100 ある暑い日曜日の午後(2)

 反射的に目を戻して寝台の脇にある背中を認めた後、ゆっくりとまたその場所に視線を向けた。


 ……そこにはやはり彼女がいた。もう一人のペーターが身じろぎもせず、暗がりの中からじっとこちらを見つめていた。


「……」


 何も考えることができないまま、呆然とその姿を見守った。


 そんな俺にもう一人のペーターは表情を変えなかった。暗闇の中に浮かぶその顔は、何かを伝えたがっているように見えた。何かを言いたくて言えないでいるような、そのことで俺を責めているような――昨日まで毎日のように見続けた表情だった。


「どうしたんですか?」


 向かいの席に目を戻した。椅子を引いて腰かける彼女はどこか不思議そうな、けれどもさっきまでと同じ笑顔で俺を迎えた。


 俺が見つめていたに目を向けることもなく、次の一言を期待するように真っ直ぐ俺を見つめている。そんな彼女に――頭で考える前に自然とひとつの質問が口をついて出た。


「……何曜日だ?」


「え?」


「今日、何曜日?」


「日曜ですけど、それがどうかしましたか?」


「……どの日曜?」


「どの日曜って言われても……どうしたんですか? おかしな先輩ですね」


 そう言ってペーターは些細な行き違いを流すように笑った。けれども、俺は笑えなかった。


 ……何かとても大事なことを思い出しかけている気がした。今日は日曜日……そうだ、今日が日曜日だとしたら、当然、昨日は土曜日――


「……台風だったか?」


「はい?」


「昨日、台風は来てたか?」


「来てましたけど……」


「お前、外に出たか?」


「ここにいましたよ、ずっと。あんなひどい雨の中、外に出るわけないじゃないですか」


「……」


「と言うか、ずっと先輩と一緒にいたじゃないですか、私。……どうしちゃったんですか、先輩。何でそんなこと聞いてくるんですか?」


 そこで初めてペーターは本当に不思議そうな表情を浮かべ、気遣うようにじっと俺を見守った。


 そんな彼女から視線を逸らして、階段の暗がりに目を移した。何かを訴えるようにこちらを見つめるもう一人の彼女はまだそこにいた。


 視線を戻した。けれども向かいの席に座る彼女が俺の見つめていたに目を向けることは、やはりなかった。


 本気で心配してくれていることが疑いもない真っ直ぐな視線――それを受け止めて見つめ返した後、また自然に質問が口をついて出た。


「……舞台は?」


「え?」


「舞台はどうなった」


「舞台……。舞台って、何の舞台ですか?」


 いよいよ心配そうな顔で尋ね返してくるペーターに、返事ができなかった。


 それが何の舞台なのか……なぜ舞台などという言葉を口にしたのか、自分でもわからなかった。


 ただ、それがずっと心にかかっていた大事なことだったのだということだけはわかった。そしてもっとよく思い出さなければならないことなのだと、何の根拠もないままにそう確信した。


「舞台は舞台だ。確かにあったはずなんだ」


「だから聞いてるんじゃないですか。それはどんな舞台なんですか?」


「それは、俺にとって……いや、俺たちにとってすごく大事な舞台だ」


「そんなんじゃわかりません。ねえ先輩、いきなりどうしちゃったんですか?」


「……」


「大事な舞台って、何がそんなに大事なんですか? 私にもわかるようにちゃんと教えてください」


 細やかな気遣いそのものの声で告げられる質問に、俺は答えられなかった。自分の中に確かに存在するはずのその答えが、まるで記憶からそこだけ切り取られたようにどうしても出てこなかった。


 長い沈黙があった。その間、ペーターは俺をじっと見る視線をたがえず、言葉を返せないまませめてものことに俺も目を逸らさなかった。


 しばらくそうしていた後、ペーターはおもむろに席を立ち朝食の片付けを始めた。空いた皿とマグカップを器用に右手で持ち、左手でテーブルを拭きあげてから部屋を、階段を下りていった。


