の夜の庭園での出来事。砂漠の城でのこと。その城で彼女と二人、もうどこへも向かうことのない旅の終わりを迎えようとしていること。


 そうしたすべてのことが――欠け落ちていたありとあらゆる記憶が、まるで目隠しが取り払われるように一瞬で頭の中に蘇るのがわかった。


 同時に世界が変わった。


 目に映るすべてのものが遠退き、ばらばらになり、原型を留めながらそれとはまったく別のものに変質した。


 ……そこにもう夏はなかった。


 陽射しを受ける町外れの河原はなかった。茹だるような午後の暑気も蝉たちの声も、青い空も白い雲も、もうどこにもなかった。


 そこはあの高架下で最後に目にした、変わり果てた世界だった。姿だけ見れば元の世界と何も変わらない、だが本質の失われたイミテーションの世界だった。


 色彩が分断され、形状がただの境界となり、世界を構成する個々の概念が抽象化された質感のない世界だった。今すぐ空が落ちてきてもおかしくない、取り返しがつかないまでに破綻を来した、こうして立っていることさえ危険な、終わりに向かおうとする世界だった。


 その世界の真ん中に、もう一人の彼女は立っていた。


 もはや道とは呼べないものになった道の先に、まるで通せんぼをするように立ち塞がっていた。


 ゆっくり近づくにつれ、さっきまでと同じ何かを訴えるような表情があらわになった。それを認めた俺は思わず早足になり、「どうしたんですか?」と後ろからかかる声を無視して全力で駆け出した。


「……言いたいことがあるなら、言えよ」


 彼女の前に駆けつけて直後、荒い息をそのままに俺は吐き出した。


 目前に立つ彼女はその言葉に応えず、身じろぎもしなかった。ただ何かをこらえるように唇を噛み、一層きびしく糾弾するような眼差しをこちらに向けてきた。その眼差しに、わけがわからないまま俺は苛立ちに駆られ、もう一度同じ言葉を今度は大声で叩きつけた。


「言いたいことがあるならはっきり言え!」


 その言葉に彼女は小さく身を竦め、だがやはり返事はなかった。わずかに俯いた顔から無言で責め立てるような……逆に縋りつくような目でただじっと俺を見つめる。


 と、後ろに慌ただしい靴音が近づいてきて止まった。きれぎれに繰り返される悲鳴にも似た、背中に吐きかけられる荒々しい呼吸いきの音と。


「はっ、はっ……どうした、んですか? いきなり、はっ、走ったり……」


 その質問に、俺は応えなかった。そちらを振り返ることもせず、目の前に立つもう一人の彼女を凝視し続けた。


 ただ、もう俺からも言葉はなかった。告げるべきたったひとつの言葉を告げてしまったあとは、湧きおこる苛立ちに耐えながら奥歯を噛んで彼女の回答を待った。


 待ち続けても彼女からの返事はなかった。言葉もなく対峙する俺と彼女の間に、もう一人の彼女の荒い息づかいが一頻り響いた。


 長い時間をかけてその息づかいが治まったとき、目の前に立つ彼女の唇がわずかに動いた気がした。


 だがそれよりも早く、苦しそうに絞り出される小さな声が背中にかかった。


「……私じゃ駄目ですか?」


 反射的に振り返った。両手をスカートの前に合わせ、悄然しょうぜんと地面に視線を落とすペーターの姿があった。


 わずかに俯き、遅れ髪のかかる顔がどんな表情をしているのかわからない。だがその声はかすかに震え、背筋に冷たいものが走るような切迫した響きがあった。


「やっぱり、私じゃ駄目なんですか?」


「……」


「私とこうしてるの嫌ですか? それじゃ駄目なんですか? 先輩」


「……」


 必死に笑おうとして笑えないでいるような彼女の唇が見えた。その唇から何度も繰り返されるのは、俺がさっき心の中で思ったことを確認する言葉だった。


 けれども一度ははっきりと確信したはずのその答えを、俺は返すことができなかった。そんな俺にいよいよ苦しそうに自分の両肩を抱き、血を吐くような声でなおもペーターは続けた。


