101 ある暑い日曜日の午後(3)
――舞台だ。
忘れていたそれが舞台であったことを、今さらのようにはっきりと思い出した。
胸騒ぎにも似た疑問の正体はそれで明らかになった。今日は待ちに待った舞台の日で、俺たちはその舞台に立つことになっている。
だから俺がこうして落ち着かない気持ちになるのも自然で、逆になぜペーターが隣でこんな涼しい顔をしていられるのかわからない。
新たに浮かんでくる疑問に理由のはっきりしない苛立ちのようなものを覚え、よく考えないまま俺はその疑問を口に出した。
「……舞台のこと、本当に覚えてないのか?」
「え?」
「舞台だよ。今日は舞台のはずだ」
「さっきもそんなこと言ってましたよね。私たちと何か関係があるんですか? その舞台」
「俺たちの舞台だよ」
「私たちの?」
「そうだ。俺たちが役者として立つことになってる演劇の舞台だ」
それだけ言って俺は黙った。小屋を出る前にこの話をしたときと同じように、怪訝そうな目をこちらに向けていたペーターはやがて何を思ったのか曖昧な微笑を浮かべた。
そうして視線を道の先に戻し、まるで話を合わせるように「面白そうですね、それ」と言った。
「さっきも聞きましたけど、どんな舞台なんですか?」
「それは――」
「私たちはどんな役なんですか? その劇で」
「……」
「役者として立つことになってるってことは、もう役が決まってるんですよね? その劇で先輩と私がどんな関係なのか知りたいです」
「……」
「台本とかはないんですか?」
「……」
「その劇の台本、読んでみたいです。それに、今日が本番なら急いで台詞覚えないといけませんし」
興味深そうな笑みを浮かべる横顔から、答えを返すことができない俺にペーターは次々と質問を投げかけた。
そんな彼女の意図を掴みきれないまま、俺はただひたすらにその質問について考えた。……ペーターの言うことはもっともだった。出し抜けに俺が告げた謎の舞台について彼女が当然口にすべき、それは質問だった。
今日、自分たちが立つことになっているというそれはどんな舞台なのか。
その舞台で自分たちが演じるのはどんな役なのか。その舞台の台本はないのか。
今日が本番ならすぐに台詞を覚えなければならないのではないか。
……どの質問をとっても反論の余地がないほど真っ当なもので、答えられない自分が馬鹿のように思えてくる。演劇の舞台に立つというのなら、それはどれも必要なことだ。どれひとつ欠けたとしてもまともな舞台にはならない。その当たり前の質問に、俺は何ひとつ返事を返すことができない――
「ないんだよ」
「え?」
「決まった役も物語も、台詞を書いた台本もその舞台にはないんだ」
「何なんですか? その舞台。ますますわからなくなりましたよ?」
開き直るような俺の回答に、ペーターは前を向いたまま不平そうにそんな文句を漏らした。けれどもその回答を口にした瞬間、それが正しい答えだったのだとわかった。
――そう、それでいいのだ。その舞台がどんな物語なのかわからない。自分たちの演じる役がどんなものかもわからない。台本はない。台詞も覚えなくていい。それが俺たちの演じようとする舞台で……滅茶苦茶に思えるかも知れないが、その舞台を演じるために俺たちには何も必要ない。
それはとても大事なことだった。たった今思い出したばかりのそれが、俺たちの演じようとする舞台について何よりも大事な、本質にかかわる要素だと直感的にわかった。
それを彼女に伝えようと思った……いや、どうしても伝えなければならなかった。
隣を歩くペーターに目を向けて口を開きかけた。けれども俺がそうするのをわかっていたかのように、彼女から先に声がかかった。
「なら、先輩の台詞に合わせて返事をすればいいんですね、私」
「え? ……ああ、そうだ」
「それなら何とかなるかも知れません。あまり自信ないですけど」
「……」
「でもそれだと先輩が大変じゃないですか? 物語とかぜんぶその場で考えながら演技するんですよね?」
「……そういうことだ」
「やっぱりすごいですね、先輩。うまくできるかわかりませんけど、そんな舞台なら私も立ってみたいです」
その舞台に立つことを夢見るような、気持ちのこもった声でペーターはそう言った。
――その言葉が、俺の求めていたものだとわかった。ずっとその言葉が聞きたかった。その言葉が聞きたくて……その言葉を聞くために俺は長い旅を続けてきた。
旅……旅とは何だろう?
