006 舞台という非日常へと向かう日常(3)
結局、リカのいないまま会議は始まった。
まずは隊長から渡された冊子を読む。舞台で想定されるシーンと、そこで必要とされる効果や転換が事細かに書かれた『虎の巻』だ。乾ききっていないインクの匂いが刷られて間もないことを物語っている。ペーターと別れてから向かった用事とはこのことに違いない。更に読み進めていくと愚者が小物として銃を使うシーンが書かれていた。俺たちが朝に試した「古典の大詰めみたいな」シーンも補足されている。
俺は思わず頭をあげ隊長を見た。だが細い銀縁の丸眼鏡の裏に、いつも通り悠然とした隊長の表情は動かなかった。
全員が読み終わったところで質疑応答が開始される。活字では伝わらない微妙なタイミング、似通った場面での相違点、どうしても外せない決め球の演出。そうしたものを掘り下げ確認することで、役者と裏方の間にある溝を埋めていく。ときには俺たちが実際に演技さえしてみせる。即興という舞台の形式上、我々の公演にはこうした事前交渉が不可欠なのである。
キリコさんの手前にはMDが置かれている。会議の一部始終を録音しているのだ。あとで聞き直し、争点をまとめて本番に役立てるのが主な使い道だが、欠員が出たときのフォローという意味合いもある。この場に居合わせるのと録音を聞くのとでは理解の深さに差が出てくるが、それでも大枠は掴むことができる。それに今回、衣装の転換はほとんどないから、リカの仕事は俺たちを舞台に送りだした時点でほぼ終わる。ここにいないからといってそれほど大きな問題ではない。
最も重要なのはオペレーションと音響である。たとえば銃のトリガーを引くシーン。「ぶしゅっ」というガスの音と派手な銃声が少しでもずれて聞こえてはならない。緊迫した場面でその手の失敗があったら全てを壊しかねない。つまり公演の正否を握るのは効果を一手に引き受けるDJなのであり、普段はとぼけきったこの男の顔が、今日このときばかりは三分ほど継続して引き締まっている様子が見られる。
「――ということは、この兵隊が独白するとこでの照明は三番のサスでいいんだな?」
「ハイジ君の意見はどうかね?」
「それでいいと思う。スポットだと浮いて見える気がするし」
「ではそのようにお願いしたい。ここは三番のサスで」
「はいよ。で、あとは……と」
ふとDJが入口の方に目を向け、そのまま動きを止めた。DJに注目していた一同は彼に倣いそちらを見た。そして同じように動きを止めた。
艶やかな着物に身を包んだ少女がそこに立っていた。気品溢れる黒髪の、はっと息を呑むほど綺麗な人だった。彼女は誰かを探すように一頻り談話室を見まわし、こちらに気づくと真っ直ぐに歩み寄ってきた。
「……またこんなところで油を売っていたんですか」
少女は我々の目の前で立ち止まりそう告げた。端正な眉の間に皺を寄せた表情からは苛立ちが読みとれる。
「ここへは来るなと言ってあっただろう」
一同の視線が光の速さで集まった。少女の言葉に応えた口は――あろうことか隊長のものだった。
「申し訳ありません。ですが急を要する御報告が、お兄様のことで」
「もう終わるから待っていたまえ」
「それでは間に合いません。すぐにでも来ていただかないと」
「わからないか。これは大切な会議なのだ」
隊長はそう言って少女を睨んだ。沈着冷静な隊長にしては珍しく険しい表情だった。この人がこんな顔をするのを見たのは初めてかも知れない。だが逆に言えば、少女の報告は隊長にそんな表情をつくらせるほど深刻なものということなのだろう。
「それ、長くかかるの?」
少女はこちらに目を移した。そのままじっと俺を見つめてくる瞳の色は、光の加減か紫がかった藍色に見えた。
「長くはかかりません。十五分もあれば」
「なら行ってきなよ、隊長。その間は俺が仕切っておくからさ」
今度は隊長がじっと俺を見つめてきた。だがすぐに席を立つと、「済まないが任せた」と言い残し、少女とともにほとんど駆け足で談話室を出ていった。後ろ手に扉を閉めようとしながら、少女が一度だけこちらを振り返るのが見えた。
……まるで竜巻のようだった。そんな感慨から覚めた俺を、仲間たちの熱い注目が迎えた。俺は「おほん」と一つ咳払いをして、隊長の冊子とチェック用のペンを手にとった。
「はい。次のシーンだけど――」
◇ ◇ ◇
二十分後に隊長が戻ってきたときにはもう、会議はあらかた片づいていた。隊長が出ていった時点で確認すべきシーンはほとんど残っていなかったから、不慣れな俺のまとめでも滞りなくいったのだ。隊長は俺がメモを書きつけたページにしばらく目を走らせたあと、おもむろに頭をあげて一同を見まわした。
