149 新しい契約(4)
⦅あれ、いたのかいマリオ。あんまり影が薄いもんだからわからなかったよ⦆
「……?」
唐突にはじまった二人の会話に、俺は強い違和感を覚えた。
その違和感の正体はすぐにわかった。二人が話しているのは、俺の知らない言語だった。だが俺は、その知らない言語で交わされている二人の会話の内容を理解することができた。ちょうど字幕のついた外国映画を観ているように――
⦅これはまた手厳しい。君にそんな言葉を向けられるほどの、私がいったい何をしたんだろうな?⦆
⦅さあ、その辺はあたしにもよくわからないさ。わかってることは、あんたの顔を見るとついそういった言葉を吐きかけたくなるってことくらいだね。……で、何の用だい?⦆
⦅立ち話もなんだろう。まあ入ってくれたまえ。そちらのトリニ――⦆
⦅ハイジって名前だよ。ちゃんとその名で呼んでやっておくれ⦆
⦅……失敬。では、ハイジ君も一緒に⦆
マリオと呼ばれた男はちらりと俺を見たあと、傍らの扉を開けそこに俺たちを招いた。キリコさんは小さな声――得体の知れない外国語ではなく俺のよく知る言葉で「入るよ」と言い、その扉をくぐった。俺もそれに従い、彼女のあとについて入った。
中に入ると、薄緑に明滅する計器のパネルと低い唸りが俺たちを迎えた。そこはちょうど俺が目覚め、キリコさんと契約を交わした部屋とよく似ていた。
マリオと呼ばれた男は会議室にあるようなパイプ椅子に俺たちを座らせ、自分は部屋の奥へ入っていった。
しばらくして戻ってきたとき、彼は盆の上にティーポットとカップを二つ載せて持ってきた。そしてさっきキリコさんが俺にそうしてくれたように、それぞれのカップに紅茶を注ぎ入れ、俺たちに手渡した。
⦅……で、用事ってのは何だい?⦆
⦅一言目がそれはないだろう、キリコ。君たちのためにとっておきの茶葉で淹れたというのに。ほら、この間のオレンジペコだよ。香りからして違うとは思わないか⦆
⦅生憎、ここんとこ鼻の調子がおかしいんでね。さあ用事があるなら言っておくれ。こっちだってそんなに暇じゃないんだ⦆
⦅わかった。わかったよ、キリコ。そうまで言うなら前置きはこれくらいにしよう。用事というのは他でもない。新鮮かつ緊急性の高い情報をひとつ、君の耳にどうかと思ってね⦆
男の言葉にキリコさんはカップを盆に戻し、居住まいを正した。そしてさっきまでの調子とは違う、どこか冷めた感じのする声で、⦅対価は?⦆と言った。
⦅いらないさ。善意からの報告だ⦆
⦅
⦅わかった。そういうことならつけておこう⦆
男はやれやれというような手振りでそう言いながら近くにあったパイプ椅子を引き寄せ、そこに腰掛けた。両手を股の間に組んで背中を丸め、一瞬ちらりと俺を見たあと、またキリコさんに視線を戻した。
⦅雄の恐竜が卵を産んだ⦆
⦅は?⦆
⦅産んだんだよ。産むはずのない雄の恐竜が卵を⦆
⦅降参だよ、マリオ。頭の悪いあたしにもわかるように教えてくれないかい?⦆
⦅降参が早いな。古い映画の記憶を紐解けば君に解けない謎ではない。いいかい、その映画というのは――⦆
⦅話す気がないなら帰らせてもらうよ⦆
⦅……わかったよ、キリコ。つまり我々の『試験場』で、想定されていなかった極めて不都合な『現象』が発生してしまったということだ⦆
⦅その不都合な『現象』というのは?⦆
⦅今日の未明に、ガーディアンの死体が回収された⦆
⦅……何だって⦆
⦅検死は私がおこなった。弾丸は貫通していなかったが摘出されなかった。この先を言う必要はないだろう。つまり、そういうことだ⦆
――ばん、という音がした。
思わず目をやると、キリコさんがうつむき加減の姿勢で拳をテーブルに載せていた。その拳が振り上げられ、振り下ろされ――今度はさっきより小さな、力のないばんという音が部屋に響いた。
⦅……だからあたしは最初から言ってたんだ⦆