 当然、そこに立ち尽くしているもう一人のペーターと擦れ違ったが彼女は――彼女たちはお互い何の反応も示さなかった。


 食器を手にしたペーターは柱をよけるようにもう一人の彼女を避けて階段へ抜けた。そしてもう一人の彼女はさっきまでと同じ物言いたげな目でじっと俺を見つめ続けた。


「――ねえ先輩、お買い物に行きませんか?」


 階下から声が響いた。かすかな洗い物の音にまじって届けられるその声が誰のものか、一瞬わからなかった。


 その声にも微動だにしないもう一人の彼女をしばらく見つめていた後、時間遅れの反射のように「買い物?」と俺は問い返した。


「さっき言ったじゃないですか。コーヒーの豆がきれかけてるって」


「……ああ」


「それに、こんないいお天気ですし。いつまでもお部屋の中にいるのはもったいないですよ」


 時計の針に目をやると、もう十時をまわっていた。そうしていつの間にか部屋に充満していた暑気と、汗ばんだシャツの内側に気づいた。


 天を衝くまでになった蝉の声に耳を傾けながら、外に出ればよけいに暑くなるのではないかと思った。だが、夏の太陽にトタン屋根をあぶられた真昼のこの部屋の暑さは、誰でもないこの俺が一番よく知っている。


「ねえ、行きませんか?」


 少しれたようなその声に、蛇口をきゅっとひねる小さな音が続いた。


 そのまま出るつもりなのだろうか、ペーターはのぼって来ない。


 返事をしないまま窓の外に視線を移した。吸いこまれるような群青の空が鮮やかに目を射た。


 ……外に出るのも悪くないと思った。たしかにあいつの言う通り、こんな天気の日にいつまでも部屋の中にいるのはもったいないかも知れない。


 そう思って立ち上がり、気の抜けた洋楽を垂れ流しているラジオのスイッチを切った。その隣に置いてある財布をポケットに突っこみ、階段に向き直った。


 もう一人のペーターは表情を変えないまま、まだそこに立っていた。


 ……ふと、その唇が何かを告げようと開きかけた。だが、結局、何も告げないままその唇は閉じ、その代わりにさっきまでと同じ何かを訴えるような眼差しが、暗がりの中からまたじっと俺を見据えた。


「もう、行かないんですか?」


「……ああ、今行く」


 階段をのぼってくる声に、そう返事をした。


 それからさっき彼女がそうしたように何も言わずもう一人の彼女を擦り抜けて、慣れない目にベタ塗りの闇と化した暗い階段を下った。


◇ ◇ ◇


「――すみません」


 濃密なコーヒーの匂いに満ちた空間に俺の声が虚しく響いた。


 銘柄毎に豆を並べた棚とカウンターの他に何もない店内に半開きの扉から光が射しこみ、その戸に手をかけて立つペーターの影を黒々と床に落としていた。


 キャッシャーの隣には文鎮に押さえられた紙幣が手垢にまみれた偉人の肖像を覗かせている。施錠されていないことからしても休みでないことは間違いないように思える。けれども――


「すみません、いませんか?」


 二度、三度と呼びかけても店員が姿を見せる気配はなかった。配達か食事にでも出ているのだろうか……だがいくら寂れた商店街とはいえ、鍵もかけないで店を留守にするのは不用心にもほどがある。


 ここは客の希望を聞いて豆を量り売りする店なので代金を置いて出て行くというようなことはできない。閉まっているのならまだ諦めもつくが、どう見ても開いているこの状況では買えないで帰るのが残念な気もする。


「……駄目だ。いないよ」


 それでも最後に一回呼びかけたあと、ペーターに向き直り俺はそう言った。


 外からの眩しい逆光が彼女の表情を暗く隠していた。「少し待ってみますか?」と、その黒い顔が言った。その質問には答えず俺は彼女がノブを握った扉を抜け外に出ると、そのまま庇が作る短い日陰の中、漆喰の壁に背もたれて溜息をついた。


