151 ダンスパートナー(2)
「まったく、記憶媒体の高性能化ってのも考えもんだね。爪の先みたいなチップの中に図書館一個分の情報がまるごと入っちまう。おまけに消す方は一瞬ときたもんだ。情報の管理は他のやつが握ってたはずだったんだが、ジャックにかかりゃ苦もないハッキングだったんだろ。そんなわけで、あいつはここの全データをぜんぶを奪って逃げた。それがちょうど二ヶ月ほど前の話さ」
それだけ言うとキリコさんは口を閉ざした。その顔には怒りでも苛立ちでもなく、明らかにそれとわかる別の表情が浮かんでいた。……それは困惑だった。どうしてそうなったのかわけがわからない、そんな声が聞こえてくるような戸惑いの表情だった。
「――続きがあるんだ」
「え?」
「その話には続きがあるんだよ。ジャックはデータを奪って逃げた。おそらくマイクロチップか何かに詰めてね。そのあとなんだが、あいつがどうしたと思う?」
「……どこかに売ったんですか?」
「そう、それが普通だ。普通に考えりゃどうしたってそうなる。データ持ち逃げしたならそれをどこかに売るのが常識だ。けど、ジャックってやつはそんな常識が通用するやつじゃないのさ」
「……じゃあ、どうしたんですか?」
「首から提げて見せてまわってるんだよ。そのマイクロチップをご大層にね。どこで寝起きしてるか知らないが、ここの近くにしょっちゅう顔出してはそいつを見せびらかしてる。ほら欲しいものはここにあるぞ、取ってみろと言わんばかりに。
「もちろんそのチップの中に何が入ってるかなんてわかりゃしない。だからあたしらはもっと確実なとこを奪還しようとした、ジャック本人をね。衛兵隊やら何やら出動させて、ほとんど全力あげてことに当たったんだ。殺しちまうわけにはいかないから、どうにか生かして捕まえてきなって、報奨金までかけてね。
「けど、まるっきり相手にならない。腕の立つ親衛隊がついてる上に、すぐ逃げちまう。だいたいあいつにしてみりゃ、こっちの手の内なんぞ完全にお見通しなんだよ。あたしらのことは
「……あいつがいなくなってこの方、ここはごたごた続きさ。下らない内紛は激しくなる一方だし、『試験場』の様子も妙にきな臭くなってきた。そんなこんなで、『博士』は護衛を一人ずつつけることが評議会で決まった。それがここまでの顛末さ。……あいつについて言えるのはこのくらいかね」
長い話に区切りをつけて、キリコさんはコーヒーカップを口に運んだ。だがもう空っぽだったらしく、「ん?」という表情をつくったあと、おもむろに席を立った。
「ハイジも、もう一杯どうだい?」
「え? いや、俺はもういいです」
「そうかい」
そう言ってキリコさんはコーヒーカップを手に奥へ入っていった。
彼女がいなくなってから、自分の頭が知恵熱を出しそうな勢いでぐるぐるまわっているのを感じた。与えられた情報が多すぎて処理が追いつかないのだ。それでもキリコさんの口から次々に情報が出てくるのはありがたかった。こんな機会はまたいつあるかわからない。
だから湯気をたてるカップを手にキリコさんが戻ってくるなり、俺は次の質問を口にした。
「評議会というのは何なんですか?」
「ん? ああ、評議会ってのはここの執行部さ。方針の決定やら規則の制定やら、そういうのを取り仕切る最高機関ってことになってる。最初は全員で持ち回りのはずだったんだが、今じゃメンバーは固定されてる。問題のマリオもその一人だ」
「じゃあ、今この研究所を動かしてるのはその人たちなんですね」
「そういうことになるね。ただ実際のところ、今ここは動いちゃいないんだ。さっきも言ったようにごたごたばっかで、肝心のところは何も動いてないんだよ。だから評議会の決定にしてみたところでどれもお
また『護衛』という言葉が出た。キリコさんが口にしたその言葉が俺を指すものであることは理解できた。
それは俺であり、昨日引き合わされたあの子供だ。その評議会の決定に従い、キリコさんは俺を護衛として選定し、マリオ博士はあの子供を選んだ。昨日のあの場所での会話は、そういう文脈の上に交わされたものだったのだ。
「護衛つけるのはいいんだ。大義名分がなきゃ動けないやつだっているんだし、細かいこと抜きにすりゃまあ妥当な決定だよ。けどさっきのあれときたら!
