099 ある暑い日曜日の午後(1)

 ――目が覚めたとき、俺は自分の部屋にいた。


 汗ばんだ裸にジーンズを履いただけの格好で寝台に横たわり、窓からの光を受けて浮遊する埃をぼんやりと眺めていた。


 壁の向こうからは盛大な蝉の合唱が聞こえた。時計に目を遣るとあともう少しで七時をまわるところだった。


 ブランケットをはね除けた半裸の身体にも、部屋の中はもう充分に蒸し暑かった。起き抜けの鈍い気怠さの中に、長い夢から覚めたような感覚があった。


 何かひどく長い夢を見ていた気がする。そう、とても夢とは思えないような長い長い夢を……。


「まだ寝てていいですよ」


 ふと、芳しいコーヒーの香りが鼻をくすぐった。寝台に身を起こして香りのする方を見るのと、その声がかけられるのが同時だった。


 新鮮な朝の光の中、甲斐甲斐しく立ち働くペーターの姿があった。ぼんやりと眺める俺に……何だろう、いつになくはにかんだ笑みを向けたあと、その視線から逃れるように彼女はテーブルから離れた。


「まだ寝てて下さい。コーヒー淹れるのにもう少し時間かかりますから」


 視界に入らない部屋の隅から来るその台詞にもどこかよそよそしい、いつもの彼女の声とは違う響きがあった。その理由に思いを巡らせて――俺はようやく昨夜のことを思い出した。


 青い闇の中、言葉もなく互いを求め合ったこと、今も五感に残るそのすべてを生々しく思い出した。


 ……そう、この朝を迎える前に俺たちはひとつになった。そしてこれが俺たちにとって、恋人として二人で迎える初めての朝だ。


「あ、まだ寝てていいですってば」


 そんな彼女の声に構わず俺は寝台を降り、脱ぎ捨てられていたシャツを拾い上げて袖を通した。寝癖だらけの髪を撫でつけながら食卓に向かうと、テーブルの上にはささやかながら手の込んだ幾つもの皿が並んでいた。


 切り口にハムとレタスが覗くサンドイッチに、バターの匂いが芳しいスクランブルエッグ。それから小さなのついた見慣れない硝子の鉢に、ヨーグルトをあえた輪切りのキウイが盛られている。


「これ、持ってきたのか?」


「え?」


「このヨーグルトの鉢だよ。うちになかっただろ、こんなうつわ


「ありましたよ。戸棚の奥に」


「戸棚?」


「はい、流しの横の戸棚です」


「ああ……あの戸棚か」


「はい、あの中にありました」


「こんなもん入ってたのか、あの中に」


 そのガラス鉢を眺めながら感心して俺は呟いた。


 ペーターがそれを持ち出したという戸棚は、死んだ爺さんの遺品を収めたままにしてあった古い厨子ずしで、俺がここに住み始めて以来まともに開いたこともない場所だった。


 あの埃臭い仏壇のような棚の奥に、こんな小綺麗な食器が埋もれていたとは知らなかった。そこからペーターがこの鉢を発掘したということは、彼女が俺に勝手であちこち家捜ししていたという事実を物語っていたが、今さらそれを咎め立てする気持ちはわいてこなかった。


「はい、コーヒー入りましたよ」


「ん……」


「ブラックでいいですか? 先輩はいつもブラックですよね」


「ああ、ブラックでいい」


「そういえば豆がなくなりかけてました」


「そうだったか?」


「はい。そろそろ買いに行かないといけませんね」


 背にした窓からの陽射しを受けて、淹れたてのコーヒーを注ぐペーターの髪の、その一本一本がまるで金の糸のように眩しく輝いて見えた。


 瑞々しい朝の景色の中に、瑞々しいペーターの姿があった。


 目に映る彼女は俺のよく知る、毎日のように見続けた彼女だった。けれどもその彼女は昨日までとは違う、俺の知らない別の彼女だった。


 コーヒーを注いだマグカップをわざわざ隣まで来て俺の前に置き、それから向かいの椅子を引いてペーターはテーブルについた。目を伏せて「いただきます」と口にする彼女に俺も普段はしないその挨拶を口ごもり、どちらからともなく朝食をとり始めた。


 会話はなく、食べ物を咀嚼そしゃくする音だけが一頻り響いた。かちゃかちゃと鳴る食器の音、そして薄い壁越しに浸入してくる陽の下の蝉の声と。


 ハムとレタスのサンドイッチはかすかにマスタードが利いていて美味しかった。ふわっとした半熟のスクランブルエッグも文句のつけようがない出来で、改めてペーターの料理の腕に感嘆する思いだった。


