071 劇中劇(9)
街灯から離れた道の先の薄暗がりに、まるで俺を待ち受けるようにペーターは立っていた。
「……」
何も言えず、ただその姿を見守った。
彼女の方からも言葉はなかった。薄闇に輝くふたつの目は真っ直ぐに俺を見ていた。だがうすく唇を開いた曖昧なその表情からは、何の感情も読みとることはできない。
「……」
言葉が出てこなかった。どんな言葉をかければいいのか、何を話したらいいのかわからなかった。動けと命じても足は一歩も前へ出ようとしなかった。
曖昧な表情でこちらを見る彼女を前に、舞台で台詞を忘れた役者のように俺は立ち尽くす以外どうすることもできなかった。
「……っ!」
不意に胸が痛んだ。目の前に立つ人のことを思って、またあの締めつけるような実際の痛みが胸の奥に蘇った。堪らずにシャツを掴み、いっぱいの力でそこを押さえつける。けれどもその痛みは治まらないばかりか、徐々に激しく耐え難いものになってゆく。
「……痛い」
ついに
ペーターの反応はなかった。曖昧な表情を浮かべたまま、ただじっとこちらを見つめていた。
手の先が震え始めた――またあの広場での感覚がくる。もうどうすることもできず、絞り出すように俺はもう一度その言葉を口にした。
「痛い」
「……」
「痛いよ」
そこで初めてペーターの表情が動いた。ゆっくりとその顔に形づくられた表情は、心から嬉しそうな満面の笑顔だった。
だがすぐにその表情を消し、ぼんやりした元の顔に戻った。そうして抑揚のない小さな声で、独り言のようにその言葉を告げた。
「あなたには本当の痛みなんてわからない」
そう言ってペーターは振り返り、そのまま駆け出した。
一瞬の躊躇のあとに、その背中を追って俺も同じように動いた。今度は足が出た。軋みをあげる心臓を抱えて、ほとんど何も考えられないままに、澱みきった生温い夜気のたゆたうなかペーターのあとを追い全力で走った。
「はあ……はあ……」
文字通り全力で走った。心臓の動悸が激しくなってゆくにつれ、どういうわけだろう、その痛みは次第に治まっていった。
暗い道の先には、小さな黒い染みのようにペーターの影が見えていた。その影に向い必死に駆けて――だがどれだけ走っても俺はその背中に追いつくことができなかった。
「はあ……はあ……」
……まただ、と思った。またいつかと同じ、終わりのない追いかけっこの中にいる。
あの砂漠の廃城で、舞台の始まる前のこの町で、もう何度となく俺はこれを繰り返した。どれだけ走っても追いつけないチート仕様の鬼ごっこ。その中にあって俺はまたいつものように息を切らせ、追いつけない相手の背中を無闇に追い続けている。
「はあ……はあ……くそ!」
最初はすまなさでいっぱいだった。走り出してすぐ、痛みと入れ違いにわきおこったすまなさは胸を埋め尽くし、濃いもやのようになって俺の心を苦しめた。
だが走り続けるうち徐々にそのもやは粘ついた黒いタールのようなものに変わっていった。それは苛立ちだった。気がつけば俺は苛立ちの絶頂にあった。……これもまたいつも通りだと自嘲して顔の汗を拭い、その苛立ちに任せてひた走りに走った。
「はあっ……はあっ……ペーター!」
走りながら何度もその名前を呼んだ。乾ききった口の中には粘膜がひりついている。汗のために歪んだ視界から黒い影が消えることはなかった。その影だけを見つめばらばらなフォームで、転がり落ちるように俺は夜の道を駆け抜けた。
「はあっ、はあっ、はあっ……」
だがやがて忽然とその影が消え、鬼ごっこは終わりを告げた。影の消えた場所まで走って、そこで俺はペーターの屋敷の前に立つ自分に気づいた。
門は開いていた。玄関の扉も開いている。迷わず俺は門をくぐり、坂を駆けあがる勢いそのままに玄関の中へ飛びこんだ。
「ペーター! おい、ペーター!」
屋敷を黒々と満たす闇に、ペーターを呼ぶ俺の声が虚しく響いた。
