329 巡礼者のキャラバン(10)

 声のした方に目を遣ると、藍色の闇の中にアイネの顔が浮かんでいた。表情はよくわからない。不安げにこちらを窺っているようにも、気遣ってくれているようにも見える。


「……キーがない」


「鍵?」


「クルマの鍵だよ……って、そうか。わからないのか」


 アイネが一緒に探してくれれば俺が見落としていたものが見つかるということも――にわかに胸に湧きおこったそんな期待は、けれども怪訝そうな顔で「鍵?」と問い返してくるアイネを前に立ち消えになる。つまりはそういうことだ。アイネの中には「鍵」という概念がないのだ。


 ……いや、あるにはある。部屋の扉には鍵をかけているのだから、「鍵」という概念そのものがないわけではない。


 ただ、施錠と開錠を切り換える携帯可能な用具としての「鍵」がない。さらには車のエンジンを始動するためのイグニッションキーとしての「鍵」はもっとない。だから今ここでそれを探しているという俺の台詞に、何を言っているかわからないというような声と表情が返ってくるのだ。


 ……ここでアイネにその違いを解説しているような時間はない。それはつまり、俺の要求に応じて文句のひとつも言わずここまで着いてきてくれたアイネに、俺は今なにが問題になっているのか説明することさえできないということだ。


 それで、俺はまた激しい脱力に襲われた。ややもすれば膝から崩れ落ちてしまうような、重苦しい脱力だった。


「……ああ、くそ!」


 苛立ちに任せて――と言うより居ても立っても居られず、俺はハンドルに拳を叩きつけた。


 焦りのためだろうか、ハンドルに打ちつけられた拳はかすかに震えている。やがてその震えが腕から全身に伝わってくるのを他人事のように感じながら、自分の意識が絶望に塗りつぶされてゆくのがわかった。


「くそ……」


 もう一度、今度は息だけで呟くような弱々しい悪態がこぼれた。


 ここまでたどり着いておきながら、このまま何の役にも立たず退き下がらなければならないことが悔しくてならなかった。そしてそれ以上に、ほとんど災難に近いこの強行軍に何も言わず付き合ってくれたアイネに顔向けができなかった。


 ……それでも、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。


 未練を断ち切るように、俺は力いっぱい奥歯を噛み締めた。それから大きく息を吸って吐くと、ジープから降りるために身体の向きを変えた。


 開いたままのドアに手をかけ、覗き込むようにしていたアイネと目が合った。その唇が動いた。


「――わたしも手伝う」


「え?」


「その鍵っていうもの探すの、わたしも手伝う。それがどういうものか教えて」


「いや――」


 反射的に、俺は断りかけた。


 どうせ探しても見つからない。俺たちはもう戻らなければいけない。今朝方の指示通りあの部屋に集まったあいつらが今や遅しと俺が現れるのを待っている――そう言葉に出しかけて、けれども俺はそれを言葉にできなかった。


「……」


 路地裏の乾ききった闇の中に、燃え立つような眼差しがじっと俺を見据えていた。生真面目で融通のきかない性格をそのまま映したようないかにもアイネらしい強い眼差し――その眼差しが、俺にその言葉を吐くことを許さなかった。


「……小さくて細長くて、平べったくて先にぎざぎざがついているやつだ」


 代わりに、気がつけば俺はそう返していた。そんな俺の返事に、アイネは食い気味にまた質問を投げかけてくる。


「小さい、ってどれくらい?」


「そうだな……長さは中指くらい」


「平べったいっていうのは?」


「これくらい」


 言いながら俺は指先で厚さをつくってアイネに突きつけて見せた。その指先を見て一瞬寄り目のようになったアイネの双眸が、再び俺に向けられる。


「後ろの席は俺が探すから、アイネは前の方を探してくれ」


「わかった。探してみる」


「ああ、頼む」


 そう言って俺はシートの間をすり抜け、運転席に乗り込んでくるアイネと入れ違いに後部座席へとまわった。


 それから俺たちは無言のまま、ほとんど手探りで鍵を探しはじめた。


 耳が痛くなるような静寂の中に、四つの手が車内のそこかしこをまさぐる音だけが響いた。もっとも一人で探すなかで後部座席の側も一通りならず探してあったから、俺にとってそれはそこに鍵がないことの確認作業でしかなかった。


