017 集団催眠(4)

 小屋にこれといって用事はなかったから、立ち寄らずにそのまま大学へ向かおうかとも思ったが、よく考えれば服が昨日のままだった。せめてシャワーくらい浴びていこうと扉の前に立ち、そこで問題が発生した。


「……ない」


 ジーンズのポケットに入っているはずの鍵がなかった。どこかで落としたとしか考えられないが、生憎と昨日は色々あってどこで落としたか見当もつかない。


 ……あるいはペーターの家だろうか。可能性としてはそこが一番ありそうな気がする。そう思い、電話をかけに上へあがろうとして――鍵がなかったことを思い出した。


 それに……そうだ。もし鍵があったとしても。


「……駄目だ」


 肝心の電話番号がわからない。当然、高校の頃には部の連絡網があったが、今はもう捨ててしまって無い。あいつがヒステリカに入ったあとも、あえて聞き出そうとはしなかった。……日頃、邪険にしてきたツケがこんなところで回ってきたのだと、俺は思わず頭を抱えた。


 と、そこでさっき見送った黒塗りの外国車がまた家の前に滑りこんできた。パワーウィンドウが開いて、運転手が顔を出す。


 申し訳なさそうな表情で、「お嬢様からです」とオハラさんは言い、窓から大振りの黒い携帯電話を差し出した。


「鍵のことか?」


『え? あ、はい! 鍵のことです』


 電話の内容は、ベッドメイキングをしていたエツミさんが鍵を見つけたということだった。ペーターには何度か鍵を渡して先に小屋を開けてもらっていたので、それがここの鍵だとすぐにわかったらしい。


 『オハラさんに折り返し届けさせます』というペーターの申し出を、俺は断った。この人にこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない。


 鍵は練習が始まるまでにどこかで彼女から受けとればいい。そういうことで、問題は一応の決着を見た。


「……どうも。ご面倒おかけしました」


「あ、いえいえ。どうも、こちらこそ」


 俺が差し出す携帯電話をぎこちない笑顔で受け取ると、帽子を浮かせて軽く頭をさげ、窓を開けたまま車は走り去っていった。


 去り際にオハラさんが見せた、何とも言えない微妙な表情が頭に残った。……おそらく、俺も似たような顔をしていたのだと思う。


◇ ◇ ◇


 大学に着くと時刻はちょうど昼食時で、学食の前には長い人の列ができていた。遅くに朝食をとったことで腹はあまりすいていなかったので、俺はそのまま交流会館に足を運び、談話室を覗いてみた。けれどもそこに隊長たちの姿はなかった。……朝のことをきちんと謝っておきたかったのだが仕方ない。気を取り直し、人でいっぱいの交流会館の前で、俺は今朝の分の発声練習を一通りこなした。


 朝練をさぼった後ろめたさを払うため、いつもより長い時間をかけて日課を終えた。学食の前の行列はもうすっかり片づいていた。今なら中はだいぶ空いているだろう。盛んに腹筋を動かしたおかげでそろそろ空腹を覚えかけていた。だが何となく一人で昼食を食べる気にはなれなかった。そこでふと、昨夜の出来事が思い出された。俺の足は自然と現場である庭園へ向かった。


 突き抜けるような夏空の下、庭園はいつに変わらない平和な姿を晒していた。午後の授業はもう始まっていることもあり賑わっているというほどでもないが、遅い昼食をとっている者もいればベンチで仮眠している者もいる、よく見慣れた学生たちの憩いの広場だった。


「やっぱり……か」


 血痕などどこにもなかった。昨日のことを思い返しながら、俺は白いコンクリートを丹念に調べてまわった。けれどもそこに、あの惨劇を証明するものは何ひとつ残されていなかった。やがて俺は諦めて木陰のベンチに座りこんだ。昨日何度も世話になった例のベンチだった。


 それからしばらく、俺は木洩れ日の向こう側に昨夜の風景を眺めた。ペーターとの台詞の掛け合い、地平に隠れようとする夕陽の色、風の匂い、そうした記憶をひとつひとつ呼び起こして、眩しい陽光に照らされる舞台に昨夜の出来事を再現した。


