150 ダンスパートナー(1)
「――何回同じこと言わせりゃ気が済むんだい! そういうお上品な催しはね、嗜んでる方だけでやってくれってんだよ!」
「ですが、
……言い争うような声で目覚めた。
カーテンの向こう側でキリコさんともう一人の誰か――声からすると女性が、何か話している。わずかに開いたカーテンの隙間からは不機嫌そうなキリコさんが覗いている。その奥には、軍服の女性が困惑した表情で立ち尽くしているのが見える。
「だいたいだ! この際だから言っておくけどね、あんたは曲がりなりにも
「……承知しております。速やかに対策を講じる必要があります。ですがこの件は――」
言い争いではなく、一方的な会話だった。軍服の女性が要求する何かを、キリコさんが頑なに拒否しているようだ。
……そこでふと、なぜ俺がここで寝ているのだろう、と思った。たしか俺は、カーテンの外に
「評議会の決定だってんだろ? 何でもそれで片づけられちゃ堪ったもんじゃないね、こっちとしては! そのうち腰蓑つけてフラダンス踊れって言い出すんじゃないかい? それとも連中のボディビルコンテストの審査員でもやらされるのかい? 評議会の決定で!」
「
「ああ、もう帰った帰った! 帰ってあいつにこう言ってやっておくれ。『せっかくのお招き光栄ですが、当日の朝では致し方ございません。淑女には色々と準備がいるものです。次はせめて一週間前にお声をかけて下さいますように』ってね! 一語一句間違えるんじゃないよ、いいかい?」
「――了解いたしました。では、また
「
深々と一礼して女性は部屋を出ていった。その後ろ姿を見送ったあと、キリコさんは疲れたように腰に手を当ててしばらく動かなかったが、やがて大きく溜息をつき、カーテンの陰に入った。
こつこつと固い靴音が響き、「起きてんだろ」という声がそれに続いた。
「あ、はい。……済みません」
「どうして謝るんだい? あれだけ大声出してりゃ誰でも起きるよ」
「でも、何か盗み聞きしたみたいで……」
「盗み聞きする価値もない話さ。そんなことはあっちだってよくわかってる。……ったく、本当にくだらない話だよ。この朝から何の用かと思えば」
「いったい何の――」
言いかけたところで勢いよくカーテンが開いた。右手でカーテンを掴んだまま、どこか含むところのある微妙な表情でしばらく俺を見つめたあと、「顔洗っといで」とキリコさんは言った。
「え?」
「朝起きて顔も洗わない
「はい」
キリコさんの指示に従い、扉を出て顔を洗った。洗面所といっても小さなブリキの流しと蛇口、それに薄汚れた鏡があるだけで、まるで公衆便所のそれだった。
かかっていたタオルで顔を拭き――ほのかな残り香からそれがキリコさんの使ったものであることを思った。一瞬、手の動きが止まったが、結局そのまま最後まで拭いた。
「ちゃんと目、覚めたかい?」
「あ、はい」
部屋に戻るとテーブルの上に食事の準備が調っていた。ビスケットのようなシリアルにコーヒー、それにチーズ。中央に置かれた木の椀にはドライフルーツが盛られている。レーズン、イチジク……あとは何だろう。ちょっとした朝食だった。
「さ、突っ立ってないで」
キリコさんはそう言って対面の席に座るようにうながした。だがその前に、断っておかなければならないことがあった。
「その……洗面所のことなんですが」
「ん? 洗面所がどうかしたかい?」
「かかってたタオルで顔、拭いちゃって」
「? それのどこに問題があるんだい?」
「キリコさん――じゃなくて、
俺がそう言うとキリコさんは目をいっぱいに見開き、そのあと椅子から転げ落ちるような勢いでのけぞって笑い出した。
「あはははは、あはははは……」
キリコさんの哄笑はしばらく止まなかった。どこでどうスイッチが入ったのかわからず、釈然としないまま椅子を引き、座った。
俺が席についたのを見て、キリコさんはいったん笑いを堪えるような素振りを見せたが、堪えきれなかったらしく吹き出して、また盛大に笑いはじめた。
「……いい加減にしてください」
「あはははは、あはは……。ああ、ごめん。ごめんよ、ハイジ」
さすがに少し苛立ち、抗議の意味をこめて勝手に食べはじめた。だがそれでも治まる気配のない笑いにいい加減声をかけようとしたところでようやくキリコさんは笑い止んだ。眼鏡を上にずらし、ハンカチで涙を拭って、一仕事終えたようにほう、と溜息をついた。
