106 ある暑い日曜日の午後(8)
『王の間』にたどり着くまで、俺は矢継ぎ早に様々な質問をDJに浴びせかけた。どうやってこちらへ来たのか、今まで何をやってきたのか。そんな俺の質問にDJは面倒なのか、曖昧にはぐらかすだけでまともに答えなかった。
『王の間』に着いた。DJは「へえ」とか気の抜けた声を出しながら部屋の中を見まわし、寝台に横たわるペーターに目を留めた。
「寝てんのか」
「見ての通り」
「具合でも悪いのか?」
「まあ、そんなとこだ」
俺の声の調子に察したのか、DJはそれ以上何も聞かなかった。
話題を変えようとして、不意に俺は食事をふるまうことを思いついた。ウルスラが持ってきてくれた食糧はまだほとんど手つかずで残っている。DJの食い気を考えればかなりの消費を覚悟しなければならない。だが、こいつと一緒なら食欲がわかない今の俺も食べられる気がする。
そう思って部屋の隅の段ボール箱を開け、例の保存食品を取り出そうとした。けれども俺がそうする間に、DJは何を思ったのか奇妙なことを始めていた。
「……おい、何やってんだよ」
「ん? ああ、上に登ろうと思ってな」
そう言うDJの足は既に窓を踏み越え、その半身は天井に続く壁の向こう側にあった。DJが何を言っているのか理解し、あまりのことに軽い笑いさえこぼれた。
「頭大丈夫かよ。落ちたら死ぬぞ」
「それだけだろ?」
「それだけ?」
「落ちてもせいぜい死ぬだけだ」
事もなげにそう言ったあと、DJは「よっ」と気合いの声を入れ窓の上に消えた。……本当に登りやがった、と信じられない思いに駆られるのも束の間、窓の上から太い腕がぬっと突き出された。
「……何の真似だよ」
「登ってこいって」
「はあ? できるわけないだろ」
「できるに決まってる。オレができたんだから」
もう駄目だった。考えるより先に俺は立ち上がり、窓に向かい歩いていた。
下を見ないようにしながら窓のへりに足をかけ、突き出されたDJの手を掴んだ。「せーの」という掛け声が降ってきて腕が大きく引かれ――次の瞬間、俺は城の最も高い屋根の上にいた。
「ほら、いい眺めだろ?」
平然とそう言ってのけるDJに、俺は返事をすることができなかった。今さらやってきた恐怖に全身が震え始め、それをDJに気づかれないようにするのがやっとだった。そんな俺に構わずDJは口笛を吹きながら脚をぶらつかせていた。
ようやく震えが治まり、DJの隣に腰を落ち着け、周囲を見まわして、身体の一番奥から「ああ」という声がこみあげてきた。
「……
「ああ、スゲえだろ」
それしか言えなかった。四方三百六十度、どこを眺めても赤茶けた大地が続くその光景は壮観と言うしかなく、他のどんな言葉をもってしても言い表せないと思った。
まるで広大な海だった……岩と砂に覆い尽くされた水のない海。この城はその海の真ん中に浮かぶ小島で、だがそのことに今は孤独ではなく何か誇らしい思いさえ感じた。
しばらく黙ってその光景を眺めていた。
太陽はもう地平に入りかけ、空と大地の境界は淡い朱鷺色に染まり始めていた。あの雨のためだろう、空の色はどこまでも澄んでいる。これから自分が目にすることになる――そしておそらくもう二度と見られない夕焼けの美しさを思い、鳥肌が立つのを感じた。
どうせならペーターと見たかった……だがこいつと一緒でも、それはそれでまあ悪くないと思った。
「なあDJ、こっちで何してたんだよ」
「あん?」
「さっき聞いただろ。こっち来てからお前なにしてたんだ?」
「……まあ色々とな」
「教えろよ。減るもんじゃねえだろ」
「オマエこそ何してたんだよ」
「俺? 俺は何もしてねえよ」
「何もしてねえってこたないだろ」
「いや、本当に何もしてない」
「ずっとここにいたのか?」
「ああ、ずっとここにいた」
「ずっとここにいて、そんで何してたんだよ」
「だから何もしてない」
「そっか。そんじゃだいぶヒマだったんだな」
「ああ、そうかもな」
そう言ってしまってから、俺は決して暇だったわけではないと思い直した。
確かにこの世界に送られてからこの方、ずっとこの何もない場所にいた。……けれども、俺はここで何もしてこなかったわけではない。