 赤い夕陽を背に、少女は汗にまみれ一心に演技の練習をしていた。完全に役に入りこみ、近づく俺に何の反応も示さなかった。羨望と嫉妬を覚えた。衝き動かされるままに、俺はその演技に割って入った。濃密な時間があった。その時間の中で、俺は少女と共に『向こう側の世界』に足を踏み入れた。そしてそれは一瞬で終わった。奇跡にも似た芝居の幕切れに、一発の銃弾が俺の左手を貫いていった――


 そのときの感覚を、俺は手に取るように思い出すことができた。……というよりも、一夜明けた今もまだ生々しい感覚がはっきりと残っている。当然といえば当然だった。銃を扱う上での役作り――あるいはその一環としての模擬戦闘の中で、銃弾に切り裂かれる痛みを何度となく想像してきはした。けれども実際にそれを体験したのは初めてだったのだ。それは想像を遙かに上回るものだった。


 ……いや、正確には違う。想像していたものとは次元が違っていた。単なる痛みではなかった。被弾したことを信じられない気持ち、自分の意思とは関係なく震える手、身体を巡る血が徐々に失われていく実感。そして最後には失神。……それは俺が今まで知り得なかったすべてであり、また知りたいと願っていたすべてでもあった。だからこそ、それは素晴らしかった。朝ペーターに告白した通り、昨夜の事件は俺にとって素晴らしい体験だった。ここ数日に起こった不可解な出来事は、俺をその境地に導くための伏線だったとさえ思えた。


 けれども――そこまで考えて俺は幾つかの矛盾に気づいた。不可解な出来事といえば、今朝アイネが朝練を無断欠席したことも充分に不可解な出来事といえた。それはある意味、ラジオから奇妙な放送が流れることや、ないはずの銃弾に手を撃ち抜かれるのと同じくらい不可解な出来事なのだ。もし一連の出来事が昨夜のためにあったとするなら、今朝のあれは蛇足ということになる。……もっとも、よく考えればすべてが伏線だというのもあまりに都合のいい話ではある。そんな展開が現実にあると考える方がナンセンスなのかも知れない。


 もう一点。俺が体験した痛みに疑問があった。俺は今まで、銃弾に貫かれる痛みをできるだけリアルに想像してきた。本は何冊も読んだし、ずっとそのことを考え続けてきたと言っても嘘ではない。けれども昨日の痛みは、想像していたものとはまったく違っていた。飽くなき研鑚のたまものと一度は考えた。だがそこには明かな矛盾がある。想像に想像を重ねてどうしても得られなかった感覚を、その想像により生み出されたはずの演技の中で、いったいどうして体験できるというのだ……。それはパラドックスだった。いくら考えても結論は出ないので、俺はそのうちに考えるのを止めた。


 思索から抜け出した俺の目に照りつける陽光と、それを受けて輝く木々の緑が映った。今にも蝉の声が聞こえてきそうな、誤魔化しのない夏の風景だった。……もう終わったことをあれこれと思い悩んでいるのがばかばかしくなり、俺はベンチを離れ、その風景の中に進み出た。


 庭園を歩きながら来るべき舞台を思い、そこで俺はようやく『焦り』を感じることができた。本番まであと三日半しかないという事実が、俺の心に混じりけのない『焦り』を掻き立てた。それは舞台を迎えるたびに感じていた、何かしていないといられないような『焦り』だった。その『焦り』を感じながら、俺は安心した。深く考えることなど何もないのだと思った。


 予定より半日長くかかったが、隊長に与えられた自由時間を、俺は有効に活用することができた。ともあれこれで、日曜日の舞台に普段通りの気持ちで臨むことができる。そんな感慨に浸りながら歩く俺の目に鮮やかな色が入った。艶やかな着物に身を包んだ少女――いつか見た隊長の妹が日溜まりのベンチに腰かけていた。


「あ、お兄様」


 俺に気づくや、晴れやかな笑顔を向け彼女はそう言った。俺は固まった。聞き違えたのだと思った。だがそんな俺に追い打ちをかけるように、彼女は不思議そうな顔をして、「どうしたんですか? お兄様」と言った。