けれどもその『護衛』という言葉を考えるうち、ひとつの大きな疑問が浮かびあがってくる。どうしようもないほど大きく、しかもこの劇の本質に関わる疑問だった。
……さすがに聞いてはならない気がした。だがやはり聞きたい。そんな逡巡のうちに黙りこんでいると、「聞いてんのかい?」とキリコさんの声がかかった。
「え?」
「え? じゃないよ。あたしの話を聞いてんのかい? って言ってんだ」
「すみません……聞いてませんでした」
「まあいいよ。どうせ聞くだけ無駄な話さ。こっちこそ脱線して悪かったね。ええと、評議会について説明してたんだっけ?」
「『選定』って、どういうことですか?」
「ん?」
「さっきの話です。『護衛を選定する』ってどういうことですか?」
「……」
「俺はその……昨日も少し話したんですが、ここへ来る前、別のとこにいたんです。キリコさ――
「……」
「それは理解できたんですが、何でそうなったのか……いや、何でキリコさんが俺を選んだかってことじゃなくて、目が覚めるまでこっちの俺はどんな感じだったのか、とか。それから、何で向こうにいたはずの俺がいきなりここに来たのか、とか。……そのへんが俺、全然わからなくて」
質問は途中からしどろもどろになったが、キリコさんは黙って最後まで聞いてくれた。俺が口を閉ざしたあともしばらく何も言わず、真摯な目でじっとこちらを見ていた。
……やはり聞いてはいけないことだったのだろうか。そんな考えが浮かびかけたところで、真摯な表情を崩さないまま、キリコさんがおもむろに口を開いた。
「……さわりだけになるけど、いいかい?」
「え? あ、はい」
「さっき言った評議会の決定ってやつなんだけど、実のところ少しはしょってるんだよ。表現を改めた、って言い方もできるね。そのまんまだと話がややこしくなると思ったからそうしたのさ。まあ、ここでそれを話す以上、結局ややこしくするわけだけなんだけど」
「……」
「『各研究員は速やかに未起動ストックの中から任意の個体を一基選定し、護衛として使役しうるように起動せよ』ってのが正式なやつさ」
「起動?」
「そう、起動。未起動の個体を起動して護衛にしろ、ってことさ。どうだい、いきなりややこしくなっただろ?」
キリコさんはそう言って意地の悪い笑みを浮かべた。ただ俺の方ではそれほどややこしくなったわけではなかった。謎が深くなった部分もあるが、逆にすんなりと理解できた部分もある。
この世界において、俺はキリコさんに起動されるまで未起動状態でストックされていたのだ。
「となると、俺はホムンクルスか何かですか?」
「なかなか教養があるじゃないか。当たらずとも遠からずといったとこだけど、まあそう思ってくれといて問題ないよ。少なくともロボットやアンドロイドなんかよりよっぽどそっちのが近い」
「……だけど」
「ん?」
「未起動だったにしてはおかしくないですか?」
「どこが?」
「起動される前の記憶があります、俺には」
「他のにはないんだよ」
「え?」
「他のにはないんだ。ハイジ以外のにはない。文字通り、フラスコから外に出たばかりのホムンクルスさ。昨日のあの子も含めてね。起動される前の記憶なんてのがあるのは、他ならぬハイジだけなんだよ」
「……どうして俺だけ」
「さわりはこのくらいだね」
胸の前で軽く手を打ち、キリコさんはそう言った。言うなり立ちあがると奥に消え、そうしてすぐトレイを手にまた戻ってきた。
「その先はまた今度ってことにしといておくれ。いいとこで切られて癪な気持ちはわかるけど、こっちにも事情があってね」
「はい。わかってます」
「ただ、それがあるからあたしはハイジを選んだ、とだけ言っておくよ」
「え?」
「起動される前の記憶があるから、あたしはハイジを選んだのさ。空っぽの
「わかります」
「そういうことだよ。ま、ハイジを選んだ理由はそれだけじゃないけどね。そんな感じで今のところは納めておいておくれ」
「わかりました」
「よろしい」
そう言ってにっこり微笑むとキリコさんはトレイをテーブルに乗せ、空いた食器を片付けはじめた。
時計に目をやるともう六時だった。もちろん、夕方の六時だ。ここの生活では真昼に眠り、夕方から朝にかけて活動するのだ。今さらのようにそれを確認して……ふと思い出すところがあった。
「もうひとつだけ質問いいですか?」
「ん? 何かあったかい?」
「俺、たしか簡易ベッドで寝てたはずなんですけど、どうしてあっちで寝てたんですか?」
カーテンの中に視線を向けてそう言った。キリコさんの目がそちらに向けられ、またすぐに俺を見た。その顔に呆れたような表情を浮かべると、キリコさんは肩をすくめ、小さく鼻を鳴らした。
「よく言うよ。自分からもぐりこんできといて」
「え?」
「後払いだってこと忘れてやしないだろうね? 言ったはずだろ、あたしの許可なしに指一本でも触れたら許さないって」
「……」
「忘れたのかい?」
「……覚えてます」
「夜這いかけるなんてもっての他だよ。今回は特別に許すとして、次やったらペナルティだ。それ相応の罰を与えるから覚悟しておくんだね。わかったかい?」
「わかりました。申し訳ありませんでした」
身に覚えのない話だったが、深く頭を下げた。俺があちらで寝ていたのは事実だし、おおかた寝ぼけてやってしまったのだろう。
そう思い、改めて恥ずかしさと申し訳ない気持ちがこみあげてくるのを感じた。もう一度きちんと謝ろうと頭をあげかけたところで、割れるような哄笑が突然降ってきた。
「あはははは、あはははは……」
頭をあげてキリコさんを見た。食器を乗せたトレイをテーブルのへりに危なっかしく置き、白衣の腹に手を当ててキリコさんは笑っていた。
……またこれだ、と思った。また俺には理解できないつぼに入って、キリコさんは一人で笑っている。
「あはははは、あはは……。いいねえ、ハイジは。本当にいい」
「……」
「ハイジを選んで本当によかったよ。こ、こんなに楽しいと思ったのは、ひ、久し振りで……。あはははは……」
「キリコさん! いったい何が――」
「ああ駄目、駄目。
そう言ってキリコさんは背筋を伸ばし、両手で自分の頬を叩いた。そのあとテーブルから落ちそうになっていたトレイを持ちあげ、また奥へ入っていこうとして――振り向きざまに言った。
「出るから用意しといとくれ。昨日言ってたホルスター、そこに置いてあるから」
部屋の隅を顎でしゃくり、キリコさんは部屋を出て行った。
計器に埋め尽くされた壁の端、丸椅子のようにも見える小さな台の上に黒い革製のホルスターが置かれていた。そこに収まるべき拳銃も、その隣に並べて置いてある。
それを確認したあと、俺は誰にも聞こえないように口の中で小さく「へいへい」と独り言ちた。
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