俺はずっとその言葉が聞きたかった。その舞台に立ちたいという言葉を彼女自身の口から聞くために、ただそれだけのために俺はここまで必死になって何かをやってきた。
けれども……だからこそ駄目だった。ペーターが口にした希望は、あくまで俺の話につきあうものに過ぎなかった。
妄想じみたよた話に調子を合わせるだけの、何の責任もともなわない言葉。そんな不確かなものではなく、彼女が心からその舞台に立ちたいという本当の意思を聞かなければならない。
もう時間がない――そう、時間がないのだ。現実にはその舞台は目前に迫っていて、俺たちは今すぐにでもそこに向かわなければならないのだ。
そのことをペーターに伝えなければならない、そう思ってまた隣に目を向けた。
そのことを伝えようとして――だが、そうすることができなかった。
こちらに気がつかないまま幸せそうに道の先を見つめ、ペーターは歩いていた。その夢見るような穏やかな笑顔が、喉もとまで出かかっていた言葉が口から出ることを押し止めた。
「……? どうしたんですか?」
ようやく俺の視線に気づいたペーターが笑顔のまま不思議そうに言った。その問いかけに、俺は返事を返すことができなかった。
どうしても伝えなければならない言葉はまだ喉もとにあって、だがそれを口に出すことがどうしてもできなかった。しばらく無言で俺を見つめたあと、ペーターはまた道の先に視線を戻した。
そんなペーターの顔を横目に見ながら、なぜ俺は伝えるべきそのことを伝えられないのだろうと思った。
街路樹の陰が彼女の横顔を鮮やかに隈どり、それからまた午後の強い日射しに飾りけのない笑顔が照らし出された。その笑顔を眺めるうち、自分の中でにわかに高まっていた思いが急速に薄れてゆくのがわかった。
なぜそのことを伝えなければならないのか、一度は確信したそのわけさえも曖昧に揺らぎ、アスファルトに立つ逃げ水のように消えてゆくのを感じた。
舞台――舞台が何だというのだろう? それがいったい今の俺たちにとってどれほどの意味を持つというのだろう?
……このまま彼女と歩き続けるのもいいと思った。得体の知れない舞台のことなど忘れて、夏を迎えたばかりの町をこうしていつまでも歩き続けてもいい。
もし彼女がそう望むなら。ただ一人この時間を共有する彼女が、そうすることを俺に望むのなら――
カン、カン、カン、カン――
不意に踏切の音が響いた。住宅を縫って走る線路と小路との交差点に赤いランプが明滅し、ちょうど遮断機が降りようとするところだった。
俺たちは立ち止まった。線路の反対側にも立ち止まる女性の姿があった。
もともと人の少ない場末の町に、今日はほとんど人の姿というものを見ていない。降って湧いたこの蒸し暑さの中、好きこのんで出歩く人間も少ないのだろうが、それにしても閑散とし過ぎている。
ひょっとしたら踏切の向かいに立つあの
そこで初めて、それが彼女であることに気づいた。
カン、カン、カン、カン――
閉ざされた踏切の向こう側に、もう一人のペーターの姿があった。隣に立つ人の存在を確認しなくともそれが彼女とは別の、あのもう一人の彼女であることがわかった。
遮るもののない炎天の下に、その表情ははっきりと見てとれた。両手を前に揃え、ほんの少し俯いて、あの時と同じ何かを訴えるような眼差しでじっとこちらを見ていた。
「……このままがいいのか?」
「え?」
「お前がこのままがいいなら、俺はつき合う」
「何ですか? 踏切の音でよく聞こえなくて」
ペーターがこちらに顔を向け、踏切の音に負けまいと大きな声で問い返しているのがわかった。けれども俺はそちらに顔を向けず、線路を隔てて立つもう一人の彼女と見つめ合ったまま、自分でもなぜ口にしたかわからないその言葉を繰り返した。