「目が……悪いとか?」


「目? 私の目ですか? いいえ、悪くなんてないですよ。両目とも野生の獣なみです」


「へ……へえ。そうなのか。それは凄いな」


 眼鏡のかけ忘れとか、そういうことでもないようだった。それを確認して俺の混乱はさらに深まった。……隊長のことを尊敬はしている。だがあの特異な風貌には常々疑問を感じていたわけで、あれと間違えられるというのは強い衝撃であり――言葉は悪いが屈辱ですらあった。


「どこをどう見れば俺を……お兄さんと間違えたりするんだろうな」


「何言ってるんですか。私がどうしてお兄様を別の方と間違えたりするんですか? 実際こうしてお兄様は――じゃなかった」


 そこで彼女はしまったという顔をして手を口に当てた。端正な顔が見る見るうちに真っ赤に染まっていった。


「ああっ! 間違えました! ごめんなさい! ごめんなさい! どうか今のは無しにしてください! お願いします!」


 紅潮が臨界に達したところで彼女はいきなりそう捲し立てた。昼寝をしていた男が飛び起きるのが視界の端に映った。


「こ……声がでかいって」


「本当に! 早とちりしただけなんです! 全然そんなつもりはなかったんです! ですからどうか今のは無しに!」


「わかった……わかったから」


 俺は彼女の傍まで寄り、ほとんど手で口を塞ぐようにして必死に勢いを止めた。その甲斐もあってか、彼女はすぐに落ち着きを取り戻し、幼い子供のような上目遣いで「本当に無しにしてくれます?」と言った。


「……ああ、無しにする。約束するから」


「絶対ですよ? 約束しましたからね?」


 そう言って右手の小指を差し出してくる。何て古風なことを……。そう思いながらも俺は同じように右手の小指を差し出し、驚くほど細くしなやかな彼女の指と絡めた。


「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ます、指切った」


 もう半分忘れかけていたフレーズを共に口ずさんで指を離した。そこで彼女は気持ちを切り換えたのか、最初の笑顔でまたにっこりと微笑みかけてきた。


「これでもう問題ありませんね」


「ああ。もう何の問題もないな」


 どういった基準で俺を隊長と取り違えたのか聞いてみたい気はしたが、やはり止めておいた。もうあれはなかったと指切りをしたから、あれはなかったことなのだ。それに、風貌に関して隊長と似たところを実の妹の口から克明に告げられるというのも……それはそれで恐ろしい。


「ハイジさん……でよろしかったですか?」


「え? あ、はい。そうだけど」


 そう言ってしまってすぐ本名を言えば良かったと後悔したが、まあいいと思い敢えて訂正はしなかった。ハイジの名はこの前の用事とかのあとで隊長が教えたということなのだろうか。コードとはいえ一度しか顔を合わせていないのにちゃんと覚えてくれていたのは、正直、少し嬉しかった。


「隊長の妹さん――は、名前なんていうの?」


「私ですか? 私はクララです」


「ク……」


 思わず絶句した。またしても聞き違えたのかと思った。


「……クララ?」


「はい。クララです。よろしくお願いします」


 そう言って彼女は慇懃に一礼した。からかわれているのかとも思ったが、彼女の目はどうもそうは言っていなかった。……コードということなのだろうか。団員にはその名を使えと隊長に言い含められたということならわかる。しかしクララとは……。あの隊長のネーミングにしてはなかなか気が利いている。


「ペーターがここにいればな」


「え? 誰ですかそれ」


「いや、何でもない。クララね。もう覚えた」


「はい。クララと呼び捨ててもらって構いません。私はハイジさんと呼びますね、ハイジさん」


 そう言ってクララはまた笑って見せた。こうして会話するのは初めてだというのに屈託がない。一昨日、交流会館に隊長を呼びに来たときはずいぶんと冷たい印象があったが、やはりあのときは緊急の用事とやらで急いでいたということなのだろうか。


 ベンチに並んで座る俺たちを道行く人々がちらちらと横目に見ていく。理由は言うまでもない。白地に赤い椿をあしらった袖が短い着物は、詳しくは知らないが小袖と呼ばれるものだろうか。服装に頓着しない朴念仁の多いこの大学構内において、隣に座る少女はいかにも艶やか過ぎる。


「クララは、ここの学生?」


「いいえ、違います」


「だろうと思ったけどな。今まで見なかったし。なら普段は何やってる人なの?」


「普段はお父様……いえ、お兄様のお手伝いをさせてもらってます」


「隊長の? 何の手伝い?」


「済みません。それはお兄様に口止めされていますので……」


 そう言ってクララは申し訳なさそうな顔をした。隊長の謎に迫る良い機会だと思ったのだが、そういうことなら仕方ない。あの人も聞かれたくないようなことを言っていたし詮索は慎むべきだろう。俺は彼女自身のことに話題を移すことにした。


「敬語使ってくれてるけど、普通にため口でいいよ。隊長の妹さんってことは、歳も同じくらいだと思うし」


「そんなことできません。目上の方ですし、それに私はお兄様よりはずっと年下ですよ?」


「……そのあたりは見ればわかるよ」


 話し始めたときからそうだったが、いまいち会話が噛み合っていない気がする。俺と同じくらいかと言ったのに隊長を引き合いに出すことはないだろう。抜けているというのではないが、少し変わった子なのかも知れない。あの隊長にしてこの妹ありといったところか――などと少し失礼なことを考えた。


「それにしても、隊長から妹だって聞かされたときは驚いた」


「え? どうしてですか?」


「顔とか全然似てないから」


「それはそうでしょうね。母親が違いますし」


「げ……やっぱそうなのか」


「はい。でもお兄様は、私にとってたった一人のお兄様ですよ?」


 隊長が言い渋った理由がよくわかった。そんな理由があるなら無理はない。これ以上踏みこんではならないと思った。俺は急いで別の話題を探した。


「クララはここの学生じゃないんだよね」


「はい。違いますよ?」


「それなら今日はどうしてここに?」


「……そうですね。名残を惜しむためでしょうか」


「え?」


 クララの表情がわずかに憂いを帯びた。穏やかな夏の風が黒髪をそっと揺らしていった。


「もうすぐここにも来られなくなりますから」


「それは……どこかに引っ越すということ?」


「はい。そんな感じになります」


 腑に落ちるところがあった。彼女は隊長の手伝いをしているという。その彼女が引っ越すということは……つまり、そういうことだ。隊長が今回の舞台で引退する理由も、その辺にあるのかも知れない。引退したあとも隊長はヒステリカに顔を出してくれるものと高をくくっていたから、クララの話は俺にとってショックだった。


「そうか……残念だな」


「え? 何がですか?」


「隊長が引っ越すのが残念。あ、いや……クララもだけど」


「残念なんてことありません。いつでも会えますよ」


「そういうわけにもいかないだろ。……そうだ。今度の舞台は観に来てくれる?」


「いえ、観るというか、それには参加しますから」


「参加……!?」


「え? あ、はい……裏方で」


「裏方って……何の?」


「そ……その、メイク」


 そう言ってクララはまた上目遣いで見つめてくる。メイクの裏方……。メイクに裏方がいるのだろうか。今回の舞台で途中でメイクを変更するような演出はないから最初だけだ。ドーランを塗って、アイシャドウ、ハイライト、ローライト……それで終わりだ。俺のメイクに補助など必要ない。ひょっとしてアイネたちには必要なのだろうか? 控え室はいつも別だから、そちらの事情まではわからない。しかし――


「月曜日が裏方の会議だったんだけどな。出席してなかったけど、隊長から聞いてなかった?」


「それが……その、急に頼まれたんです。お……お兄様に」


「なるほど」


 そういうことなら何か新しい展開が持ちあがったのかも知れない。メイク補助が必要なものというと想像がつかないが、隊長のことだからまず間違いはないだろう。


 そこまで考えて、俺は隣に座る少女に向かい右手を差し出した。


「どうかよろしく。一緒に頑張って、いい舞台にしよう」


「え? は……はい!」


 俺の差し出した右手を、クララは両手で握りしめた。その慌てた様子が可笑しくて笑いそうになったが、もちろん笑わなかった。彼女と一緒に作る舞台は、これが最初で最後。文字通り一期一会の舞台だ。その大切な舞台をおろそかにはすまいと、彼女と握手しながら俺は強く心に刻んだ。


「おやあ? これはこれは」


 ――聞き慣れた声が感動のシーンに水を差した。DJだった。

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