098 消えかけた光の中で(10)
夜。
眠りに就いたペーターの隣に、彼女と抱き合っていたときのまま服を着ることもなく背中をまるめて座っていた。
天井の破れ目にさしかかった月明かりの下に、初めての行為の証である赤と白との混じったものが寝台の上に残っていた。
余韻はもうなかった。ただ自分に与えられた役目をすべて果たし終えたような、立ち上がることができないほどの虚脱だけがあった。
同じように何も着けないまま眠ってしまったペーターの身体は、俺がかけた毛布で肩先まで隠されている。その毛布が穏やかに上下しているのを見て、彼女がまだ生きていることを確認する。
とっくに限界を超え、会話すらままならなかった彼女がなぜあれほど激しく俺を求めてきたのか。その求めに応えて俺が彼女にしたことは正しかったのか。
――なぜ俺はあの町に帰ることができなかったのだろう。
何度も繰り返してきたあの町に戻るための儀式。これまで確かに俺をあちら側へ送り届けてくれたその儀式が、今回に限ってうまくいかなかった。
いや……きっと今回だけではない。あの儀式によって俺はもう二度とあの町に帰れない。はっきりとそれがわかる。
この先、どれだけペーターと唇を合わせたところで、俺が自分の存在をあの町に見いだすことはない。それだけはわかる。何もかもわからない中で、ただそれだけが疑いもなく確信をもってわかる……。
はじめからそんな方法であの町に戻れるなどありえなかった。今はそんな思いがべっとりと心に染みついて取れない。
信じられなかったことがいつの間にか信じられるようになり、それがまた元通り信じられないことに戻った。……それだけのことだと思った。なぜそうなってしまったのかわからない……そんなことが俺にわかるはずもない。
『あの方を愛しているという、その言葉に嘘偽りがなければ、その方法で元の世界へ戻れるはずです』
あの時のウルスラの声が耳元で静かに囁いた。
……あいつを思う俺の気持ちは何も変わっていない。そればかりか二人きりで過ごしたこの数日の間にその思いはいっそう強くなり、自分でもどうにもならないまでに膨れあがった。そして今日、初めて身体を合わせたことでそれは決定的なものになった。
俺はもうこいつなしでは生きられない。明日の朝に目覚めてペーターが息をしていなかったら、俺はすぐさまそのあとを追う。こいつがどんな理由でどんな結末を選択したとしても、俺はそれに最後までつき合う。
……それは、俺が彼女を愛しているということとはまた違うということなのだろうか。
傍らで寝息を立てる少女に向き直り、身を屈めてもう一度口づけてみた。温かい吐息を感じながら唇を離して、彼女の寝顔を見つめている自分を月明かりの廃墟に確認した。
……やはり、あの町に戻ることはできなかった。そう思って寝台に仰向けに横たわり、天井に覗く月影を見上げた。
ペーターにキスをしても、俺はもうあちらへは行けない。俺はもう二度と、あの町に戻ることはできない……。
わけがわからないまま始まったこの舞台は、最後までわけがわからないまま幕を閉じようとしている。諦めの中でそんなことを思い……けれども、もうそれでいいような気がした。
思えばこのわけのわからない舞台に俺たちは長居し過ぎた。もういい加減、終わってくれてもいい。
最後まで演じきることができなかった役に、もう未練はない。そう、演じきることはできなかったが、俺がここで果たすべき役はもうすべてきれいに果たし終えたのだ――
「……」
――けれども、やはり俺はまだこの舞台から降りることはできない。
俺が果たさなければならない役――ここにはもう残されていないそれが、あの町にはある。
あの夕映えの商店街で模型屋の老人と交わした約束を、俺は守らなければならない。
高架橋の下でオハラさんに手渡すことができた皺だらけのチケット。それを持って観に来てくれるたった一人の観客のために俺は――俺たちは日曜にできなかった舞台をあのホールにやり直さなければならない。
挫けかけていた気持ちが奮い立つのを覚え、俺はまた寝台に身体を起こした。
あいつがやり直そうと言った舞台、それを現実のものとするために俺はどうしてもあの町へ戻らなければならない。何が何でも……たとえ何と引き換えにしてでも。
だがどうやってあの町に戻ればいいか、その方法がわからない。
こちらとあちらの間にある壁を飛び越えるための簡単な儀式――これまで当たり前のように使ってきた奇跡のような方法は、今日限り起こりえない本物の奇跡になった。
そうして俺は改めてあの町に戻る方法を考え始めた。
これまでの方法が失われたのならば、俺は別の方法であの町に戻らなければならない。誰にでもわかる、それがシンプルな結論だった。その事実を受け容れたあと、俺は必死になってその方法――あの町に戻るための新しい方法を探し続けた。
どれだけ考えたところで新しい方法など見つかるはずがない、そんな声が聞こえても俺は考えるのを止めなかった。
……と、不意に寒気を感じ、思わず身震いした。