⦅言いたいことはわかる。わかっているよ、キリコ⦆
⦅わかってなんかいやしないさ! いいかい? あんたは想定外だと言ったがこれはちゃんと想定されていたことだ!⦆
⦅その通り。君の言う通りだ⦆
⦅あたしがこれまで何度そのことを問題にしたか覚えてるかい? あんたたちが何度それを無視したかわかってるかい? その挙げ句がこのザマじゃないか。だいたいジャックがここを出たのだって……!⦆
キリコさんはそこで唐突に言葉を切り、ぎこちなく口を開いたまま固まった。だがやがて小さくひとつ溜息をつき、胸の前に腕を組んでぎしりと背もたれを軋ませた。
それからしばらくの沈黙があった。
黙りこむ二人を見るともなく眺めながら、俺はキリコさんの口にのぼった『ジャック』という名前について考えていた。彼女がその名前で呼ぶ人間は、俺の知る限りあの人しかいない。
ここでその名前が出るということは、あの人もこの劇に参加するということなのだろうか。そんな俺の考えを読んだかのように、マリオと呼ばれた男の口からまたその名前がこぼれた。
⦅今回の件も、おそらく『ジャックの娘たち』の仕業だろう⦆
⦅……確証でもあるのかい?⦆
⦅ないさ。だが他に考えようがないじゃないか⦆
⦅そうだね。……で、どうするんだい? あんたが口火を切って、みんなしてあたしの責任を追及しようってのかい?⦆
⦅まさか、そんなはずがないだろう。君が単なる『観察者』であって、『管理者』でないことは、私ならずとも知っている⦆
⦅……なら何が望みなんだい。はっきり言っとくれ⦆
⦅だからはっきり言っただろう、キリコ。私は善意でこの情報を君に提供したいのだと⦆
それきりまた二人は沈黙し、そのまましばらく見つめ合った。そうやって二人がお互いの腹を探り合っていることは何となくわかった。
長い無言の対峙のあと、マリオと呼ばれた男がおもむろにこちらを見た。最初はぼんやりと、やがて品定めするように目を細めて俺を眺め、視線を戻さないまま独り言のように⦅忘れ形見か⦆と言った。
⦅感傷、ということなのかい?⦆
⦅馬鹿馬鹿しい、あたしは女だよ? 感傷主義者の
⦅なるほど、そうだったな。『最後の一葉』の性能は、私たちには計り知れない⦆
⦅片割れ囲いこんどいてよく言うじゃないか⦆
⦅彼はまた話が別だ。そのへんは君の方がよく知っているだろう⦆
⦅どうだかね。いずれにしろあたしは評議会での決定にいち早く従ったってことだよ。あんたも早いとこいいのを選んだらどうだい?⦆
⦅ああ、そのことだ。実は私もパートナーを選んだのだが、まず君に紹介しておこうと思ってね――⦆
マリオと呼ばれた男はそう言ってまた部屋の奥へ入って行った。
しばらくして彼は一人の子供を連れて戻ってきた。いかにもつまらなそうな顔をした華奢な体つきの子供。くしゃくしゃの金髪と青みがかった目がどこかちぐはぐで、年齢はもちろん性別も俺には判断がつかない。
⦅紹介しよう、これが私の――⦆
⦅自分が何したかわかってる?⦆
ぞっとするほど冷たい声が男の言葉を遮った。キリコさんの声だった。
いつの間にか彼女の顔からは表情が消えていた。表情の消えた顔で戻ってきた男と、その男の連れてきた少年とも少女ともつかない子供を凝視していた。
⦅わかっている。当然わかっているよ、キリコ。わからなくてできることではないだろう⦆
⦅わかってるならどうして。それがどんなに――⦆
⦅自分がしでかしたことの意味はよくわかっている。もっとも、それがわかるのは私と君だけだろうがね⦆
⦅……さっきのあれは口止め料ってことかい?⦆
⦅だから違うと言っている。あれは善意からの報告だ。ただ君がそうとるなら、そうとってくれても私は構わないがね⦆
⦅……安すぎだよ。さっきのあれじゃ⦆
⦅なら残りは君の方でつけておいてくれればいい。いずれまた善意からの報告をする機会もあるだろう⦆
⦅……まったく、
