074 隠された小部屋(3)
目覚めたとき、嵐はまだ止んでいなかった。
夜はもう明けているようだが、部屋の中はだいぶ薄暗い。口の中にまで入りこんでいた砂を吐き出して、それが砂塵のためであることに気づいた。風に舞いあげられた砂の雲が太陽の光を遮っているのだ。
寝台にペーターの姿はなかった。部屋の中を見回してみてもそれらしい影は見あたらない。……結局、一晩戻らなかったということになる。そのことを思って暗澹とした気分になりながら、俺はそのまま寝台の上に身体を丸めた。
よく眠れたとは言い難い。砂まみれの寝台に轟音を聞きながらでは安眠などできるはずはないし、実際、眠っていたというより起きるか起きないかの境をずっとさまよっていたようなものだ。眠気の塊はまだ頭の奥にあるが、もう眠りの中に戻ることはできない。かといって寝心地の悪いこの寝台から起きあがる気にもなれない。
所在なく寝台に横たわったまま風の音を聞き続けた。
いま何時だろうと思い、すぐにそれが意味のないことだと思い直した。何時かわかったところで、それがいったい何になるというのだろう。時間を気にする必要などない。そんなものを気にする意味は、もうどこにもない。
……喉が渇いていた。最後のペットボトルが空になったのは夕方になる前だから、半日近く水を飲んでいないことになる。「水分の摂取がなければ三日」という話が本当なら、俺に残された時間はあと二日と半分。その間に無機毒物の溶けたあの泉の水から飲料水を確保するための手段を考えなければならない。それができなければ年代的に合わない謎の
それがわかっていても、俺の身体はいつまでも寝台から動こうとしなかった。このまま干涸らびて
壁の破れ目から舞いこんでくる砂の雨は相変わらずだったが、寝る前に比べればまだましになっている気がした。慣れてしまったのだろうか、吹き荒れる風の音も昨日ほどではないように感じる。そこで初めて、夜が明けたわりには気温があがってこない部屋の中の空気に気づいた。水がない今の状況にあって、太陽を遮ってくれるこの砂嵐は、あるいは幸運というべきものだったのかも知れない。
空腹を覚え、ジーンズのポケットを
そのままいつまでも寝台に寝転んでいた。風の音が弱くなり、また強くなるのをただぼんやりと聞き続けた。
様々なことがとりとめもなく頭に浮かび、無気力な思考の中に端から消えていった。そうして最後に浮かんだのは、またいつもの疑問だった。もうすっかり慣れ親しんだ、ここへ来て何度繰り返したかわからない疑問。なぜ俺はこんなところにいるのだろう? こんな何もないところで、俺はいったい何をやっているのだろう?
そしていつも通り、その疑問にはすぐに答えが出る。
演劇のためだ。演劇の舞台に立つために俺はこんな
そのことを思い、急に激しい怒りがこみあげてくるのを覚えた。舞台に立っているならこの状況にも耐えられる。けれどもまだ続いているに違いないそこから追いやられた上にこれでは、無責任で一方的な酷い仕打ちとしか思えない。
そこで不意に、昨日の眠りの中に見た夢のことを思い出した。
……正確には昨日のものかわからない、今朝起きる前に見たものかも知れない。《博士》に扮したキリコさんと初老の科学者――確かマリオと呼ばれていた男の会話。専門用語だらけの内容はさっぱり理解できなかったが、妙にリアルで真に迫る夢だったと今にして思う。
何と言っても《博士》を演じるキリコさんの演技が見事だった。夢に見たそれを演技というのも変な話だが、それが日曜の舞台で彼女が演じることになっていた《博士》そのものだったこともあり、どうしてもそう思えてしまう。
あるいは俺の頭にその日曜の舞台のことが残っていたせいでそんな夢を見たのかも知れない。そんなことを考えているうち、こっちへ来ているに違いないキリコさんに会いたいという気持ちがにわかにこみあげてくるのを感じた。
キリコさんだけではない、他のみんなにも会いたかった。アイネや隊長――特に隊長には言いたいことが山ほどある。DJにも会いたい……あいつがこっちに来ているかわからないが、もし来ているのなら会いたい。みんなに会いたい、会って話がしたい。こんな何もないところで何もできず、いつまでもぐずぐずと燻っているのは嫌だ――
「……っ!」
そう思い、目が覚めて初めて寝台の上に身体を起こした。
窓の外に目を向ける。巨大な生き物のようにうねり狂う砂塵の雲の彼方に、曖昧な地平線がぼんやりと霞んで見える。あの地平線に連なる大地のどこかに、きっとあいつらはいる。
ならば、どうしても会いたい。
この砂漠の果てにあいつらがいるのなら、たとえ道の途中に野垂れ死んでもいい、この命を賭けてでも今すぐ会いに行きたい――
「……」
衝動的に飛び出そうとして寝台を立ち――だが俺はまたぐったりとそこに腰をおろした。寝台のばねが軋み、砂埃が舞いあがるのを力なく眺めた。
そう……結局、俺にそんなことはできない。水も食糧もなくなってしまったここに、あいつ一人を置き去りにして行くことなどできない。