 考えてみれば冷蔵庫にあるありあわせのもので、いつもまともな食事を用意するのが彼女だった。これまで気にも留めなかったそれはペーターの隠れた特技で、その料理を俺が不味いと感じたことは今まで一度もない。


 そんな感想を伝えることもなく、ただ黙って食事を続けた。……と、いつの間にいていたのかラジオから流れる音楽が耳に届いた。


 どこの国の誰が歌っているともわからない、けれども日曜の朝にぴったりの微睡むような洋楽だった。そんな歌を聴きながら部屋の隅に置かれたラジオを何気なく眺めるうち――何かを思い出しかけている自分に気づいた。


 だがそれについて深く考え出す前に、向かいから穏やかなペーターの声がかかった。


「美味しいですか?」


「ん?」


「美味しいですか、って聞いてるんです」


「……まあな」


「もっとちゃんと言ってください」


「美味しいよ」


「よかった。いつもより気持ちをこめて作ったんです」


「……と言うか、お前の料理を不味いと思ったことなんて一度もないよ」


「そうですか?」


「お前の作る料理は、いつだって美味しい」


「なら、ちゃんと言葉にしてください」


「……ん」


「そうしてくれたら私も張り切って、もっともっと美味しい料理を作りますから」


 そう言ってはにかんだ笑顔を見せる彼女から思わず目を逸らし、必要もない胡椒の瓶に手を伸ばした。


 素直なペーターの言葉にうまく返事ができず、その顔を直視することさえ勇気が要った。てらいなく真っ直ぐな感情を向けてくるペーターは何とも言えず可愛かった。


 そんな彼女の前で黙りこんだ俺を冷やかすように、外からの蝉の声が一段と高くなった。


 そういえば長かった梅雨が明け、夏が始まったのだった。憂鬱な霖雨ながあめに別れを告げ新しい季節を迎えるのに、今日という日はいかにも相応しいように思えた。


 長年に渡るすれ違いの日々は昨日で終止符を打った。そしてこれが俺たちにとって、恋人として迎える初めての朝なのだ。


 会話が途絶えたまま、しばらく無言で食事を続けた。だが俺の心象にその沈黙は決して苦痛ではなく、むしろ心地よくさえあった。


 それと同じ気持ちを同じように彼女が感じていること、言葉を交わさなくても心が通じ合っていることを、眩い陽の光に溢れる静謐な食卓に思った。


 この沈黙が永遠に続くとしても、それで構わなかった。けれどもその調和をあえて乱すように、小さな声でそっとペーターが囁いた。


「まだ残ってますよ」


「ん?」


「先輩がお腹の中にいる感じが、まだ残ってます」


「っ! ……お前な」


「えへへ……」


 熱っぽく潤んだ目をこちらに向けたまま少し俯き、恥ずかしさの中に挑発するような表情でペーターは一頻り笑った。今度こそ俺はその顔をまともに見ることができず、視線を明後日の方向に逸らさずにはいられなかった。


 自分の頬に血がのぼり、赤く染まってゆくのがはっきりとわかった。そんな俺に追い打ちをかけるように「ねえ、先輩」と、甘やかな声でペーターは続けた。


「名前で呼んでもいいですか?」


「……名前?」


「コードじゃなくて、本当の名前ってことです」


「ああ……その名前か」


「こういうふうになったんだから、ちゃんと名前で呼び合いたいんです」


「……」


「そういうわけですから、先輩。これから先輩のこと、***って名前で呼んでいいですか?」


「……?」


 さすがに気恥ずかしそうな表情で告げるペーターを前に、俺は耳を疑った。内容に問題があったわけではない、ただ聞こえなかったのだ。


 一瞬、頭の奥に雑音が響いて彼女の声を掻き消した。ゆっくりと形を変える唇によって紡がれた俺の名前――ヒステリカのコードではない本名――それだけが欠け落ちたように会話の中から消えていた。


 ……何が起こったのかわからなかった。質問を口にしたペーターは何事もなかったようにはにかんだ笑顔をこちらに向けている。


 突然のことに混乱を覚えながら、それでも彼女が何を聞きたがっているのかはわかった。期待のこもった目でじっとこちらを見つめる恋人を前に、その返事を遅らせてはならないことも。


「私のこともそうして下さい。高校の頃みたいに名字じゃなくて、***って呼び捨てにして欲しいんです」


 また雑音が脳裏に響き、その名前が耳に届くのを邪魔した。今度は彼女自身の名前――高校時代、毎日のように呼んでいた名字に続く下の名前が、数秒前の俺の名前と同じようにそこだけ塗りつぶされた。


 ペーターの背中に隠れるようにラジオの姿が見えた。さっきまでと何も変わらず、どこの国のものかわからない穏やかな洋楽を奏で続けるラジオ。


 ……雑音を響かせたのはそのラジオではない。それに彼女の表情からも、耳障りな音が会話を阻害した反応らしきものは確認できない。


 その雑音が俺の頭の中だけに響いたものであることを思った。そうして俺は、その雑音が掻き消したもの――彼女の名字に続く下の名前も、自身の名前さえも思い出すことのできない自分に気づいた。


 そう……俺は彼女の名前も、自分自身の名前も思い出すことができなかった。愕然として目の前に座る人の顔を見た。だがそんな俺にペーターはどこか恥ずかしそうな、こちらを困らせて楽しむような表情を変えなかった。


 そこで初めて、自分のが彼女の目にどう映っているのか理解した。同時にこうして返事を遅らせていることが、彼女の中でどういった意味を持つのかということも。


「……そのへんはゆっくりでいいだろ」


 どうにかそれだけ言ったあと、逃げるように彼女から目を逸らした。だが期せずしてそんな俺の仕草に、「どうしてですか?」と畳みかけるようにペーターの声がかかった。


 その声の中に、俺の態度を訝しむような響きはなかった。ただわかりきったことを言わせようとするのいじわると、昨日まではなかった俺への手放しの甘えだけがあった。


 混乱はまだ消えなかった。けれどもその理解をもって俺は立ち直り、彼女に視線を戻しての演技に戻った。


「言わなくてもわかるだろ、そんなの」


「わからないから聞いてるんです」


「昨日の今日でそんなのは無理だ」


「どうして無理なんですか? ちゃんと理由を聞かせてください」


「だから……恥ずかしいだろ」


「昨日あんな恥ずかしいことしたのにですか?」


「っ! だからお前――」


「私は何も恥ずかしくないです」


「……」


「もう何も恥ずかしいことなんてないです。だって、私はもう先輩のものになっちゃったんですから」


 俺の台詞を遮ってそれだけ言うと、ペーターはこちらに目を向けたまま自分の言葉を恥ずかしがるように俯き、上目遣いに照れ笑いした。


 その表情に俺は我を忘れ、折からの混乱さえもきれいに忘れた。それほどまでに俺に向けられたそのペーターの顔は可愛かった。


 心臓を掴まれたような思いで呆然と見つめる俺に、彼女はその反則的な表情のまま「幸せですか?」と訊ねてきた。


「え?」


「先輩は今、幸せですか?」


「……幸せだよ」


「本当ですか?」


「本当に幸せだ。多分お前に負けないくらい」


「それはないですね。絶対に私の方が上です」


「……わかるかよ、そんなの」


「わかります。だって私にとって、今日が人生で一番幸せなんです。今すぐ死んじゃってもいいです。そのくらい幸せなんです、私」


 その言葉通りの表情をこちらに向け、何でもないことを告げるようにペーターは言った。


 そこには媚びも駆け引きもなく、ただ混じりけのない本心だけがあった。目に映る彼女は昨日までとは違う、俺の知らない別の彼女だった。そしてその彼女はたぶん、これから毎日のように眺めることになる彼女だった。


 言葉をなくした俺を、そのままの表情でペーターはじっと見つめた。負けないように俺も、そんな彼女をじっと見つめ返した。


 どれほどそうしていたのだろう、その時間を終わらせたのはペーターだった。不意に何とも言えない微妙な顔をしたかと思えば、咄嗟に口に手をあてて小さくひとつくしゃみをした。


「……ごめんなさい」


 思わず笑ってしまった俺に申し訳なさそうな声でペーターはそう言った。


「いいけど、風邪か?」


 俺の言葉を最後まで聞かずに席を立ち、寝台に置いてあるティッシュを取りにこちらへ背を向けた。


「風邪じゃないです。光があたって眩しいんです、その椅子に座ってると」


「眩しい?」


「はい。眩しいとくしゃみが出るんです、私」


「ああ……そういや言ってたな、そんなこと」


 遠慮がちに鼻をかむペーターの背中を眺めながら、そのときのことを思い出した。


 夕暮れの『庭園』であの奇妙な事件に遭遇した後、初めて彼女の部屋で一夜を過ごした、その朝のことだった。


 つい数日前の出来事なのに、何だか遠い昔の思い出のように感じた。こうしてまた二人で朝を迎えることなど、あの時は思いもしなかった――ぼんやりそんなことを考えてペーターから視線を外し、何気なく部屋の隅に目を移した。


「――」


 ――階段に続く柱の陰、部屋の出口の暗がりに立つペーターと目が合った。

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