「どうします?」


「……待とう」


「そうですね。お店は開いてるみたいですし」


「そうだな」


 俺がそう返すとペーターは扉を挟んで反対側に、俺と同じように壁に背をもたれた。彼女に似つかわしくないその格好がおかしくてしばらく見つめていたが、やがてその目が不思議そうにこちらを見たところで前を向いた。


 正午に近い夏の陽射しの中に、見慣れた商店街の家並みが横たわっていた。


 その景色の中に人の気配はなかった。店を覗きこむ客の影はおろか、ただ通り過ぎてゆくだけの人の姿さえ、どこにも見えない。


 この潰れかけた商店街でも日曜日にこれだけ人がいないのは珍しかった。まるでにわかにもたらされた盛夏の暑気の中に街全体が微睡んでいるように見える。


 雲の切れ端がゆるやかに流れる他は動くものとてない風景に、ただ蝉の声だけが響いていた。そんな風景をしばらく眺めていたあと、俺はできるだけ頭をまわさないように目だけで隣を見た。


 壁に背もたれ、ぼんやりと景色を見る横顔があった。唇がうすく開かれたあどけないその横顔は、高校時代に部の仲間たちが評したように端整で可愛らしく、だがあの頃より大人びた面影に少女を卒業したばかりの、不安定で目を離すことができない強い色香を感じた。


 ただ、俺にとってそのあたりはもうどうでもよかった。隣でこうして無防備な表情を見せている彼女は綺麗とか可愛いとかを通り越して、俺にとってかけがえのないたった一人の人だった。


 その横顔を眺めながら、小屋を出るときに見たもののことを考えた。


 階段の薄暗がりからじっと俺を見つめていたもう一人の彼女――今もはっきりと残っているその訴えるような視線について、取り留めもなく考えた。


 ……結論は出なかった。彼女が俺に向けていた表情の意味はもちろん、がいったい何であったのかさえ、俺にはわからなかった。


 と、俺の視線に気づいたペーターがこちらに顔を向けた。恥ずかしがる素振りも見せず、濃い日陰の中に柔和な笑みを浮かべ無言で俺の視線を受けとめた。


 しばらくそうしていたあと、俺の方で目を逸らしてまた炎天の通りを見た。そうしなければ彼女は際限なくいつまでも俺を見つめている、それがわかったから。


 燦々と照りつける真昼の陽射しの下に、閑散とした商店街はどこか幻のように見えた。そんな情景を眺めるうち、俺が見たあのもう一人のペーターも幻だったのではないかという考えが浮かんだ。


 どれだけ待っても店員は戻って来なかった。そればかりかこの店にはもう俺たちのあとに誰も訪れない、そんな気さえした。


「――来ないな」


「そうですね」


「やっぱ休みだったのかも」


「どうなんでしょう。お店は開いてるみたいですけど」


「閉め忘れたんだろ。待ってたって誰も戻って来ない」


「そうですね。じゃあ、どうします?」


 そう言ってペーターは覗き込むようにこちらを見た。そこでようやく、自分が言外にここからの移動を提起してしまったことに気づいた。


 ……もっともこんな場所でいつまでも待ちぼうけを続けていても仕方ないし、第一どうしても今日必要な買い物というわけでもない。


 いずれにしても動く頃合いだと思った。ただ、何となくこのまま小屋に帰る気にはなれなかった。


「……暑くて疲れたか?」


「そんなことありません。平気です」


「なら、少し歩くか」


「あ、はい! ちょうどそうしたいと思ってたんです、私も」


 漆喰の壁に背もたれたままペーターはそう言うと、悪戯いたずらな少年のように歯を見せて破顔した。たぶんそれよりも冷めた笑みを浮かべながら俺は、また彼女の初めての顔を見たと思った。