「お前がこのままでいたいなら、俺は最後までつき合う」
「……」
「もし本当にお前がそうしたいって言うなら、俺は――」
けたたましい警笛を鳴らしながら、鉄塊が目の前を通過していった。
視界が開け、ランプを消した遮断機がゆっくりと上がり始めても、線路の向こうに立つもう一人の彼女は動かなかった。
隣を見た。きょとんとした表情で俺を見つめ、少しおどけたように首をかしげるペーターの顔があった。
再び前を向いた。もう一人の彼女の姿はまだそこにあった。それが動かないことを確認して、俺は線路を渡り始めた。何も言わずついて来る小さな靴音を背中に聞きながら。
線路を渡りきったところで彼女と擦れ違った。その前後、彼女は小屋で見たときと同じように何かを告げようと唇を開きかけ、だがやはり躊躇うように口を閉ざして何も言わなかった。
眩いばかりの陽光の下に、ただ必死に何かを伝えようとする眼差しだけが残った。その眼差しになぜか苛立ちのようなものを感じながら俺は立ち止まり――けれども振り返ることなく、小さな靴音が線路を渡り終えて隣に並ぶのを待った。
◇ ◇ ◇
それからまた俺たちはしばらく歩いた。
真上から降り注ぐ太陽と蝉時雨の他は何もない町の中を、ときどき思い出したように短い会話をしながら宛もなくそぞろ歩きを続けた。
途中、さすがに喉が渇いたので自販機でジュースを買い、バス停のベンチに腰かけて飲んだ。その間バスは来ず、飲み終えた空き缶をスチールの籠に投げ入れてバス停をあとにした。
景色はだいぶ前から見慣れないものになっていたが、構わず歩き続けた。疲れがきてもおかしくない道のりを歩きながら、ペーターはそれについて一言も漏らさなかった。
けれども俺はそうして歩き続ける間、隣に歩く人のことを考えなかった。その代わりにただふたつのこと――俺たちが立つはずの舞台ともう一人の彼女のことを考えた。
それは何と引き換えにしてでも成功させなければならない舞台だった。それほど重要で、大切な舞台のはずだった。
思い出しかけたその舞台への衝動と、何かを訴えるような彼女の眼差しが頭から離れなかった。そうして繰り返し考えるうち、やがてそのふたつは俺の中で混ざり合い、癒着していった。
彼女が無言で訴えようとしていたのは舞台のことだったのではないかと、陽射しの中にぼんやりとそんなことを考えた。
その考えは容易に俺の頭を去らなかった。彼女が必死で訴えていたのは俺たちが立ち向かわなければならない舞台のことに他ならない、そう思えてならなかった。
二度までも俺の前に現れた彼女が声ならぬ声で伝えようとしていたのは舞台のこと――俺たちが役者として立つことになっている何よりも大切な舞台のこと。舞台を思うあまり俺が俺自身に見せている幻影なのかも知れない。だがもしあれが本物の彼女だとしても……なぜだろう、俺はそれを素直に信じられる気がする。
どちらも本当の彼女なのだ。そう考えることですべてに説明がつく気がした。
舞台のことなど何も知らない――あるいは知らないふりをして隣を歩いている彼女も本当の彼女で、その舞台のことを必死に思い出させようとする彼女も本当の彼女。
そのどちらも本当の彼女で、ただ彼女たちの思いがひとつに重なることはない。
そう、彼女たちの思いは決して相容れない。このままこうして歩き続けるか、それとも今すぐに舞台のことを思い出すか。俺がそのどちらかしか選べないように、彼女たちも引き裂かれたままでいる。
俺がこいつと歩き続ける限り、もう一人の彼女はああして声もなく訴えるしかない。幻のような二人の姿はその実、今の俺たちが置かれた状況を映す鏡のようで……だから俺がそれを信じるのに何の不自然もないのだと思った。
だが、それならば俺はこの彼女と歩き続けようと思った。
二人の彼女が別の方向を向いているのなら、俺はこの彼女とどこまでも歩き続けようと思った。
鳴り響く踏切の前で一度は口にした、それが俺の結論だった。
何と引き換えにしてでも成功させなければならない舞台……けれどもこうして彼女と歩き続けるために、その舞台のことを忘れてもいいと思った。意味もなく、宛もなく、魔法のような夏の午後をどこまでも歩き続けてもいい。
もし、彼女がそう望むのなら。たとえそれが一方の本心に過ぎないとしても、本当に彼女がそうすることを俺に望むのなら――
「ねえ先輩、不思議だと思いませんか?」
川沿いの道に差しかかったところで、不意にペーターがそう切り出した。どこをどう歩いて来たのか名前も知らない川の、堤防に走る舗装されていない土の道だった。
「不思議って何が?」
「こうして私たちが二人で歩いてることです」
「不思議でも何でもないだろ。それのどこが不思議なんだよ」
「だって私、諦めてましたから」
「何の話だよ」
「
思わず隣を見た。穏やかな笑顔を浮かべたまま、ペーターは真っ直ぐに前を見ていた。その声に、俺のことを咎めるような響きはなかった。ただ何でもないことを話すように淡々と、ペーターはその言葉をもう一度繰り返した。
「わかってたんです、私。高校の頃から先輩に嫌われてるって」
「……」
「ずっと私のこと嫌って避けてましたよね? 先輩」
「……嫌ってなんかいない」
「
「嫌ってはなかった。避けてたのは認めるけど」
「……ですよね。先輩はずっと私を避けてました。わかってたんです、私」
「……」
「折れた骨がそのままくっついちゃったような感じだったじゃないですか。私たちずっと」
「……」
「だからこんな気持ちで一緒に歩ける日が来るなんて思いませんでした。こうしている今でもすごく不思議で、信じられないような気がしているんです、私」
そう言ってペーターはこちらに顔を向け、どこか寂しげな笑みを浮かべた。
冷たい
彼女の言う通り、
「俺だって信じられないよ」
「そうですか?」
「お前とこんな
「……ですよね」
そう言ってペーターはまた寂しそうな笑顔を見せた。だが今度はその顔に罪悪感ではなく、道を
……そう、俺たちはあの一年で決定的に道を間違えて以来、どうすることもできずにその曲がりくねった道をつかず離れず歩いてきた。それがこうしてどこまでも続く真っ直ぐな道を、二人で並んで歩く日が来るとは夢にも思わなかった。
これからはこの真っ直ぐな道を、どこまでもペーターと手を繋ぎ歩いていこう。
もう一度心にそう思って――俺はあることに気づき、苦笑するかわりにそっと息をもらした。思えば俺たちは手を繋いだことがない。これだけ長く一緒にいて毎日のように二人の時間を過ごしながら、今日まで俺たちは一度も手を繋いで歩いたことがない。
そのことに気づいて、俺は彼女と手を繋ごうと思った。……と、にわかに胸が鼓動を打ち始め、足が竦むような緊張に襲われた。
そうした自分が我ながらおかしかった。昨日、生まれたままの姿でひとつになったというのに、今さら何を緊張しているのだろう?
そんな自問とは裏腹に震える指をジーンズの脇に撫でつけ、ペーターに気づかれないようにこちらの手が空いていることを確認した。それからゆっくりとその指に自分の手を伸ばして――
道の先に小さな人影が立っているのを認めたのはそのときだった。
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