105 ある暑い日曜日の午後(7)

 思わずそう呟いていた。それは確かに雨の匂いだった。


 窓の外を眺めると周囲には霧とも雲ともつかないうすいもやが立ちこめていた。大気の湿りは時を追うごとに濃厚なものとなり、空になったペットボトルに大粒の水滴をつけるまでになった。


 ――そして昼過ぎに、俺はその光景を目にした。


 驟雨しゅううだった。


 遥か彼方、ここからどれほど離れているのかわからない地平に分厚い雲が広がり、雷鳴と共に激しい雨が降っていた。遠目にもはっきりとわかる洪水のような雨だった。溜息をもらすことさえできず、凄絶なその情景を俺はただじっと見守った。


 砂漠にも雨が降ることは知っていたが、実際に見るのはもちろん初めてだった。


 湿気を孕んだ生温い風を感じながら、自分の置かれた状況を忘れて感動するのを抑えられなかった。ペーターを起こそうとして……思いとどまった。こんな状況でなければと場違いなもどかしさを覚え、せめて自分の目に焼きつけようとまたその絵に見入った。


 不思議な光景だった。雲はほんの一部だけ鉛色の塊をつくり、その周囲には霧となって広がっている。そしてその雲塊の下のごく限られた狭い領域に、冗談のようにそこだけこの世の終わりのような雨が降っている。


 ……こことは関係のない世界の出来事だと思った。風は湿りを帯びた大気を運びはしても、あの雲をこの城まで押し流してくることはない。


 ――ふと、ウルスラのことを思った。


 この荒野に連なる俺の知らない場所で、過酷な戦いを戦っている彼女のことを考えた。限りなく絶望に近いと彼女が呼んだその戦いと、そこで果たすことができなかった俺の役目。


 あるいは、あの驟雨の下でその戦いが繰り広げられているのではないかと思った。そうして初めて、自分と関わりのないそこに降る雨が早くあがることを祈った。


 やがて雨は止んだ。


 潮が引くように雲が姿を消し、砂埃が落ちたためかいつもより鮮やかな青い空が取って代わった。だがありがたいことに、太陽はもう西の空に傾き始めていた。周囲にたちこめていた湿気が失われるにつれ、上がりかけた気温が徐々に下がってゆくのを安堵の中に感じた。


 それからもうひとつ事件があった。


 陽もだいぶ傾いた頃、ほんの小さな地震があった。じっとしていなければわからないほどのかすかな揺れが、所在なく寝台に腰かけていた俺には確かに感じられた。当然、壁も天井も崩れることはなかった。ものの数秒で終わったその地震をやり過ごしてから、いっそこの城ごと俺たちを葬り去ってくれればよかったと、投げやりにふとそんなことを思った。


 残る空虚な時間を、ただじっとペーターの顔を見守ることに費やした。


 朝からずっと目を覚まさないその寝顔に、もう俺は絶望さえも感じなかった。まる三日飲まず食わずの彼女がここまで生きながらえているのは奇跡と言っていい。明日に太陽が昇れば、俺が何をどう頑張ろうとも彼女は息をすることをやめるだろう。


 この数日ペーターがとり続けてきた行動の意味が、今は理解できた。


 水も食糧もとらずに終わりが来るのを早めようとする理由。そして、一度は受け容れた俺を頑なに拒絶することも。


 それが彼女の選んだ答えだと思うとつらかった。最後まで一緒にいてくれと言われれば……その方が俺にとってどれほど嬉しかったかわからない。


 その手段――彼女と共にその時を迎えるための手段は、俺の手の中にある。命賭けの実験の結果として得られた、ふたつの世界の垣根を跳び越えるための手段。


 けれども俺はまだ、おそらく次で最後となるその手段を行使することはできない。


 その前に考えなければならないことがあった。あのペーターの質問に答えを用意できない限り、俺は再びあちらの世界に戻ることはできない。


 俺が舞台にこだわる理由。


 なぜあの終わりかけた世界で舞台をやろうとするのか、なぜその舞台にペーターを立たせたいのか。


 それを訊ねてきた彼女の気持ちが、今の俺にははっきりとわかった。それに納得のいく答えを返せないうちは、彼女の前に立つ資格が俺にはないのだと思った。


 ……答えは出なかった。


 あの時ウルスラの提示した枠組みは既に破綻している。ペーターを舞台に立たせようが立たせまいが彼女は回復しない。難解な言葉で語られた虚構の世界――彼女と有機的に結びついたあの世界の崩壊は時間の問題で、もうそれを食い止めるすべはどこにも存在しない。