「いいねえ、ハイジは」
「え?」
「いいって言ってんのさ。ハイジはいい、最高だね。
キリコさんはそう言ってじっとこちらを見た。それからふっ、と軽い笑みを浮かべてハンカチをしまい、木の椀からイチジクの乾果をとって、それを食べはじめた。
どこが笑いのつぼだったのか、結局わからず終いになった。それにしても、何だか昨日から似たようなことを繰り返している気がする……。
「誰だったんですか? さっきの
「ん?」
だいぶ食事が進んだところでその質問を切り出した。それまで黙ってコーヒーを飲んでいたキリコさんはちらりとこちらを見て、すぐに目をそらした。
答えたくないということなのだろうか。……そういえば昨日、道具になることの対価として情報を求めた俺に、それだけはあげられないとキリコさんは言っていた。
仕方なく、質問を撤回しようと口を開きかけた。「エツミ軍曹」と、素っ気ない声がかかった。
「え?」
「さっきの女だろ? あれはエツミ軍曹。ここの治安を守ってる
「表向きは、というと?」
「裏では違うってことさ。マリオってのがいただろ。昨日、図々しくあたしらに声かけてきたやつだよ」
「いました」
「あの女はマリオの飼い犬なんだよ。鬼軍曹ならぬ犬軍曹っていったとこだね」
「私兵みたいなものってことですか?」
「みたいなもの、じゃなくて、それそのものさ。マリオの命令なら何だってするし、逆にそれがなければ、あたしが殺されかけても指一本動かさないよ。もともとがあいつの縁故入所だから、それもまあ無理のない話だろうけどね」
「……それで、飼い犬ってことですか」
「ああそうさ。あと飼い犬ってのはそれだけじゃない、下世話な意味でもだ。できてる、って言やわかりやすいだろうけど、その表現だとちょっとニュアンスが違う。そっちの方でもマリオに絶対服従で、ケツの穴まで舐めてるってもっぱらの噂だよ。何から何まで言うこと聞くようによく飼い慣らされた、文字通りの忠犬なのさ」
つまらなそうにそう言ってキリコさんはコーヒーカップを口に運んだ。
俺の方ではもう、いっぺんに食欲が失せていた。いきなり、どうしようもなくぎとついた話だった。だがそんなぎとついた話でも、ようやくキリコさんの口から出たここの具体的な情報であることに間違いはない。
「でも……それっておかしくないですか?」
「ん?」
「エツミ軍曹はその、
「それがどうかしたのかい?」
「衛兵隊の指揮官がそういうのって、まずいんじゃないですか?」
「まずいね。衛兵隊まるごとマリオに握られてるってことだよ」
「……つまり、ここは完全にマリオ博士の支配下にあるってことですか?」
「ん? ああいや。実のとこ、そういうわけでもないんだ」
「と、言うと?」
「衛兵隊はあいつの支配下にあるけど、輸送関係はエリックってやつが握ってる。通信を仕切ってるのはまた別のやつだし、マリオはただ軍事権を握ってるってだけさ。つまり簡単に言っちまえば、ここで『博士』と呼ばれてる人間は、それぞれ別のとこに権限をもってお互いに牽制し合ってるんだよ」
「なるほど」
どこかで聞いたような話だと思った。知識産業に携わる閉鎖的な組織にはつきものの権力闘争。その典型がここにもあるということだ。
その組織の中にあって、この人は若い女だてらに堂々と渡り合っているのだろう。――なるほど、悪くないと思った。五里霧中だったこの劇の方向がほんの少し見えた気がした。
「
「ん?」
「
「あたしかい? あたしが握ってるのはね……」
そう言うとキリコさんは考えるような表情をつくり、コーヒーカップを口に運んだ。わずかにカップを傾けて、それをまたテーブルに戻し、「あとでね」と、こちらを見ずに言った。
「え?」
「あとで見せてあげるよ。話が早い、そっちの方が」
「……わかりました」
「いずれにしてもね、さっき言ったように衛兵隊がマリオの支配下にあるのはたしかだ。つまりここの軍事力は全部あいつが握ってるってことで、ドンパチだったらあいつの独壇場なんだよ」
「なるほど」
「新しい護衛なんていらないんだ。もともと衛兵隊がやってくれてる。……だから、わからないのさ。いったいどうしてだろうね。下手すりゃ自滅どころか、何もかもぶち壊しにするリスク冒してまであんなの引っ張り出してきたのは……」