――と、長い廊下の先に何かが動くのが見えた。壁から半身を覗かせるその影は、ペーターのもののようだ。だが俺が駆け寄ろうとすると、その影は待っていたかのように壁の向こうへと消えた。
「……っ! ペーター!」
大声で叫んで俺は駆け出した。そうしてすぐ、まだ鬼ごっこは終わっていなかったことを知った。フィールドが夜道から屋敷の中に変わっただけだ。現れては消え、消えては現れるペーターの影。決して捕まえることのできないその影を追い、俺はぐるぐると屋敷の中を駆け巡った。
「ペーター! ペーター!」
歯車の外れた苛立ちの中に、何度も何度もその名前を呼んだ。暴走する心と身体をどうすることもできず、もう自分が何をしているのかさえわからなかった。
だからその影が廊下に躍り出たとき、よく確かめずにそのまま駆け寄った。
ばん――という音がして太腿に殴られたような衝撃を受けた。そのまま床に転がり、そこで初めて、その影がペーターのものではなかったことに気づいた。
「なぜ戻って来ることができた」
太腿を押さえてうずくまる俺に、平坦な口調で女はそう告げた。仁王立ちから無表情で俺を見下ろす女――ペーターがエツミと呼んでいた彼女は、手の先に銃を構え、その口を真っ直ぐ俺に突きつけてもう一度その言葉を繰り返した。
「管理者権限のないお前が、なぜまたここに戻って来ることができた」
太腿の痛みが徐々に激しくなってゆくのを感じながら、呆然と女の姿を見上げた。
何が起きたのか、何を聞かれているのかまるでわからなかった。声が出せないでいる俺の目の前に女の右脚があがった。そう思うやその脚は視界から消え、次いで激しい衝撃が横ざまに俺の頭を襲った。
ガッ、という音と同時に鼻の奥につんと広がってゆくものを感じ、脚で頭を蹴られたのだと理解した。鼻血が垂れ落ちる感覚があった。口の中も切れているようで、濃い鉄の味がいっぱいに広がってゆくのがわかる。
けれども俺はそれで逆に覚悟を決めた。この詰問に答えてはならない――何の根拠もなくそう決心し、その意思をこめて俺は固く唇を結んだ。
そのジェスチャーのためだろう、間を置かず脚がもう一度俺の顔を蹴った。
「ぐうっ……」
呻き声をあげて床の上を転がる。鼻を蹴られたらしく激烈な痛みが走り、血が止まらない。あるいは鼻梁が潰れてしまったのかも知れない。他人事のようにそう考え、顔を上げてまた俺は銃を突きつける女の姿を見上げた。
「答えろ。なぜ戻って来ることができた」
「……」
「撃ち殺したはずのお前が、なぜまたここに戻って来ることができた」
「……」
返事の代わりに口の中にたまった血をその顔目がけ吐きかけた。また脚がきて、今度は口のあたりを強かに打った。前歯が折れ、唇の裏側に突き刺さっているのがわかる。状況はかなり深刻なようだが、やはり俺は答えない。そもそも俺には返すべき答えはおろか、何を聞かれているのかさえわからないのだ。
銃を持つ手があがり、その銃口が俺の心臓に向けられた。トリガーには既に指がかかっている、この距離なら子供でも撃てば
頭の芯を焼き尽くすような痛みに苛まれながら、妙に冷静で恐怖を感じていない自分に気づいた。なぜだろう……そう思ってすぐに答えは出た。ここで殺されてもあちらに戻るだけだ。それがわかっているから俺はこの危機に瀕してこれほど平静でいられるのだ。
「なるほど」
けれどもそんな俺の考えを見抜いたかのように女はそう言い、銃口を下げた。
ばん、という音がした直後に太腿――さっき撃たれた方とは逆の太腿に衝撃があり、それからゆっくりと引き裂くような痛みが
「ならば、殺しはしない」
「……」
「殺さないように身体を破壊する方法は心得ている。要は動脈を破らなければいいのだ。血もできるだけ失わないように。そうすれば命は保ったまま組織だけ破壊できる。関節を砕くのもいい。ほら、こんなように――」
ばん――
「……ぎっ!」