「……ねえ、どうしてですか?」


「……」


「どうして、こうなっちゃうんですか?」


「……」


「今日、本当に楽しかったんですよ? 先輩といられて」


「……」


「暑かったけど……歩いてるだけだったけど、それだけで楽しかったんです」


「……」


「何でもない時間をいっぱい過ごせたから……先輩と一緒にいられたから、だから楽しかったんです。先輩と一緒なら何をしていても楽しかった。……先輩は違ったんですか? 先輩は……先輩もそうじゃなかったんですか?」


 何も応えられないでいる俺に、ペーターは堰を切ったようにそんな告白の言葉を連ねた。


 震える声で紡がれるあからさまな好意の言葉は、昨日までことある毎に耳にしてきた遠回しなそれとも、今朝の食卓で聞いた甘やかな恋人のそれとも違っていた。


 ……それはあの嵐の夜以来、初めて耳にする彼女の裸の気持ちだと思った。人一倍脆く傷つきやすい彼女の心を無防備に晒して、必死の思いで告げられたありったけの気持ちだった。


 返事をできないままペーターの独白を聞き続けるうち、彼女がなぜこれほど必死になっているのか、その理由に思い当たった。


 俺たちの関係――それがたとえ空蝉うつせみの関係に過ぎないとしても、長い回り道を経て始まったばかりの二人の関係が、のだ。


 それがわかっているから、ペーターはこんなにも健気に思いの丈を訴えている。あの夜のように自分の心が深く傷つけられるのを覚悟で、俺を繋ぎ止めるための言葉をただひたすらに連ねている……。


 不意に胸が締めつけられるように痛み出した。時間遅れの反射のように、目の前に立つ彼女とあの夜の彼女とが重なった。


 状況は違っていた。時間も場所も俺たちの間にあるものも、何もかもあの時とは違っていた。けれどもいま自分が直面しているのが彼女をうしなったあの場面の焼き直しであることを思った。


 ペーターの声は震えるのを通り越し、泣き笑いのようになっている。それが演技でも何でもないことがわかって――だからこそ俺は何も返すことができない。


「――何でまた来たんですか?」


 唐突なもうひとつの声に思わず振り返った。


 ひび割れ渇ききった、すべてを諦めたようなその声は、初めて彼女――ここまで一言もなく何かを訴え続けていたもう一人の彼女の口から発せられたものだった。


「もう来ないで下さいって言ったじゃないですか」


「……」


「ちゃんと言いましたよね? 私。……なのに、何でまた来てるんですか? どうして私の言うことを聞いてくれないんですか?」


「……」


 こちらの返事を待たずに淡々と、独り言のように彼女は続けた。ちょうど今は背中にまわった彼女と同じようにじっと俯き、叱られた少女のように地面を見つめて。


 言葉よりも雄弁に俺を責め立てていた視線は、もうこちらを見ていない。その視線の代わりに吐き捨てるような、言っても仕方のないことを仕方なく言うような……そんな投げやりな口調で彼女はなおも続けた。


「もう帰ってください」


「……」


「すぐに帰って、そうして二度とここには来ないでください」


「……」


「もう二度と私の前に姿を現さないでください」


「……」


「聞こえないんですか? 聞こえてるなら今すぐ私の前から消えて――」


 力のない声で一方的な拒絶の言葉を並べる彼女に、俺はやはりどんな言葉も返せなかった。


 それはあの高架下の噴水の広場で、別れ際に彼女が口にしていたのと同じ言葉だった。そのときのことを思い返して、なぜ彼女がそんなことを言ったのか、なぜこんなことを言わなければならないのか――その理由にようやく気づいた。