⦅我々は何かと協力し合えると思うんだよ、キリコ。たとえばそこの彼――⦆
男はそう言って俺を見た。それはさっき俺に向けてきたものと同じ掴みどころのないぼんやりとした目で、だが俺はなぜかその視線から目を背けたい衝動に駆られ、どうにかそれに耐えた。
⦅ハイジ君と言ったかな。私の見たところ、彼は訓練をはじめて間もないようだ。だが、さきほどの状況を勘案すれば、すでに実戦は目の前に迫っているということになる⦆
⦅……何が言いたいのさ⦆
⦅時間的制約を考えれば、彼一人では充分な訓練ができないだろう、ということだ⦆
⦅……! 冗談じゃない! うちのハイジをそんなのと……!⦆
⦅『ヤコービの庭』が使えると言ってもかい?⦆
⦅え?⦆
⦅手入れをすればまだ使えるようだ、あそこは⦆
⦅……よく鍵が手に入ったじゃないか⦆
⦅倉庫を探っていたら偶然見つけてね⦆
⦅……偶然、ね⦆
⦅他にも色々と出てきたよ。私一人ではどうにも使いこなせそうにないものがね⦆
⦅……そうかい、そりゃ大変だ⦆
⦅それで、どうだろう?⦆
⦅……少し考えさせておくれ⦆
⦅いいとも。色よい返事を期待しているよ、キリコ――⦆
◇ ◇ ◇
マリオと呼ばれた男の部屋を出て最初の部屋――俺が目覚めた寝台のある部屋につくまで、キリコさんは一言も喋らなかった。
部屋に戻るとキリコさんは俺のために折り畳み式のパイプベッドを用意してくれた。そして目覚まし時計をテーブルの上に置き、起床は午後四時だと告げた。
太陽の見えない建物の中で時間の感覚がなかった俺は、そこで初めて今が午前十時であることを知った。ここでは正午をまたいで寝るのが習慣なのだとキリコさんは言い、それだけ言って明かりを落とすと、カーテンの奥の、さっきまで俺が寝ていた寝台に着替えもせずに引っ込んだ。
それが予め決められたことであるかのように、キリコさんは俺と同じこの部屋で眠りに就こうとしている。……俺に理解することができたのは、ただそれだけだった。それが俺に与えられた『役』なのだと心の中で自分に言い聞かせて、あれこれ考えることを止め、目を閉じて眠るための努力に専念しようとした。
明かりの落ちた部屋に計器の光はもう気にならなかったが、鼓膜に届く地を這うような唸りは消えなかった。わけのわからないことだらけで尖りきった精神に、その無意味な唸りがひどく苛立たしいものに響いた。
「――聞いてたね?」
「え?」
「マリオとの話だよ。わからないふりしてたようだけど、ちゃんと聞いてたんだろ?」
「……はい」
「けどね、あいつにはわからないことにしといておくれ」
「これから、ということですか?」
「そう、これから。そういう演技をしてくれってことさ」
「わかりました」
「……ああ、そういやあんた役者だったね。そのあたりはお手のものか」
「いや……ええ、任せてください」
「いい返事だね。期待してるよ、ハイジ」
「はい」
「それから……あの子には気をつけて」
「え?」
「マリオがつれてきたあの子供だよ。あの子には気をつけて」
「気をつけるって言っても、どう気をつければいいんですか?」
「そうだね……とにかく、殺されないように」
「……」
「……今はまだ話せない。けど、そのうちちゃんと説明する。だから……あの子には気をつけて」
「……はい」
それで話は終わりだった。カーテンの向こう側にかすかな衣擦れが響き――それきり彼女の音は途絶え、耳障りな唸りの中にまた静寂が訪れた。
俺は目を閉じ、片耳を枕に押しつけて眠るための努力を再開した。
だがいつまで経っても……隣から自分の守るべき人の規則正しい寝息が聞こえはじめたあとも、俺は眠ることができず、否応なく耳に届く、高ぶった精神を逆撫でるような無意味で無機的なその唸りを聞き続けていた。
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