 だがそれでも……それがわかるからこそ、俺は彼女と共に立つあの町での舞台を諦めることができない。


 それはもはや老人との約束があるからではなかった。たった一人の観客であるオハラさんのためでも、まして即興劇団ヒステリカのためでもなかった。


 そんな舞台のことは忘れてもいい、あの昼下がりの町を歩きながら一度はそう思った。それでもなお俺が今こうして、あの日できなかった舞台をやり直そうとする理由は――


 そんな思いの狭間で時間だけがいたずらに過ぎていった。


 見捨てられた砂漠の廃墟には、もう風さえもなかった。壁の穴に切り取られた空。無限の深みを思わせる紺碧の小さな空が、緩慢に衰えゆく陽射しにゆっくりとその濃さを増してゆくのを、俺はただ黙って見つめていた。


◇ ◇ ◇


 夕暮れがすぐそこまで迫った頃、俺はまたその音を耳にした。


 もう何回目になるかわからないその音を聞き違えることはない。遠くから近づいてくるそれは、エンジンの音だった。


 最初、またウルスラが来てくれたのかと立ち上がりかけ、だが彼女がもう二度とここへは来ないと言っていたことを思い出した。……だとすれば、あまりいい訪問者は期待できない。いずれにせよこんな幕も間際になって、ぽっとの端役にごちゃごちゃと掻き回されるわけにはいかない。


 リボルバーをジーンズのポケットにねじ込み、ペーターの寝顔を一瞥して『主の間』をあとにした。湿った風の臭いが残る薄暗い回廊を抜け、階段を下りて『中庭』に出た。訪問者がこの『中庭』に現れるかはわからない。そもそも荒野を通過する隊商か何かでこの城へは向かっていないのかも知れない。


 それでも俺はポケットからリボルバーを抜き、城壁に身を隠してエンジンの音に耳をすましながら訪問者がやって来るのを待った。


 果たして、訪問者は現れた。例によって城門から乗りこんできたのは、いつかあの二人組が乗ってきたのと同じ軍用のジープだった。


 悪い予感が的中したことを思い、にわかに心臓が早鐘を打ち始めるのを感じた。だからそのジープの扉が開き、そこから降りてきた大柄な男の姿を見たとき、思わず俺が叫んだのは不可抗力と言っていい。


「DJ!」


 愛用のライフルを背負うDJは俺の声に一瞬険しい表情を見せ、だがすぐに笑顔で「よう!」と言って手をあげた。俺はもうたまらずDJに駆け寄り、がっしりと力強くその肩を抱いた。


「おい何だよ! お前もこっち来てたのかよDJ!」


「ああ、まあそんなとこだ」


「ったく、だったらもっと早く来いよ! 何で来なかったんだよ! この野郎!」


「わかったから放せって。いてえだろが」


 言われて俺はDJから離れた。右手にまだリボルバーを握っていたことに気づき、慌ててそれをポケットに押しこんだ。


 そしてその手をおずおずとDJに差し出した。ばかでかいDJの手がその手を握り、俺たちは固い握手を交わした。


「久し振りだな、DJ」


「ああ」


「何か、もう何年も会わなかったような気がする」


「オレもだ」


 そう言ってDJは無精髭の生えた口元に笑みを浮かべた。


 俺は予想外の展開に喜びを隠しきれなかった。まさかこの期に及んでDJが訪ねてきてくれるとは夢にも思わなかった。もちろんDJが来たからといって状況が変わるわけではない。だが望みを失い、心が折れかけていた俺にとって、気心が知れた友だちが来てくれたことは涙が出るほど嬉しかった。


「ここには、オマエだけか?」


「え? ああいや、もう一人」


「どこにいるんだよ」


「この上に。……そうだ、こんな場所で立ちばなししてるのもなんだ。あがれよ、何にもない所だけど」


 そう言って俺は握手を解き、その手でばんばんとDJの背中を叩いた。痛えよと言いながら、DJは俺が促すまま城の中に入った。

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