「ではこれで今日の会議を締めるとしよう」
「最後に確認とかしなくていいの?」
そんな俺の問いかけに隊長はうっすらと満足そうな笑みを浮かべた。
「どうやらそれも怠りなくハイジ君がやってくれたようだ。私からは何もない。次に集まってもらうのは五日後の土曜日、つまりはリハーサルの日ということになる。では本日は散会」
「はい」
隊長の宣言に全員が歯切れのいい返事で応え、それで会議はお開きになった。
「ところで隊長陛下」
「ん?」
「あの麗しき姫君とは、いったいどういう御関係なんで?」
会議が終わるのを待ちかねたかのようにDJが質問を口にした。既に席を立ちかけていた者も動きを止める。――そう、それは是非とも聞いておきたいところではある。見目かたちから考えるに、まず血縁はありえない。となると信じられない話だが、あの少女はまさか……。
けれども隊長は何の躊躇いもなくぶっきらぼうに「妹だ」と答えた。
一瞬、座が水を打ったように静まりかえり、次いで「ええ!」という驚きの声が誰からともなくあがった。
「初めて知りました。隊長、妹さんがいたんですね」
「あたしも知らなかったねえ。それにしたって着物なんぞ着てるもんだから、時代劇のロケでもやってるのかと思ったよ」
「習い事のときはいつもあの格好をしている」
「あれ晴れ着だろ? あんな着物でいったいどんなご立派な手習いなのさ?」
「それは秘密だ」
「用事ってのは何だったの? それなりに心配してたんだけど、俺」
「済まないがそれも秘密だ。訳あって身内のことはあまり話したくないのだ。このくらいにしておいてくれないか」
気恥ずかしいのだろうか、眉をへの字にして隊長は静かにそう告げた。それで俺たちは何も言えなくなってしまう。個人情報をみだりに詮索しないというのは『ヒステリカ』における暗黙の了解である。……しかしこれで謎の多い隊長にまた一つ大きな謎が加わることとなった。
「わかりました! もう何も聞きません。何も聞きませんが隊長! たった今からあなたのことを『お兄様』と呼ばせていただいて構わないでしょうか!」
「ふむ。では私はたった今から君のことを本名で呼ばせてもらうとしようか」
「……わかりました。自分の身には過ぎたお願いでした。隊長」
そう言うとDJはしょんぼりと萎れてしまった。実のところ俺は未だこの友人の本名を知らなかったりする。
「前から聞きたかったんだが、おまえ本名なんていうの?」
「聞くな!」
「あたしは知ってるよ。教えてやろうか?」
「言うな!」
「あ、それ知りたいです。教えてください」
「知ろうとするな!」
喚き散らすDJの向こうに、すっかり余裕を回復したいつもの隊長がいた。入団以来ずっと思い続けてきたことだが、この人のことだけはいつまで経ってもわからない……。
◇ ◇ ◇
「隊長」
裏方が帰ってしまったあと、隊長が口を開きかけたところでアイネの一言がそれを遮った。
「何かな?」
「リカから何も連絡入ってない?」
「私の方には何も入っていないな」
「ごめん。心配だからちょっと探しに行ってくる」
そう言うなり席を立ち、我々が止める間もなく談話室を出ていってしまった。
「……なんだ? あいつ」
「途中からどうも様子がおかしかったね、あの子。気づいてたかい?」
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1.たしかにおかしかった ☞ 第三幕へお進み下さい
2.一応、気づいてはいた ☞ 以下へお進みください
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アイネが出ていった扉をぼんやりと眺めながらキリコさんが呟いた。――それには気づいていた。会議の中盤あたりから妙にそわそわしだし、俺が進行を受け継いでからはほとんど上の空だった。隊長の妹騒ぎのとき一人だけ沈黙を保っていたのも彼女だ。一言かけようとしてできなかったのは、朝から尾を引くあのことが関わっているのかも知れないと思ったからだが、どうやら理由は別のところにあったようだ。
「これからの予定はどうなってるんだい?」
「時間があるようなら大道具を手伝ってもらおうと思っていた。だがそれは私一人でもどうにかなる作業だ」
「話が早いね。そういうことならあたしも行かせてもらうよ」
そう言ってキリコさんは腰を浮かせた。
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