「大丈夫、殺しはしない。少しずつ破壊してゆくだけだ。時間は充分にある。ゆっくり行くとしよう」
そう言って女は哀れむような微笑を浮かべた。その微笑にふと、映画館で観たあの映画のことを思い出した。
散々に痛めつけられた挙げ句、ペニスを切り落とされて放置されたDJの姿が脳裏に蘇った。そして俺はこの拷問が開始されて初めて、止まっていた時間が動き出したかのようにごく当たり前の恐怖に襲われた。
「我慢できなくなったら言うといい」
恐怖が顔に出たのを認めたのだろう。女は哀れむような微笑を消し、真剣な表情に戻った。そしてこちらを覗きこむように屈めていた背筋をのばし、銃を持つ手を真っ直ぐにこちらへ向けた。
「ショックでも死に至ることはある。だから痛くなりすぎないように気をつける。できるだけ長く苦しめるように、一箇所一箇所充分に選んで弾を撃ちこんでゆく。それでいいかな」
こちらの返答を待たずに女は銃口を俺の股間に向けた。咄嗟に逃れようとして……そんなことをしても無駄だとわかった。あの銃の弾はいつか俺のペニスを打ち抜く、そう考えるだけで全身の力が抜けた。
それでも俺は何も答えなかった。何を答えていいのかわからないのだから答えようがない。
そんな俺を見て女は興が冷めたように舌打ちした。そして一度はおろされた銃を持つ手が、その銃口を再び俺の股間へと向けるのが見えた――
けれどもその銃口から弾が発射されることはなかった。
トリガーにかかった指が動こうとする寸前、何の前触れもなく女の胸からにょっきりと白い棒のようなものが生えた。
愕然とした表情で背後を振り返ろうとする女の手から銃が落ちた。肩口にもうひとつの顔があった。その顔が女の耳元に口を近づけ、そっと囁く声が聞こえた。
「侵入の手際は見事だった。だが君に管理者権限を与えた覚えはない」
その言葉が終わらないうちに女は膝から崩れ落ち、そのまま床に倒れ伏した。
その向こうに姿を現したのはウルスラだった。両手に大小の刀を持ち、その血を払って鞘に収めながら、もう動かない女を返り血の飛んだ顔で見下ろして、さらに言葉を続けた。
「お父さまからの伝言です。こんな形になりましたが、確かにお伝えしました」
それだけ言って女から視線を逸らすと、ウルスラは踵を返して立ち去ろうとした。だがそこでふと足を止め、こちらを見ないまま静かな声で言った。
「……昼に申し上げましたように、ここは現実の世界などではありません。そして崩壊は時間の問題です。あの方の精神がそうであるように」
「……」
「あたしにできるのはこれが精一杯。お伝えできることはすべてお伝えしました」
「……」
「今日は、楽しかったです。ご一緒できて本当に楽しかった――」
そう言い残し、足音を立てずにウルスラは駆け去った。濃く深い闇の懐に両脚を撃ち抜かれた俺と、血溜まりに倒れ伏す女の死体だけが残された。
……何が起きたのか、なぜこうなったのかまるでわからなかった。混乱と激痛は増すばかりで、この先どうすればいいのか俺にはまったくわからない。
ふと、女の取り落とした拳銃が目についた。それで自分が次にやるべきことがわかった。
太腿の痛みに耐えながら床に寝そべり、腕をいっぱいに伸ばしてその拳銃を引き寄せる。そうして拾い上げた銃を手に取り、そのトリガーに指をかける。
「……」
柱の陰からペーターの顔が覗いていた。俺が顔を向けるとすぐにその姿を隠す、ちょうどさっきまでそうしていたように。
だが俺にはもう無邪気に追いかけっこなどできない。そればかりかこの脚ではまともに立ち上がることもできない。
トリガーにかけた指が小刻みに震えている。けれどもそれは恐怖のためではない。力を振り絞って腕をもたげ、銃口をこめかみにあてた。トリガーを引こうとして――そこでまた柱の陰からペーターが顔を覗かせるのが見えた。
今度は視線を向けても隠れなかった。
