103 ある暑い日曜日の午後(5)

 ひとつの声で言い返してくる二人の表情は揃って真剣なものに変わっていた。


 居直ったようなペーターの反応に、俺の心には怒りよりもなぜだろうという思いが募った。


 目が覚めてからここまで続けてきた虚構の演技は俺が記憶を取り戻したことで破綻した。この期に及んでペーターがその演技を引きずる意味はない。今日は日曜日で、舞台はもう始まろうとしている。


 ……なのにそれを意固地になって否定する彼女の真意がわからない。


「だったら、なぜ爺さんにチケットを渡した?」


 疑問をそのまま口に出した。だがペーターは応えなかった。鏡に映したようにそっくりな二つの顔が挑むような眼差しで俺を凝視する。


 それで俺はさらにわけがわからなくなり、逆に懇願するような思いで質問を続けた。


「……なあ、どうしてだ? お前が爺さんにチケット渡したんだろ? 舞台をやり直すから、って」


「……」


「言ってなかったけど、爺さんは裏方やってくれるってさ。お前がチケット渡したあと爺さんに会って、そのときに頼んだんだ。裏方がいないから舞台なんてできないって俺が言ったら、そういうことなら自分がやろうか、って。爺さんの方からそう言ってくれて」


「……」


「そう言ってチケット返してきたよ。客として行くんじゃないからいらない、って。……ああ、それでそのチケットはオハラさんに渡した。あの高架橋の下で会ったんだ。観に来てくれるってさ」


「……」


「なあ、答えろよペーター。お前がやると言った舞台なんだぞ? けど、もうお前だけの舞台じゃないだろ? みんなでつくる舞台になっただろ」


「……」


「もう来てくれてるかもな、爺さん。早く行かないと帰っちまうかも。なあ……聞けよ。そんなんでいいのかよ。俺たちのために来てくれるんだぞ? 本当にお前はそんなんでいいのかよ」


 言いながら自分の言葉に矛盾を感じた。彼女が老人に渡したチケットの日取り――あの日できなかった舞台をやり直すのだとしたら、それはではない。


 だが、そんなことはもうどうでもよかった。


 それがいつでも構わない。今日でなくても、既に過ぎてしまったものでも関係ない。


 ただ彼女自身がやると宣言して、成り行きであれ部外者を厚意にすがって巻きこんだ、その舞台を最初からなかったもののように言うペーターの気持ちが俺にはまったく理解できなかった。


「おいペーター! 何とか言えよ!」


 もどかしい思いに衝き動かされて二人の肩を掴んだ。彼女たちは一瞬目を伏せ、だがまたすぐに責めるような四つの目が俺を見上げた。


 そこでついに俺の中にあった疑問が怒りに変わった。細い肩を掴む手に力をこめ、がくがくと彼女たちの身体を揺さぶりながら、一向に答えの得られないその不毛な糾弾を続けた。


「いい加減にしろよ! そんな無責任なことでいいのかよ!」


「……」


「我が儘につき合ってくれる爺さんの気持ち考えろ! 楽しみにして観に来てくれるオハラさんのこと考えろ!」


「……」


「お前がやるって決めたんだろ? だから爺さんにチケット渡したんだろ? それを今さら何だよ! 何を子供みたいなこと言ってんだよ!」


「……」


「おい、これでも思い出さないのか? そんな舞台なんて知らないってまだしらばっくれるのかよ!? 何とか言えよペーター! 俺の質問に答えろペーター!」


 彼女からの返事はなかった。感情にまかせて声を荒げ、自分が何を言っているかわからなくなったあとも……言葉が出なくなってからも彼女たちの肩から手を離さず、乱暴にその身体を揺さぶり続けた。


 だがやがて、それも終わっていた。燃えさかっていた怒りが空虚な諦めに変わったのを感じながら、猛禽のように二人の肩を掴んでいた手を離そうとした。


 そのとき、「どうしてですか?」というか細い声が弱々しく俺の耳に届いた。


「どうして、そんなこと言うんですか?」


「どうして……って。お前が舞台を――」


「舞台、舞台って。いつもそればかり。どうしてですか? 先輩がここに来たのは舞台のためなんですか?」


「それは……」


「ここに来ることがすごく危ないってわかってて、それでも先輩が来てくれたのは?」


 言い返そうとして――何も言い返すことができなかった。


 大きなハンマーで頭を殴られた気がした。……確かにその通りだった。俺が危険を冒してここに来たのは舞台のためではなく、だった。ただ、たとえそうだったとしても――


「嬉しかったんです、先輩がそうしてくれたことが。だからもうこれ以上何もいらないって思えたんです」


「……」


「……けど、違ってたんですか? 先輩がここに来てくれたのは私のためじゃなくて、舞台がやりたかったからなんですか?」


「……」


「だったら、逆に聞きます。先輩は何でそんなに舞台にこだわるんですか? 何でそんなにまで舞台がやりたいんですか?」


 答えようとして――答えられなかった。はっきりと自分の中に持っていたはずの信念。その舞台をどうしても成功させることの理由が、どこを探しても見つからなかった。


 そんな俺に畳みかけるように、静かに、囁くような声でペーターはなおも続けた。


「お爺さんとの約束があるからですか? オハラさんにチケットを渡してしまったからですか?」


「……」


「一度やると決めたことをやらないのが嫌だからですか? それとも混沌だとか何だとか、いつか言ってたあのよくわからない理由があるからですか?」


「……」


「……先輩はいつもそうでした。私といても、何をしていても舞台、舞台。舞台のことばかり。先輩と一緒にいて舞台のはなししなかったことなんてなかったですよね? 舞台から離れて、今日みたいに二人でのんびり歩いたこと、今まで一度もなかったですよね?」


「……」


「そんなのわかってました。だから、私もずっと舞台を追いかけてきました。先輩が好きなものだと思ったから、私もそれを好きになろうと一生懸命頑張ってきました。けどそれって……舞台ってそんなに大切なものなんですか?」


「……」


「答えて下さい、先輩。先輩にとって舞台はそんなに大切ですか? 今の先輩にとって、舞台は大切なものなんですか?」


「……」


「答えられないんですか? ……答えられないんですね」


 ……答えられなかった。言葉が出ないほど、俺は打ちのめされていた。


 いつの間にかペーターは一人になっていた。


 二人の肩を掴んでいたはずの俺の手は彼女の両肩に置かれ――その上にそっと、慰めるように彼女自身の手の指が触れた。


「私はただ、先輩と一緒にいたいだけです。ずっと、ずっと一緒にいたいんです。それだけなんです」


「……」


「けど、そうしたら駄目なんですよ」


「……どうして」


「どうして?」


「……」


「どうしてかなんて、先輩もよくわかってるじゃないですか」


「そんなの俺は――」


「じゃあ、先輩は私を殺せますか?」


「……」


「……できないですよね? 私にだってできません。先輩にできないことが、何で私にできるって思うんですか? そんなこと、できるはずないじゃないですか」


 そう言ってペーターは寂しそうに笑った。そんな彼女に、俺は一言も返すことができなかった。


 彼女の指が、そっと俺の手の甲を撫でた。それから小さく息をいて、「そんな顔しないで下さい」とペーターは言った。


「いじわるで言ったんじゃないんです。だから、そんな顔しないで下さい」


「……」


「今日が人生で一番幸せだって言ったじゃないですか、私。それは本当です。だから私、先輩のためなら何だってしますよ?


「先輩が死ねって言うなら、今すぐ死にます。舞台に立てって言うなら、もちろん喜んで立ちますよ。でも……だから聞きたいんです。どうして先輩はそんなに舞台にこだわるんですか?


「どうして私を舞台に立たせたいんですか? どうしてそんなに演劇がやりたいんですか? それがわからないから、私は寂しくてたまらないんです。


「教えてください、先輩。前にも同じようなこと聞いたかも知れませんけど、先輩はどうしてそんなに舞台にこだわるんですか? どうしてそんなに演劇がやりたいんですか?


「ずっと昔、同じ質問をしたことありましたよね。覚えてますか? 私が演劇部に入ったばかりの頃です。先輩そのとき混沌だとか好奇心だとか、難しいこと言ってたじゃないですか。今だから言いますけど、正直、先輩が何を言ってるのかさっぱりでした。


「あのとき先輩、私に言いましたよね。舞台に立てば私にもわかるって。きっとわかるときが来るって。でも、私まだわからないんですよ。今日まで続けてきてこんなこと言うのもおかしいですけど、演劇のどこが楽しいのか私には全然わかりません。


「ねえ先輩、教えてください。先輩がどうして演劇をやりたいのか、どうして私を舞台に立たせたいのか。それをちゃんと私にわかるように聞かせてください。そしたら私、喜んで舞台に立ちます。どんな役だって、どんな演技だって先輩の望むようにこなしてみせます。


「答えてください、先輩。先輩はどうしてその舞台がやりたいんですか? どうしてその舞台に私を立たせたいんですか? その舞台をやらなくちゃいけない理由って何ですか? その舞台は先輩にとって、本当にそれくらい大切なものなんですか?


「ねえ、先輩。答えられないんですか? ……答えられないんですね」


 そう言ってペーターはまた寂しそうに笑った。俺は一言も返せないままそんな彼女の前に立ちつくした。


 ふと、河原に人影が立っているのが見えた。最初、またもう一人の彼女が現れたのかと思った。けれども、それは彼女ではなかった。


 ――それ以前に、その人影は人のものではなかった。


「あ……」


 人影はひとつではなかった。ふたつ、みっつ……気がつけば無数の人影が古いモニュメントのように河原に立ち並び、示し合わせたようにじっとこちらを見ていた。


 いや、見ていたかどうかはわからない。ただ煌々こうこうと降り注ぐ太陽の下に、表情の見えない真っ黒な顔をこちらに向け、身じろぎもせずじっと動かずに立っていた。


「あ……ああ……」


 その人影がいったい何なのかわからなかった。ただ、それがことだけはわかった。


 そして、俺はその人影に言いようのない恐怖を覚えた。なぜかはわからない、本能的な恐怖と言うしかない。底のない真っ暗な淵を身を乗り出して覗き込むような……先の途切れた道を一歩一歩進まずにはいられないような。


 いてもたってもいられない、今すぐにこの場から逃げ出したい、そうしなければ取り返しのつかないことが起きる――そんな恐怖に襲われ、俺は咄嗟にペーターに向き直った。


「……ペーター?」


 いなかった。


 河原に目をやる直前まで目の前に立っていたはずの彼女は、もうどこを見回してもいなかった。


 真っ直ぐに続く道の先にも、堤防を降りた荒れ畑の中にも、鉄塔の下のコンクリートの上にも……どこにも彼女の姿はなかった。


「ペーター……おい、ペーター! どこ行ったんだペーター!」


 大声で四方に呼びかけた。だがどこからも返事など返ってこなかった。


 そのとき、俺の声に気づいたように人影のひとつが動いた。そして、そのひとつの人影に呼応して河原に立つ人影は一斉にこちらに向かい、歩き始めた。


「……っ!」


 音もなくゆっくりと近づいてくる人ではない人影の群れ。その光景に俺は声も出せないほどの恐怖に陥り、すぐにこの場から逃げようとした。


 けれども、足は一歩も前へ動こうとはしなかった。動かなかったのではない、どちらへ動かしていいのかわからなかった。


 ……どこへ逃げても同じだという諦めがふと頭をよぎった。だが次の瞬間、脳裏に張りつくその思いを払い落とすように、矢も楯もたまらずがむしゃらに俺は駆け出していた。


「はあ……はあ……はあ……」


 石ころの多い堤防の道を必死に駆け抜けた。


 予想通り、人影の群れは俺のあとをついてきた。頭だけで振り返る俺の目にゆっくり、ゆっくりと歩いているように映る群像は、けれどもどれだけ全力で走っても振り切ることができない。


 こうなることはわかっていた――どう足掻いても俺はあの影から逃げのびることはできない。はっきりとそれを確信しながら、それでも俺は力の限り腕を振り、地面を蹴って走り続けた。


「はっ、はっ、はっ……!」


 あの影に触れた瞬間、俺はここからいなくなる。


 また向こうの世界へ戻るのではない、文字通り消滅する。


 なぜそんな考えにとらわれるのかわからない、だがそれだけは間違いなかった。あの影に触れることで、俺という存在の一切が消滅する。過去も、未来も、こうして息を切らしている今の俺自身も。見ることも聞くことも考えることも、走ることも喜ぶことも恋をすることも、もう二度とできなくなる。


「はあっ! はあっ! はあっ! くそ……」


 身体はとっくに限界を超えていたが立ち止まることはできなかった。真っ黒なひとつの塊となった無数の人影がゆっくり、ゆっくりと近づいてくる光景に叫び声をあげたくなるのをこらえ、流れ落ちる汗をぬぐい、また前に向き直った。


 そのとき、遠く道の先に小さな人影を見た。


 ついに回りこまれたという一瞬の絶望があって――直後、その影が彼女のものであることを認め、今度こそ声を限りに俺は叫んだ。


「ペーター!」


 全身を苛む疲労を忘れ、軋む脚に力をこめて速度をあげた。その影がはっきりと彼女のものであるとわかる場所まで駆け寄って――


 だが、そこで俺は足を止めた。


 汗がいっせいに噴き出し、シャツの胸元に流れこんでゆくのを感じながら、そのまま崩れ落ちてしまいそうな虚脱に襲われた。


 道の先に立つその影は、もう彼女ではなかった。


 河原に立っていた……俺を執拗に追いかけてくる彼らと同じ、人と同じ形をした人ではないだった。


 一瞬の逡巡があって、だが俺は後ろを振り返ることなくもう一度彼女を見た。


 堤防に続く道の先、実体を失った午後の陽光に照らされるそこに、もはや彼女ではなくなった彼女は静かに立っていた。


 またわずかに躊躇って、俺は覚悟を決めた。ちょうどさっきまで俺を追いかけてきた人影のようにゆっくり、ゆっくりと、彼女の形をしたそのに向かい、俺は近づいていった。

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