思えばここまで色々なことがあった。苦しいことも悲しいことも。あちらで生きてきたすべての時間より濃密にさえ感じる、一言では言い尽くせない本当に色々なことが。
……と言うより、それは話してもわからないことなのだと思った。
こちらとあちらを行き来しながら俺が体験してきたことは、それを体験した俺にしかわからない。
それでも俺は、自分がここまでやってきたことの
「そういや俺、あっちで変なもの観たよ」
「ん? どこで何を観たって?」
「あの町だよ。あそこでお前が出演してる映画を観た」
「映画?」
「そう、映画。最初は似たやつかと思ったけど、あれはやっぱりお前だった」
「何だそりゃ。わけがわからねえ」
「俺だってわからねえよ。まあ聞け、その映画ってのはだな――」
そうして俺はあの謎めいた映画についてDJに語った。
オープニングのない唐突な導入から、東欧を思わせる古びた町での単調な市街戦。つまらなさが極限に達したところでスクリーンにDJが現れたこと。小隊長然としたDJの活躍と、戦況の変化。そしてあの衝撃のカタストロフィに至るまでを。
少し躊躇う気持ちはあったものの、勢いであの最後の事件まで話した。男同士で遠慮する必要もない、露骨な表現で克明にあのシーンを説明し、DJが笑い飛ばすのを待った。
だが、DJは最後まで笑わなかった。その代わりにどこか気が抜けたような顔で彼方を見つめ、「そりゃホントのことだ」と呟いた。
「何がだよ?」
「オマエの話したそれは、ホントのことだってこった」
「あの映画に出てたことが本当だってことか?」
「映画なんてものは知らねえ。オマエが言うような目にオレがホントに遭ったってことだ」
「……何だよそれ」
「あそこでしばらくドンパチやってたのはホントだよ。結局、負けちまったことも、思い出したくもねえ拷問受けたこともな」
「ばか言えよ。ならお前、アレがないってことじゃねえか」
「そうだよ。切られてそれっきりだ」
「……冗談なら笑えねえな」
「冗談なんかじゃねえよ。どれもホントのことだ」
そこで話が途切れた。真顔で信じられないことを言うDJに、何をどう返せばいいかわからなかった。いっそ不意打ちで股間を掴んでやろうかとも思ったがさすがにそれはやめておいた。しばらくどちらも黙っていたが、やがてDJの方でまた口を開いた。
「見せつけるためだとさ」
「何?」
「あそこでの研究の成果を見せつけるためだったんだとよ。ナントカ計画とか名前がついてたんだが忘れちまった。そのためにオレはあそこに行かされたんだと」
「だから何の話だ」
「オマエの言ってた、大事なもん切られたときの話だよ」
「……」
「そんときゃオレも何も知らされちゃいなかったんだがな。こっちでやってたのと同じように、殺されねえようにしながら端から殺してた。で、にっちもさっちもいかなくなって、とうとうオレも終わりかあと覚悟決めて、あの
「……」
「オレの足りねえ脳味噌にもわかるように連中は教えてくれたよ。ホントの敵が誰かってのを知ったのもそのときだ。そいつら皆殺しにするっていう計画にのっけられて、そっからまたこっちに戻ってきたってわけだ。それも晴れて今日で完了。計画はこのオレ様のおかげでパーフェクトに完遂できましたとさ」
「……わからないって」
「ん?」
「お前がなに言ってるのか、俺には全然わからない」
そう言う俺にDJは顔をこちらに向け、いつものぼんやりした表情で俺を見つめた。その表情にふっと苦笑いを浮かべ「なに言ってんだ」と、少しからかうように言った。
「オマエだって関わってんだぞ。その計画に」
「え?」
「オマエと下の女がここに来たのだってそのためだ。例の方法で『座標』を連中に知らせるって」
「……」
「あの女がちゃんと説明してただろ、ここに連れてくる前に。まあ裏のことまでは話しちゃいなんだが」
「……」
「覚えてねえのか?」
「……覚えてねえよ」
「そっか。覚えてねえのか」
「……」
「なあ。オマエの名前、ハイジってんだよな?」
「はあ? いきなり何言ってんだよ?」
「オマエはハイジか、って聞いてんだ」
「俺は俺に決まってるだろ。なに言ってんだ」
「本当にハイジ?」
「ハイジだよ! 見りゃわかるだろ」
「ならオレの知ってるハイジは、オマエとは別人なのかもな」
「……」