「……ったく」
短い悪態をつき、頭の裏を掻きむしりながらもう一度寝台を立った。……いい加減うんざりだが、やはりあいつと向き合う以外に道はないようだ。
昨日のこともある、実際に面と向かったとき冷静でいられる自信はない。
それでも俺はなけなしの気力を奮い起こし、ペーターを捜し出すために『王の間』をあとにした。
◇ ◇ ◇
砂嵐の中に回る廃墟は、まるでそれ自体が大きな空洞だった。
壁が壊れているところでは侵入を防ぐべくもないが、きちんと連なった壁の内側に風は吹きこんで来ず、そこを通る間だけ轟音が厚い
壁の破れ目は砂のカーテンだった。少し欠けている程度なら問題ないが、天井まで裂けている場所では手で口元を覆い、半分目を閉じて突っ切るしかない。少し大きめの穴から砂風が濁流のように雪崩れこんでいる光景を何度も見かけた。最初のうち物珍しかったそれも、くすんだ黄土色に塗り潰された視界の中、徐々に煩わしく邪魔なだけのものになりかわっていった。
そうやって城の中を巡りながら、廊下に面した部屋をひとつひとつ見てまわった。いくら広い建物とはいえ身を隠すことができる場所は限られている。壁の裏側や柱の陰、崩れた瓦礫の下に至るまで丹念に調べた。鬼ごっこの次は隠れん坊か、と呆れる気持ちはあったが、作業に徹するような思いで真剣にペーターを捜した。
だがそんな懸命の捜索にもかかわらず、ペーターはいつまでも姿を見せなかった。かなりの時間歩き回り、部屋という部屋を探ってみても一向に見つからない。あるいは俺の動きをみて隠れ場所を変えているのかも知れない。そう考える裏に、こんなことならあの招かれざる訪問者が来たときも野放しにしておけばよかったと力なく思った。これだけ上手に身を隠せるならあの二人組も簡単にやり過ごせたに違いない。そうしていれば俺はあんな薄氷を踏むような思いをさせられることはなく、未だに疼く噛み傷を手首につけられることもなかったのだ。
ただ当初の目的が果たせない代わりに、城の中では幾つかの発見があった。
ひとつめの発見はカッターナイフだった。丁寧に刃が根本まで折り取られた
ふたつめの発見はそのカッターに切り裂かれたものの中にあった。砂風の吹き荒ぶ渡り廊下を渡り、もう幾つ目になるかわからない部屋を覗いたそこで俺は思いがけないものを見た。小窓からの薄暗い光の中に無数の紙吹雪のようなものが
だが足下まで飛んできた紙吹雪を拾いあげ、それが何であるか確認したところで気分は一気に冷めた。部屋の中を舞い交っていたそれは、あの日ウルスラが手ずから渡してくれたナプキンの破片だった。窓が小さいことでどこへも飛んでいかず、この部屋が吹き溜まりとなっていたのだ。それがわかってしまえば壮観どころか、こんな興ざめで寒々しく哀れな情景はない。
一刻も早く立ち去りたくて、中をよく調べないままその部屋を出ようとした。そこでふと、壁際に煉瓦とは違う色の何かが落ちていることに気づいた。近づいてよく見るとそれは、粉砕された岩塩の
岩塩を拾い終えて部屋を出たあと、おそらくあいつにはあの元の黄色い塊が何かわからなかったのだろうと推論づけた。泉に投げこまれていたら跡形もなくなっていたわけだが、粉々になっても塩としての価値は変わらない。これが回収できただけでも探索には充分に意味があった。生きてゆくために必要な幾つかの要素のうち、ひとつについてはこれでどうにかなったのだ。
みっつめの発見は中庭だった。延々と城内の探索を続けるうちに、外を吹く風の勢いが明らかに治まってきていることに気づいた。それを見計らって俺は階段を下り、回廊を渡って『中庭』に出た。もちろん、さっきまで激しい砂嵐の中にあったそこにペーターがいるとは思えなかったが、昨夜は呆然自失でまともに眺めることができなかったそこを、もう一度しっかりと見ておきたいという気になったからだ。
けれども『中庭』に通じる門をくぐり一歩を踏み出しかけたところで、風がまだ充分に強かったことを砂塵の洗礼によって思い知らされた。細かい砂は目をつぶっていればどうにかなるが、先の尖った小石が容赦なく顔にぶつかってくるのでは堪らない。
仕方なく建物の中に引き返し、そこから遠目に『中庭』の様子を眺めた。砂煙に霞む景色の中に何らめぼしいものはないように見えた。だが目を凝らして観察しているうちにふと、椰子の林の奥まったところに鮮やかな赤色の塊があるのが目についた。
一瞬迷ったが、意を決して砂風の中に飛びこんだ。両腕で顔を覆い、その間から先を見るようにして真っ直ぐにその赤い塊を目指した。椰子の林に入ったあとは風も弱まり、身を守りながら走る必要もなくなった。その林の奥に見た赤い塊の正体は、一昨日ウルスラがロープを使って落として見せたナツメヤシの実の房だった。
それがわかったとき、ほとんど反射的に俺はその実を
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