……元々ここへ来たのはこいつに会うためだった。だが、俺はもう何も考えることができない。せめて笑いかけようとして、引き攣る口元にそれさえもできない。
「またな」
一言、そう告げるのがやっとだった。柱の陰でペーターは俺に向け小さく手を振って見せた。それがどんな意味なのかも俺にはわからなかった。何もかもわからないまま、機械の電源を落とすように俺はこめかみに向けた銃のトリガーを引いた――
◇ ◇ ◇
――気がついたとき、目の前にはペーターの顔があった。触れ合っていた唇が離れる感触と、閉じていた瞼をおこして見つめ返してくるふたつの瞳。
だがその瞳が俺を見た瞬間、陶然としていたその顔にさっと影がさした。その影はみるみる広がってゆき、やがてはっきりそれとわかる嫌悪の表情となってその顔を醜く歪ませた。
「お……おい」
肩を抱き寄せていた俺の腕を振り払い、寝台を飛び降りて裸足のままペーターは部屋から駆け出していった。思わずその背中にかけた言葉もあとが続かない。脚から顔面から、全身を苛んでいた激痛はもうどこにもなかった。だがそれでも彼女のあとを追う気にはなれず、大きく溜息をついて砂まみれの寝台に倒れこんだ。
「……ふう」
どっと疲れがきた。一日向こうにいただけなのに、何年も過ごしてきたような気がする。そう感じずにはいられないほど不可解なことがありすぎた。まるで悪い夢でも見ていたようだ。……いや、どんな悪い夢でもあそこまで支離滅裂なものにはならない。
「……」
寝台に寝転んだままペーターが戻ってくるのを待った。だがいつまで待っても戻ってくる気配がないので、そのうちにどうでもよくなった。出てゆく前、キスのあとに見せた険しい表情のことが気になったが、すぐにそれもどうでもいいことだと思い直した。難しいことを考えるには精神的に疲れ過ぎている。眠れば少しはましになるのだろうが、あいにくこの俺は目が覚めたばかりで、どう頑張っても眠ることなどできない。
◇ ◇ ◇
真昼の太陽が通り過ぎ、西の空に傾く時間になってもペーターは戻ってこなかった。
そのあいだ俺は何をするでもなく、今にも崩れ落ちてきそうな
風が吹き始めて
あの面倒な相方がいなくなってしまうと、ここでは本当に何もすることがない。
◇ ◇ ◇
夕暮れが近づき、赤い陽が窓の下に長い影をつくる頃になってもペーターは戻ってこなかった。何度か捜しに立とうとしたが、その煩わしさを思って実行には移さなかった。
喉が渇いてきた。ペットボトルはもう空だ。だが午前中に仕掛けた水が出来あがっている。中庭の『浄水場』へその水を回収するために、そこに至って俺はようやく重い腰をあげた。
「……」
中庭で俺が見たものは、無残に破壊された『浄水場』の跡だった。
水を溜めるためのビニールはずたずたに切り裂かれ、ペットボトルは原型を留めないまでに潰されていた。その破壊された『浄水場』を、俺はしばらく呆然と眺めた。誰の仕業かは見当がついたが、それについて思い巡らせるだけの余裕はなかった。
荒涼とした西の地平に太陽は沈もうとしていた。色づいたその残光を受け、さんざめく泉の
「……」
きらきらしく輝く銀色の断片の合間に、水を吸って膨張したカロメが浮かんでいるのを眺め、俺は大きく溜息をついた。全身がばらばらになるような脱力のなか俺が感じたのは、怒りではなく絶望だった。
けれどもその絶望という言葉にはすぐに疑問符がつく。絶望? 絶望とは何だろう? この期に及んで俺はいったい何に絶望しなければならないのだろう?
もう夜が近かった。やらなければならないことが幾つもあるような気がした。だが俺はいつまでもその場から動くことができなかった。
――夕陽に照り輝く泉を眺めながら。顔の見えない何かに、全身がばらばらになるような深い絶望を覚えながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます