104 ある暑い日曜日の午後(6)
彼女の前まで来て立ち止まった。
あとからあとから流れ落ちる汗と荒い呼吸。そんな俺を気遣うように真っ黒な顔が首をかしげた。……いや、本当は黒くないのかも知れない。ただちょうどそれは日蝕のときの太陽のように、背後からの逆光に隠されて俺の目には見えない。
「どうしたんですか、先輩。そんなに汗をかいて」
目の前の何かが聞き慣れた声で俺に語りかけた。けれども俺はそれに返事を返すことができなかった。どんな言葉で応えればいいかわからなかった。
そんな俺にもう一度心配そうな声で「どうしたんですか?」と声をかけ、彼女はまた静かに俺に語りかけた。
「ずっと探してたんですよ? どこ行ってたんですか?」
「……」
「いきなりいなくなっちゃって。どうしようかと思いました、本当に」
「……」
「ねえ先輩、どうしたんですか?」
「……」
「聞こえますか? 聞こえませんか?」
「……聞こえてる」
何も考えられないままどうにかそれだけ返した。けれどもペーターはなぜか小さくかぶりを振り、「違いますよ」と言った。
……何が違うのかわからなかった。それを訊ねることならできると思った。だが俺が口を開く前に、彼女は俺の後ろを指差して「ほら」と囁いた。
「ほら、聞こえますか?」
「……」
「呼んでいますよ」
「……」
「私たちを呼んでいます」
自分の意思ではなく自動的に俺は後ろを振り返った。すぐ背後まで迫った群衆はまるでしつけられた犬たちのようにそこで立ち止まっていた。
頭を戻した。彼らと同じ真っ黒な何かが俺の前に立っていた。
刹那、置き去りにしていた恐怖が濁流のように俺の胸に舞い戻ってきた。
「……っ!」
喉もとまで出かかった絶叫をすんでのところで押し殺した。震えだそうとする奥歯を噛みしめ、全身に力をこめた。
逃げてはならなかった……絶対にここから逃げてはならなかった。
大きく息を吐き、正面から彼女を見て、なけなしの勇気を振り絞り、俺はその一言を口にした。
「……ペーター、なのか?」
「もちろんそうですよ。他の誰に見えるんですか?」
「……」
「おかしな先輩ですね。忘れちゃったんですか? 私の顔」
「……わからないよ。よく見えないから」
「私の顔が見えないんですか?」
「よく見えない。何か暗くって」
「ならよく見てください。ちゃんと私の顔ですから」
そう言ってペーターは俺の両手を取った。
頂点に達していた恐怖が俺にその手から逃れることを忘れさせた。
彼女はそのまま俺の手を自分の顔に持っていった。その真っ黒な顔に俺の指を触れさせ、そうして母親が子供に言い聞かせるような声で、「ほら、私の顔ですよ」と言った。
彼女の指が俺の手から離れた。それでも俺は見えないその顔から手を離さなかった。両手の親指で唇から鼻にかけてなぞり、最後に両頬を挟んだ。
けれどもそれが毎日のように眺めてきた彼女の顔なのかそれとは別のものなのか、俺にはわからなかった。
「ねえ、先輩。あなただけだったんですよ?」
「え?」
「私にはあなただけだったんです」
「……」
「世界中であなただけだったんです」
「……」
「初めて会ったときからずっと。顔を見られなかったときも。たった一人あなただけだったんです、先輩」
両頬を挟んだままの俺の手に、また彼女の指が触れた。
俺はもう何も言えなかった……何も考えることができなかった。
存在を呑み尽くされるような恐怖はまだそこにあって、だが俺はもうどうすることもできなかった。
再び彼女の唇が動いた……見えない顔の中で動いた気がした。そうしてこれまでに聞いた中で一番優しい彼女の声で、「もう来てはいけませんよ」とペーターは言った。
「もうここへは来ないでください」
「……」
「もう二度と来てはいけません。お願いします」
「……」
「でも、嬉しかったです」
「……」
「先輩が来てくれて、私は本当に嬉しかったです」
「……」
「本当に、本当に嬉しかったです。だから、もう来ないでください」
「……」
「もうここへ来てはいけませんよ、先輩。もう二度とここへ来てはいけません。いいですか? 約束ですよ、先輩」
背後の群衆が一斉に動き出すのを感じた。けれどもそのとき俺の心を埋め尽くしたものは恐怖ではなく、噴き上がるような負の感情だった。
今こうして俺が触れている彼女を彼らに取られてしまうことが許せなかった。
それは、俺がペーターという女に対して初めて感じた嫉妬だった。俺ではない別の誰かに彼女を奪われるかも知れないという、これまで彼女に対しては一度も感じることのなかった、燃え盛るような嫉妬だった。
咄嗟に俺は彼女を抱き締めようとした。そんな俺の気持ちを見透かしたように、真っ暗なペーターの顔が優しく笑った気がした。
心配はいりません、と言うように。
私は永遠にあなたのものです、と言うように。
俺の手に触れていた彼女の指が離れた。そうしてそれが鏡像のように俺の両頬を挟んで自分の顔に近づけ、柔らかな唇がそっと羽毛のように俺の唇に触れた――
◇ ◇ ◇
――青い闇の中にいた。
右手に構えたリボルバーの引き金に指をかけ、その銃口がこめかみに触れるのを感じていた。
冷えびえとした夜気の中に、乾ききった土の臭いがした。そこがあの砂漠の廃墟で、自分に向けて拳銃を撃ったあの瞬間に戻ったのだと気づくまで――そうしたすべてを理解するまで、銃を頭に向け構えたままのぎこちない姿勢から動くことができなかった。
疲労を覚えはじめた右腕を降ろすのと、傍らからかすかな衣擦れの音を聞くのとが同時だった。