そういえばこの冷え切った砂漠の夜に、俺はまだ裸のままでいた。今さらのように気づいて寝台を降り、その脇に脱ぎ捨てられていた服を下着から身に着けていった。
「……ん?」
ジーンズを履き終え、最後にシャツを取り上げたところで、その下に何か黒いものが落ちていることに気づいた。
……顔を近づけて見れば、それは拳銃だった。S&Wの刻印が入ったリボルバー。今朝ウルスラから再び手渡された、弾なしで撃てるあの奇妙なピースメイカーだった。
「……」
シャツのボタンを留めたあと、その拳銃を手に取って月明かりに眺めた。
思い返せばあの舞台前から続く不可思議な日々の中で、常に俺につきまとった因縁の小道具だった。何度も俺の手を離れ、だがその度に俺の元に戻ってきた銃……。あのホールで隊長に渡された一回を除けば、あとはすべてウルスラがこの銃を俺の手に握らせてくれた。
舞台前のあの日、庭園でぐちゃぐちゃの頭を抱え
ここへ来て二日目の午後、わけがわからない状況にくたびれかけていた俺に、招かれざる訪問者を撃てと言って彼女はこの銃を手渡してくれた。
そして今朝、生死の境をさまようようにして降り立ったこの窓の下で、一刻も早くこいつを撃て――そう言ってウルスラはこの銃を手渡してくれた。
なぜウルスラがそんなことを言ったのかわからない。それがこの銃であいつを撃ち殺せということなのか、あるいは何か別の意味があるのか……それさえもはっきりしない。
こちらへ来てから一度も俺はこの銃の引き金を引いていない。この銃を何かに向け撃ったらどうなるのか……そもそも本当に弾なしで撃つことができるのか、そのあたりからして俺には実際のところどうなのか憶測で考えることしかできない。
「……」
ただどちらにしても、俺にそんなことはできない。この銃をあいつに向けるなど、そんなことが俺にできるはずもない。
彼女にこの銃を向けるくらいなら、俺はこれを自分自身に向ける。
もし明日の朝彼女が目覚めなかったなら、俺はきっとてっとり早く後を追うためにまず一番にこの銃を自分の頭に向け、あの時のように引き金を引いてみる――
「あ――」
そう思いながら拳銃を床に戻そうとしたところで、天啓のような考えが脳裏に浮かんだ。
向こうからこちらへはそれで来られた……ならばこちらから向こうへもそれで行けるのではないか、と。
……もちろん不確かな憶測でしかなかった。そんなことをしたところであの町に戻れる保証などどこにもなかった。
だがその方法であの町に戻れるかどうか、実際にやってみなければそれを確かめることはできないと思った。
「……」
ただ、それは危険な賭けだった。
この廃墟で初めて会ったあの日、この銃で敵から身を守れと言ってウルスラはこれを俺にくれた。それはこの銃が敵から身を守るだけの力――おそらくは銃本来の攻撃力を持っているということを示唆している。
弾は入っていない。けれどもあの庭園で木の葉を散らした銃撃を覚えている。こちらとあちらでは世界が違う。だが様々な情報を総合すれば、この引き金を引いたとき起きることはあちらと同じと考えていいのかも知れない。
「……」
……危険な賭けであることは間違いなかった。と言うより、ほとんど狂気の沙汰に近い。
もしこれが弾なしで撃てる普通の銃だとしたら、引き金を引いた直後、俺の頭蓋の中身はこの寝台の上にぶち撒けられる。そして明日の朝、目を覚ましたこいつは、自分の隣に頭が半分吹き飛んだ俺の死体を発見することになる。
そのとき彼女が何を思うかまではわからない。……だがもしこいつが俺と同じ気持ちでいるなら、彼女の死を認めた俺がすることと同じことを、そこでこいつはすることになるのかも知れない。
「……いいのか」
深刻な方向に行きかけた想像は、だが思いがけずそんな結論に達した。
明日の朝、ペーターが目を覚まさなければ俺は彼女のあとを追う。だとしたらその逆のことを彼女がやるのに何の問題があるのだろう?
自分でも驚くほど無責任で投げやりなその結論は、反面、最も前向きで建設的な考えである気もした。
確かだと思えるものなど、ここにはもう何もない。だから俺は不確かな根拠のない憶測に安っぽくこの
たとえ何と引き換えにしてでも俺はあの町に戻らなければならない。それがすべてだった。
恐怖はなかった。代わりに一刻も早くあの町へ戻らなければならないという衝動が俺を急き立てた。その衝動を抑えて銃を右手に持ち直し、引き金に指をかけて銃口をこめかみにあてた。
「……」
月明かりの中にペーターの寝顔を見下ろした。
この引き金を引けばもう二度と会えなくなるかも知れない人。
長い長い回り道の果てに結ばれた人。
世界で一番大切な人。
取るに足りない俺の人生で巡り会えた最初で最後の、たった一人の人。
穏やかなその寝顔をいつまでも見ていたかった。けれども、もう行かなければならないと思った。
あどけない天使のような少女の顔を目に焼き付けながら、俺は優しくゆっくりと、愛おしむように引き金を絞った――
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