 ……ウルスラと同じだった。ウルスラが言葉を変えて何度も俺に伝えていたのと同じ警告を、俺に向けて発していたのだ。


「教えて下さい、先輩。どうすればいいですか? 私」


「……」


「どうすれば先輩とずっと一緒にいられますか? 私、何でもします」


「……」


「先輩のためだったら私、何でもします。どんなことだってします。一生懸命努力します」


「……」


「先輩がいれば、他に何もいりません。昨日までずっと我慢してきました。……けど、これからはもう我慢なんてできない。だから教えてください、先輩。私どうすればいいですか? どうすれば先輩に許してもらえますか? お願いします教えてください、先輩――」


 もう一人の彼女が語り始めてからも、後ろの彼女は打ち明けるのを止めなかった。いよいよ震えを抑えられない声で血を吐くように、健気そのものの思いを投げかけてくる。


 頭だけで振り向いた――打ちひしがれたように俯き、肩を震わせて訴える彼女の姿があった。


 再び前を見た――いじけたように地面を見つめ、淡々と独り言のように告げるもう一人の彼女がいた。


 同じ人の声が別々の響きで、それぞれ逆の方向から俺にぶつけられた。壊れたサラウンドスピーカのようなその合間に立って、どちらを向くでもなく俺はぼんやりと立ち尽くした。ただ二人の言葉を拾い、何を俺に伝えようとしているのか考えた。


 ……だが、やがてどちらの彼女の声も俺の耳には届かなくなった。


 いや……耳には届いていた。けれどもひっきりなしに投げかけられる言葉が、知らない言語で唱和されるシュプレヒコールのように、ほとんど騒音に近いものになってくるのを感じた。


 彼女が何を伝えようとしているのか考えるのを止めた……と言うより考える気をなくした。どちらの彼女の言葉も本音だというのはわかった、それぞれ言いたいこともおおよそは理解できた。ならば、いったいは俺に何をどうしろと言うのだ?


 俺の胸に深く突き刺さった二人の言葉は、けれども重なり合うことで急に説得力を失った。……いや、そもそもそれは重なり合うことがなかった。二人の主張は真っ向から対立し、決して相容れないものだったからだ。


 どちらの彼女の言いたいこともわかる、それが俺との関係を真摯に考えた末の苦しい思いであることも。だが、それがわかるからこそ俺は二人のうちのどちらも選ぶことができない――俺はどうすることもできない。


 そう思って、またにわかに苛立ちが湧き上がってくるのを覚えた。一瞬、理不尽な苛立ちのような気がしたがそれもと思い直した。……結局こいつは何も変わっていないのだ。事ここに至っても身勝手に気持ちを押しつけてくるだけで、を通すために気狂いじみた姿を晒していた頃と何も変わらない。


 鳴り止まない不協和音の中にそのことを理解して、俺は大きく溜息をついた。


「なあ……ちょっと聞けよ」


 俺がそう言っても彼女たちは訴えるのを止めなかった。むしろその一言が火に油を注いだように、左右別々の声を奏でるスピーカの音量が上がった気がした。


 聞こえないはずはなかった……この距離で俺の声が聞こえないはずはない。それでも耳を貸さず一方的に言葉を連ねる彼女たちの態度に、いやがうえにも苛立ちが募ってゆくのを覚えた。


「俺の話を聞け」


 低く抑えた声でもう一度言った。だが、やはり彼女たちは黙らなかった。


 ……つまりはそういうことだ。こいつらは俺の言うことなどまるで聞いてはいないのだ。周囲の声を無視して勝手な言いぐさを続ける彼女はまるでのようだ。ただ今の俺の目には、そんな彼女の姿が駄々をこねる子供のようにひどく幼いものに映る――