 ……それとも、あるいはこれと同じ顔を俺は昨日までに何度も見ているのかも知れない。そんなことを思い、もう一度誰もいない店の様子を窺ったあと、束の間の居場所だった軒下の濃く狭い陰から出た。


 そうして俺たちは茹だるような陽射しの中を、行く先も決めないままゆっくりと歩いた。


 小屋を出て店まで歩いたときと同じように、急かさない限り普通の女の子と変わらないペーターの歩調に合わせゆっくり、ゆっくりと。


 夏を謳歌する蝉たちの声のまにまに、時々思い出したように短い会話を交わした。二言、三言で終わる内容のない会話。してもしなくてもいいような会話。どこにでもいる二人が何も考えずに交わすような、平凡でのっぺりした特に意味のない会話。


 周囲を流れてゆく夏景色のように、その会話はどこまでも自然だった。つき合い始めたばかりの二人にありがちな気負いやぎこちなさは、今の俺たちの間には欠片かけらもなかった。


 ただ、それもそのはずだった。これまでも俺たちは毎日のようにこうして同じ時間を過ごしてきたのだ。その間ずっと掛け違っていたボタンが正しく留め直された――それだけのことなのだ。


「いい天気ですね」


「ああ。けどちょっと暑すぎだ」


「それは、もう夏ですから」


「そうだな。もう夏だけど」


 そんな俺たちの会話に頷くように、蝉の声が一段と高くなった。濛々もうもうと溢れかえるその喧騒のただ中に、午後の街は時が止まったような静けさに満ちていた。


 相変わらず通りには人の姿がなかった。額に滲む汗をそのままに歩き続け、住宅の合間を縫う狭い小路に差しかかったところで、不意にペーターが声をあげた。


「あ、猫」


「ん?」


「いたの見ました?」


「見てない。どこ?」


「もういなくなっちゃいました。あの垣根から顔を出してたんです」


 そう言ってペーターは生け垣の根本を指差した。丁寧に刈り込まれた濃緑の茂みの下には、彼女の言う通り猫一匹がくぐり抜けられるほどの穴がぽっかりと口を開けていた。


「可愛い黒猫だったんです」


「ならいなくなってよかっただろ」


「どうしてですか?」


「目の前を横切られでもしたら縁起が悪い」


「そんなの迷信ですよ。触りたかったのに」


 あまり残念でもなさそうな表情のまま、声だけは少し拗ねたように彼女はそう言った。


 笑ってそれを受け流したあと――何とも言えない奇妙な感覚が不意に胸の奥に衝きあげてくるのを覚えた。同じことが。これと同じ場面を俺は過去に経験している。


 あれは確か――


「……」


 その時のことを思い出そうとして――だがその追憶はすぐに立ち消えた。そんなことはどうでもいい、と頭の中で語りかけてくる声があった。


 何かを忘れている気がする……いや、俺は確実に何か大事なことを忘れている。


 何かしなければならないことを。決して忘れてはならないそのを。


「出てきませんね」


「……?」


「このおうちの猫だったのかなあ。しばらく出てこないかも知れませんよ、だったら」


「……ああ」


「出てくるまで待ってますか?」


「そこまでして見たくない。前、横切られたら縁起悪いし」


「だから、そんなの迷信ですって」


 少し呆れたような声でそう言ったあと、俺が動くより先にペーターは歩き始めた。だがそれほど進まずに足を止め、俺が歩き出すのを待ってまたゆっくりと歩き始める。


 これまで意識しなかったそれは、たぶん今日までずっと彼女が続けてきた俺と並んで歩くための手段で――けれどもまたひとつ目にすることができた彼女の初めての顔は、さっきまでのようには俺の心に映らなかった。


 代わりに俺の心を埋め尽くしたのはだった。自分が忘れている何か……決して忘れてはならない何か。


 そのを――そう、俺はあの朝食の席で一度は思い出した。買い物に行こうというペーターの提案に乗って小屋を出る前に、階段をあがった暗がりからこちらを見つめる訴えるような眼差しを目の当たりにした、その直後に――

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