それだけ言うとキリコさんは黙った。コーヒーカップに指をかけたままぼんやりとした目でそれを眺める。けれどもそのぼんやりした目は、キリコさんが真剣に考えているときの目だった。
ちょうど昨日もそれと同じ目をする彼女を見たことを思い出し――キリコさんが何について話しているのか、その対象に思い当たった。
「昨日の、あの子のことですか?」
「……」
「何なんですか? あの子は」
「……駄目だね」
「え?」
「そのあたりは教えてあげられない」
「……」
「駄目なんだ。ちょっとね」
「……はい、わかりました」
コーヒーカップを眺めながら独り言のように言うキリコさんに、それ以上は聞けなかった。
元々、情報は無しで
「ああ、そうだよ」
俺の心を読んだようにそう言うと、キリコさんはふっと表情を弛め、小さくひとつ溜息をついた。
「状況が変わったんだ。昨日は何の情報もやれないようなこと言ったけど、何の情報も無しにハイジが立ち回るのは難しい状況になった。入れるべき情報は入れとかないといけない。支障のない範囲内でね」
「……なるほど」
「だから、何でも聞いてくれていいんだよ。教える、教えないはあたしの方で判断するからさ。そうだね、むしろ聞いてくれた方が都合がいい。質問しておくれ。何かわからないことはあるかい?」
「わからないこと――」
そう呟いて思わず考えこんだ。聞きたいことは山ほどあるはずなのだが、いざそう言われると質問が出てこない。……わからないことが多すぎて何を聞けばいいのかさえわからないのだ。
それでも、せっかくキリコさんが質問を受けつけると言ってくれているのだからここで聞かない手はない。とりあえず、俺がいま一番聞きたいのは――
「……昨日、マリオ博士との話に出てきた名前なんですが」
「ん?」
「ジャックという人」
「……」
「その人のことが知りたいです」
俺がそう言うと、キリコさんはなぜか驚いたような目で俺を見た。だがすぐにその表情を消すと、今度は少し寂しそうな笑みを浮かべ、目を伏せた。
「……やっぱり、あいつのことが気になるんだね」
「え?」
「演劇をやってたんだっけね、あたしと。ジャックはそこでどんなことしてたんだい?」
「……」
一瞬、何を聞かれたのかわからなかった。だが少し考えて、それが『向こう側の世界』のことを言っているのだと理解した。俺が知っている
……すぐには答えられなかった。どう答えようか考えているうち、「ごめんよ」とキリコさんの声がかかった。
「え?」
「今はハイジの質問タイムだった。なのにあたしが質問してちゃしょうがない。わかったよ、ジャックのことだったね。ジャックというのは――」
そこで一度、キリコさんは言葉を切った。ふっと息を
「
「……?」
「あいつの渾名だよ。直し屋ジャック。壊れて捨てるしかないものまで全部直しちまうってんで、そんな名前がついたんだ。もっともそう呼んでる連中の多くは、あいつに廃品処理のレッテル貼ることで、少しでも劣等感ぬぐおうとしてたんだろうけどね」
「……というと?」
「それだけ凄いやつだってことさ。科学者としてのジャックは、百年に一人の天才だ。あたしなんぞはそれこそ嫉妬もできないほど、次元が違うレベルの。ここでの研究はほとんどジャックの能力をあてにしたものだったし、実際あいつがいなくなってからは何の進展もない。報告書まとめられるていどの研究の真似事を、ただ細々と続けているだけさ」
「つまり、ここの人だったんですか?」
「え? ああごめんよ、話が飛んだね。その通り、ジャックはここで『博士』と呼ばれてる人間の一人だった。主任研究者だったけど、そんな肩書きじゃ軽すぎるほど完全な独裁者だったね。あいつが発案する新しい実験を、あたしらはほとんど何もわからないまま手伝ってたよ。あたしの理解に間違いがなけりゃ、ここはそもそもジャックのために用意された場所だったのさ」
「けど、いなくなった」
「……そう、いなくなった。ある日、何の前触れもなくいきなりいなくなったんだ。これまでここでやってきた研究のデータをごっそり奪ってね」
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