「ペーター!」


 声を限りにその名前を叫んだ。


 視界に入っている方の彼女が小さく身を竦めるのが見え、そこで二人はようやく喋るのを止めた。そしておずおずと頭をあげ、顔色を窺うように視線を俺に向けてくる。


 そんな同じ仕草をする彼女たちをめつすがめつ眺めたあと、片方の彼女の腕を引いて二人を横並びに並ばせ、その前に立った。


「……少しは俺の話も聞け」


 できるだけ穏やかな声でそう言うと、彼女たちは揃って叱られる双子のようにしゅんとした表情を俺に向けた。


 シュールな光景には違いなかった……だがそれも気にならなかった。十二時の魔法が解けたこの世界において、そんなことはもう大した問題ではない。そう思い、もう一度深く溜息をついて、さっき答えが得られなかった質問を再び投げかけた。


「ちゃんとまとめてから言え。言いたいことがあるなら」


「……」


「言ってること矛盾してるだろ。お前はどうしたいんだ」


「……」


 返事はなかった。どちらの彼女も心なし俯いた上目遣いに、話の腰を折った俺を責めるような視線を返してくるだけだ。


 こいつのこうした態度は今日に始まったことではない。ただということもあってか、何だか本当に年端のいかない少女を相手にしている気になってくる。


「なあ、教えてくれよ。お前はどうしたい?」


「……」


「どっちかに決めてくれたら俺はつき合うよ。だからちゃんと教えてくれ、お前の望みは何だ?」


「……ないです」


「え?」


「望みなんてないです、私には」


 そう言って二人のペーターは顔をあげ、真っ直ぐに俺を見た。


 最初、どちらの彼女がその言葉を口にしたのかわからなかった。だがすぐに、それが言葉であることに気づいた。まったく同じタイミングに、同じ口調で二人の口から放たれた言葉は完全に重なって聞こえ、そのことに軽い混乱を覚える俺に、彼女たちはなおも続けた。


「私にはもう望みなんてありません。これ以上は何もいらないんです」


「……」


「先輩は私のものになりましたし、私は先輩のものになりました。それが私の欲しいもののすべてでした。何もいらなかったんです、それ以外は」


「……」


「だから、私には望みなんてありません。本当に何もいらないんです。あとはもう

『ここで先輩と一緒にいることが』

『ここから先輩を追い返すことが』できたら――」


「……」


「それ以上は何も望みません。本当にそれだけなんです」


 それだけ言い終えると二人のペーターは揃って口をつぐんだ。


 じっと俺の顔を見つめる眼差しはそのまま、だが言うべきことは言ったというように、その表情はだいぶ落ち着いたものに変わっていた。


 途中、一度だけ割れたふたつの言葉が耳の奥に残っていた。同じ人の口から同じ声で告げられた二律背反する言葉――それこそが、残された時間の中で彼女が俺に望むなのだとわかった。


 それがわかって、俺は力なく息を吐いた。それ以上何も言えなくなり、文字通り途方に暮れた。だから彼女は二人の姿で現れなければならなかったのだと、そんなことさえ自然に受け容れる自分を感じて――そこでふと舞台のことを思い出した。


「……だったら舞台は」


「え?」


「舞台だよ。舞台はどうするんだ?」


 思わずそう口にしてから、もう一人の彼女が訴えようとしていたのが舞台のことではなかったことに今さらのように気づいた。


 けれども俺のその言葉に、目の前に立つ二人のペーターは揃って困惑したような表情を浮かべ、ひとつの声で「舞台?」と問い返してきた。


「舞台って何ですか?」


「あのな……もうそれはいいって。俺、ぜんぶ思い出したから」


「私は知りませんよ。何なんですか? その舞台っていうのは」


とぼけるなよ。大事な舞台だろ、俺たちの」


「俺たちの? 先輩の、の間違いじゃないですか?」


「いい加減にしろ、怒るぞ」


「もう怒ってるじゃないですか」


「舞台だ。お前はその舞台のことを知っているはずだ」


「知りませんね。そんな舞台のことなんてなんにも知りません、私」

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