音のした方に目を向けると、そこにはペーターがいた。淡い月明かりに照らされるその顔は痛々しくやつれ、落ち窪んだ眼窩には黒い影が何かを暗示するように浮かんでいた。
けれども、その表情ははっきりと俺の目に映った。寝台に横たわる少女は、河原の道で俺に別れを告げたあの顔のない何かではなかった。
それだけで奇妙な安心を覚え、落ちかけていた毛布をペーターの身体にかけた。唇に手をかざして息をしていることを確認し、頬についた砂を指で払った。
自分の毛布を引き寄せて身体に巻き、ペーターの隣に膝を抱いて座った。彼女の寝顔を見下ろすその姿勢で、そのまま俺は寝ずの番についた。
薄明が空をゆっくりと塗り替えてゆき、その光がはっきりと部屋に射しこむまでになってもペーターは目を覚まさなかった。
彼女がようやく寝台に身を起こしたのは太陽も昇りきり、土壁から猛烈な暑気が押し寄せてくる頃だった。毛布を肩にかけたままふらふら起き上がろうとし、また寝台に倒れそうになるその身体を俺は背中から抱きかかえた。
暑さが耐え難くなるまでそうしていて、俺はまた泉と部屋とを往復する作業を開始した。生温い泉の水をペットボトルに汲み、それを『主の間』に運んで彼女の頭から浴びせかける。そんな仕事を憑かれたように、ただひたすらに繰り返した。
昨日そうだったように、ペーターの反応はなかった。どうにか寝台に身体を起こし虚ろな目を壁に向けたまま、日向臭い水が全身を流れ落ちるのを何も言わず受け容れていた。
徹夜明けの疲れ切った身体にその作業は過酷だった。炎天にめまいを覚え、ペットボトルを取り落として汲み直さなければならないときもあった。
だが、そこにもう葛藤はなかった。衰弱の色がはっきりと見てとれるペーターに話しかけることもせず、無理に水を飲ませようともしなかった。自分でも不思議なほど安らかな気持ちで、太陽が傾くまでその単調な労働を続けた。
暑さが去り、作業の必要がなくなるとペーターは寝台に身を横たえ、また眠りに落ちた。
俺は昨日そうしたようにずぶ濡れになったドレスを脱がせ、乾いたタオルでその身体を拭いてやった。そして水浸しの寝台の上で乾いた場所を探して砂埃を払い、そこに彼女の身体を移して丁寧に毛布でくるんだ。
何もやることがなくなった。
ぼろぼろに疲れた身体を引きずり、夜そうしていたようにペーターの隣に座った。両腕に抱えた膝が小刻みに震えているのがわかり……重労働のときには感じなかった苦痛が胸の奥に湧き起こるのを覚えた。
膝を抱え寝顔を眺めていることしかできない、それが苦しくてならなかった。
衝動に駆られて立ち上がりかけ、何もできないことを思いまた座り直す。そんなことをただ繰り返して、時間だけが過ぎてゆくのをぼんやりと眺めていた。
夜になった。
寝台に座りこんでから俺は一度もその場から動かなかった。泉から水を汲んできたものとは別の、まだ開封されていなかったペットボトルの中身をちびちび飲み、だが食糧は口にしなかった。
……と言うより口にできなかった。食べなければならないとわかっていても、空腹感とは別の締めつけるような胃の感覚が――大切な人を失おうとしているという事実が、そうすることを俺に許してくれなかった。
手持ちぶさたに過ごす間、何度かあちらに戻ろうとリボルバーを手に取りかけた。そうしながら結局、手に取らなかったのは、またあの河原に引き戻されるのが恐ろしかったからではない。
ただ、次に戻るときが最後の機会だという確信があった。
……もしその確信が正しいとしたら、俺にはあちらに戻る前に、まだこちらで結論を出しておかなければならないことがある。
その夜も俺は眠らずに過ごした。
食欲とは違うのか、身体は執拗に眠りを求め続けたが、朦朧とする意識を奮い立たせて一晩耐え抜いた。起きていたところで俺にできることは何もない。それが痛いほどわかっていても、目覚めて最初に見るもう動かないペーターを想像して、そのためにどうしても眠りに就くことができなかった。
朝が来た。
鈍い熱を持った頭に覚束ない意識で、ペーターがまだ生きていることだけを確認した。そのまま立ち上がろうとして、寝台から転げ落ちた。したたかに打った肘の痛みにあえぎ、やがて身を起こそうとするときも寝台に手をかけなければ膝を立てることができなかった。
自分の方も深刻な状態であることを悟らざるをえなかった。陽が昇れば今日も待ち受けている重労働を思い、このままではいけないと考えた。
……考えはしたが、食べ物を口にする気にはなれなかった。どうにかして食べようと思っても身体が受け付けないのだ。仕方なく俺はスポーツ飲料のペットボトルを手に取り、半ば義務的にそれを喉に流しこんだ。
残っていたすべてのペットボトルを空にし、それでようやく立ち歩きに支障はなくなった。
それでも灼熱のなか泉まで何度も階段を上り下りする作業はほとんど不可能に思えた。……やはり何としても固形物を口に入れなければならない。あと少し陽が高くなったら吐き気をこらえてでもそうしよう。そんな決意をもって見る窓の外に、空のきわがゆっくりと白んでゆくのを呆然と眺めた。
だが、窓からの陽射しは一向に強まる気配を見せなかった。とっくに暑さがなだれこんでくる時間になっても空気はぼんやりと暖かなままだ。
また砂嵐だろうか――だとしたら不幸中の幸いというしかない。そんなことを思い外の様子を確認しようとして……ふと、大気の中に懐かしい匂いが混じっていることに気づいた。
「――雨?」
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