「ああ……そういうこった。それでぜんぶ解決だ。そう考えりゃあれもこれも説明がつく。ああわかった。これでみんな片付いた――」
そんなことを言いながらDJは一人で納得したように何度も小さく頷いた。
けれども俺の方ではまったくわけがわからなかった。いったい何の話をしているのか、俺にはまるで理解できない。DJは俺に関わりがあるようなことを言ったが、それは俺の知らない世界の話だと思った。俺には一切関わりのない、遠い世界の出来事だった。
「……」
けれどもそう考えることで、ああそうか、と思った。
それはここでDJが体験してきたことだから、俺には理解できないのだ。
あの夜の城の闇の中に自分を発見してからここまで俺が見てきたもの、聞いてきたものをうまく説明できないのと同じように、DJもそれを俺に説明できない。それはまったく当然のことで――結局、この舞台はそういうわけのわからないものだったのだ。
「……」
舞台という言葉を思い浮かべて、そのことをすっかり忘れていたことに気づいた。
あの町で老人たちとやることになっている舞台ではない、日曜日のホールで隊長の口から聞かされた舞台のことだ。
ここへ来たばかりの頃、俺はそれをここでやらなければならないものと信じこんでいた。この広大な砂漠が隊長の言う舞台装置である、と。あの日聞かされた『残酷演劇』というものが、現実に形をとって現れたものである、と。
「……」
そのことを、俺はすっかり忘れていた。だがもうそのことに、俺は何の感慨もなかった。
俺たちがずっと作り出そうとしてきた即興劇団ヒステリカの舞台。もし今、それが自分の中にあるとしたら、それは間違いなくあの町での舞台だった。模型屋の老人が裏方をやってくれる、あの日のやり直しの舞台。ペーターと共に立つことができるおそらく最初で最後の、二人きりの舞台。
――それが俺にとって、残されたすべてだった。そう強く胸に思い描いたとき、隣でまたぽつりとDJが呟いた。
「復讐、ってわけじゃなかったんだがな」
「ん?」
「復讐がしたかったわけじゃねえ。そんなのは別にもうどうでもよかった」
「……」
「ぜんぶやり遂げたって何のこたねえ。嬉しくもねえし気が晴れるわけでもねえ。どの道ぜんぶ終わりゃオレは用済みだ。そんなもんはわかってる。最初からわかってた」
「……」
「ただ、やらずにはいられなかったんだよなあ。その先に何もねえってわかってても、どうしてもやらずにはいられなかった。だから、それで良かったんじゃねえかって思う。……まあ、自分でもなに言ってんだかわかんねえけどな」
DJの独白を聞きながら、俺はぼんやりと地平線を眺めた。
雨上がりの澄みきった空に、夕焼けは既に始まっていた。
予想通り、それは偉大なる光景だった。とても言葉では言い表せないほどの……この夕焼けを見るためにここまでの苦難があったのならそれでいいと、すべてのことを置き去りにして、素直にそう思えるほどの。
その美しい光景を見つめながら、ふと下で眠っている彼女のことを思った。
できるならペーターと一緒にこの景色を眺めたかった……もう一度そう思って、だがこうしてDJと肩を並べて見るのもやはり悪くないと思った。
そもそもDJがここに登ろうなどと無茶なことを言い出さなければ、この素晴らしい景色を目にすることもなかった。そう考えればこの眺望はこのわけのわからない舞台の最後に、思いがけずDJがもたらしてくれた花束と言っていい。
気持ちが救われた、と思った。
絶望的な状況に麻痺し、苦しみさえまともに感じることができなくなっていた心に、たぶん意識することなしにDJは大きな風穴をあけてくれた。
こいつが来てくれて本当によかったと思った。
気恥ずかしさを感じながらそれを伝えようと口を開きかけて、だがそれよりもDJが俺の名を呼ぶのが先だった。
「なあ、ハイジ」
「ん?」
「決闘しようや」
「決闘?」
「ああ、決闘だ。あの赤いのが沈んじまう前に決闘しよう」
そう言ってDJが指差す先には焼け落ちようとする地平線があった。
DJが言う「赤いの」が何をさしているのか、もちろんわかった。だが俺にはなぜいきなりDJがそんなことを言い出したのか、まるでわからなかった。
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