008 インビジブル・バレット(1)

「――逃げた? 何だってまた逃げたりするんだい?」


「さあ。それはこっちが聞きたいくらい」


「そんなのばからしいじゃないか。次に会ったとき気まずい思いするのが目に見えてるだろ」


「まったくその通りなんだけど」


「土台、やる気がないってことかねえ。そういうことなら最初から――」


「いや、それは違うと思う。そんな無責任なやつじゃないし、ちゃんとやるようなこと昨日も言ってたから」


「ならおかしいじゃないか。どうしてあんたたちを見て逃げたりするんだい?」


「……それが、別に俺たちを見て逃げたってわけじゃなくて」


「? どういうことだい? そりゃ」


「何というか……逃げたことには違いないんだけど」


「随分とまた奥歯にものが挟まったような口振りだねえ。ひょっとして二人が野外でことに及んでいたとか、そういうオチかい?」


「まさか。そうじゃなくて――うまく説明できないけど、ただ追いかけても追いつけなかったって、それだけです」


「よくわからないね。第一、あそこらへんはハイジの庭みたいなもんじゃないか。地の利を活かせばどうにでも追いつめられただろうに」


「そのはずなんだけど、うまくいかなかったんですよ――不思議なことに」


「ふうん。でもまあ見つかったならそれでいいさ。大事がなくて何よりだよ」


「そうですね」


「あたしが夜遅くまで歩きまわったのは無駄になったけどね。歩きすぎたせいか腰のあたりが妙に痛むよ。何しろ午前二時までそこらを駆けまわってたからさ。誰のせいだったかねえ?」


「……すみませんでした」


「アイネちゃんにはきっちり電話いれといてあたしには何もなしってのはあれだね。何というかこう、愛の深さが知れるってもんだね」


「……それについては本当に反省してます」


「そうかい。ならその負い目は舞台で返してもらうとしようか。……さあいつまでも駄弁ってちゃいけない。続きにかかるよ」


「はい――」


◇ ◇ ◇


 舞台を五日後に控えての火曜日はいつものように朝練から始まった。今日が舞台前最後の休日ということになる。明日の水曜日に常会としては最後の練習があり、明後日の木曜日には団員だけで本番形式の通し稽古を行う。金曜日には舞台の仕込みをしなければならないし、土曜日には裏方つきのリハーサルが待っている。そして日曜日が晴れの舞台である。つまり休日というのは劇団に関する話で、大学の授業が休みというわけではない。もっとも俺はこれから舞台が終わるまで全ての授業を自主休講とすることを心に決めているので、今日は文字通り最後の休日なのである。


 そうした事情を踏まえてのことなのだろう。朝練の終わりに隊長は、「本日中における団員同士で集まっての練習の禁止」を告げた。今日という一日を各人が自分の演技を見つめ直す時間にしろということだ。その指令にペーターだけは反対の意見を口にしたが、俺たちが揃って了承しているのを知ると彼女も納得した様子だった。キリコさんは研究室に戻り、アイネとペーターは授業に向かった。隊長は交流会館に残って何か作業をすると言っていた。


 仲間たちと別れた俺は一人、『庭園』に足を運んだ。図書館の前に広がる学生憩いの場も、さすがにこの時間は人気が少ない。折りからの強い陽射しを避け、木陰のベンチに腰を落ち着けた。


 一限開始のチャイムが鳴りしばらくすると登校する学生の姿は視界に入らなくなった。火曜が休館である図書館の前にも人影はない。穏やかな風が吹き抜けていき、木洩れ日が地面に描く模様がそれに合わせ揺らいで見えた。自然の作り出す美しい光彩は、けれども俺の心に言葉にできない奇妙な感覚を呼び起こした。それはここ数日の間に迷いこみ、未だ出ることができないでいる感情の迷路だった。――今日一日の自由をくれるという隊長の言葉は、俺にとってありがたかった。明日からの忙しい日々を迎える前に、できればその迷路から抜けだしておきたい。それがこの平和な緑の中に足を運んだ理由だった。


「もう五日後だっていうのにな……まったく」


 舞台直前だというのに少しもそんな気分にならない。普通はこうじゃない。舞台前というのはもっとずっと切羽詰まった心境に陥るものだ。尊敬するある役者がその心境を「刑の執行を目前に控えた死刑囚の胸の内」に喩えていたが、実に的確な比喩だと思う。死刑台に登るまではただひたすらにそのことしか考えられない。そしてひとたび登ってしまえば一瞬で終わる。舞台に向かう心理とはそうあるべきだし、程度の差こそあれ必然的にそういう気持ちになってしまうものなのだ――普通ならば。


 こうしてベンチに腰かけていても、ふわふわと地に足が着かない感覚が続いている。見慣れたはずの風景がやけによそよそしく感じられる。頬を撫でていく穏やかな風にさえ現実感がない。……理由はわかっている。昨日リカたち二人を追いかけたときのおかしな体験だ。アイネには電話で適当に誤魔化したが、電話を切ってからも妖しい気持ちは抜けなかった。今朝キリコさんと話しているときもそのことばかり考えていた。……考えてみれば昨日の朝も同じような気持ちでいた。つけ加えれば一昨日のラジオもまだ尾を引いている。どうもここ二日ばかり狐につままれたような気分が続いている。舞台も近いというのに、こんなことでいいはずがない。


 だが面白いことに、今のところ演技に支障は出ていない。というか……むしろいつになく上手くいっている。例によって額を指で弾かれれば不可解な出来事は頭の中からきれいに消え去り、自然と『向こう側の世界』に入ることができているように思う。その証拠にさっきの朝練でも、相方だったキリコさんから幾つかお褒めの言葉をいただいた。「演技のことで頭がいっぱいだと逆にいい演技はできない」というのは使い古された格言だが、どうやらそこにはある種の真実が含まれているようだ。あるいは変に気負いすぎないのが肝心ということなのかも知れない。


 ――それはまあいいとしても昨日の出来事が気にかかる。あれはいったい何だったのだろうか。微睡むような午後だった。初夏の陽射しに溢れる風のない路地裏に、恋人たちは幸せそうに笑っていた。ゆっくりと歩く二人に追いつこうとして、どれだけ走っても追いつけなかった。それだけのことだ。言葉にしてみれば単純だ。けれどもそんな単純なことが妙に生々しく頭にこびりついて離れない。そしてもう一つ。リカたちを見失ったあと、俺の周りに広がっていた風景のこと……。


 あれだけは今でも信じられない。まるでずっと一緒だった幼馴染みに裏切られたような思いだ。子供の頃から駆けまわっていた場所――憧憬の一部にさえなっている自分の庭。そこで俺はこともあろうに「迷子」になったのだ。もう久しく忘れていた、自分がどこに立っているのかわからない感覚をまざまざと思い出した。


 一から十まで知っていると確信していた世界には、まだ俺の知らない落とし穴のようなものがあって、俺はそこに落ちたまま今なお這いあがれないでいる。こうして朝の『庭園』で瑞々しい陽光を受けながらも、心はまだあの路地裏で、不安にも似た気持ちに揺れ動いている。あのとき俺は、白昼に幻を見ていたのだろうか。……いや、そのはずはない。あれが幻であったはずがない。なぜならあのとき俺の隣には、寄り添うようにして立つもう一人の迷子がいたのだから――


「先輩」


「ん?」


 声のした方に顔を向けるとそのもう一人の迷子の姿があった。ペーターは俺を確認すると、ゆっくりこちらに近づいてきた。

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