 望みがあるとすればアイネの目だった。俺とは別の視点で観察することで、俺が見落としていたものが見つかる可能性がある。そんな淡い期待を胸に真っ暗なジープの中を探し続け――だが五分もしないうちに俺の中では期待よりも焦りが上回るようになった。


 ……いや、アイネと共に探しはじめた直後にはもう、俺は自分が誤った決断を下したのではないかという思いに苛まれていた。


 ――見つかるはずがない。一度も鍵を見たことがないという人に、しかもこんな暗闇の中でそれを探せというのだからどうかしている。こんなことをしていても見つからない……鍵など見つかるはずがない。


 貴重な時間を不毛に費やしているという気持ちが蘇り、急速に自分の内側を埋め尽くしてゆくのがわかった。けれどもアイネに頼むと言ったその舌の根も乾かないうちに探すのをやめるわけにはいかなかった。


 せめてアイネの気が済むまでは……そんな言葉を盾に無駄とわかっている作業を続ける自分に段々と苛立ちが募り、その苛立ちの矛先は熱心に鍵を探し続けるアイネにまで向けられた。……それがまったく理不尽な八つ当たりに過ぎないということはわかっていても、一度胸に湧きおこった苛立ちは容易に消えてはくれなかった。


 だがそうして十分近くも探し続け、それまで休みなく動いていたアイネの身体が運転席で動かなくなったとき、俺の心象は苛立ちを通り越してほとんど燃え尽きたようなものになっていた。


 ……やはり鍵などなかったのだ。


 あそこで切り上げておけばという思いと、アイネに無駄な仕事をさせてしまったという思い。おまけにこれからあのビルまで歩いて帰らなければならないという思いが綯い交ぜになって、徒労感はいやが上にも募った。


 ……ともあれ、これ以上時間を無駄にはできなかった。断腸の思いだがジープを諦めて帰投することをアイネに提起しなければならない。そう思って俺は重い口を開きかけた。


 前方からアイネの独り言のような声がかかったのは、ちょうどそのときだった。


「ねえ、これじゃない?」


 そう言ってアイネは俺の前に右手を差し出した。


 暗闇の中に目を凝らして見る――アイネの親指と人差し指の間に挟まれていたのは、確かに俺の言ったとおり細くて薄っぺらくて先の方がぎざぎざしたものだった。


 ……だが、それは鍵ではなかった。何に使うものだろう、刃の一部が波形になった小さなペティナイフのようなものだ。


 前方座席は俺もしっかりと探したという自負があっただけに、いったいアイネがどこからこれを見つけだしてきたのかという思いはある。……だが、鍵ではない。少なくともそれは俺たちが探していた、このジープを動かすためのキーではない。


 そのことをアイネに伝えようとして――けれども、俺はそうすることができなかった。


「……」


 ナイフを俺に差し出すアイネの指は震えていた。ちょうど今朝、銃創を消毒するためのウイスキーの瓶を俺に差し出したときのように……いや、あのときよりもずっと激しく。


 そこではじめて、俺はアイネの目を見た。


 ――思わず息を呑んだ。それはの眼差しだった。必死ではなくだ。文字通り、アイネは自分の見つけ出したものが俺が探し求める鍵であることに命を懸けて臨んでいる……はっきりとそれがわかって、逆に俺の方は意表をつかれたような感じになった。折からの焦燥がふっと軽くなるのを感じた。


 詳しいことなど何ひとつ説明していないこの作業にどうしてアイネがそこまで真剣になってくれるのだろう。そんなごく当たり前の疑問が浮かび上がってきて――だがその疑問はほぼ同時に頭にのぼったひとつのに打ち消されることになる。


「……」


 ――これがキーだ。


 天啓のように降りてきたその思いつきは、たちまち俺の意識を支配することになる。


 衝き動かされるまま俺はアイネの手からそれを受け取った。指の間に挟んだそれを目の前にかざし、改めてまじまじと眺めるうち、胸の奥に生まれたばかりの妄想じみた考えが急速にそのを増してゆくのがわかった。


 ……そう、ここは劇の中だった。すっかり忘れていたそれを、俺は今さらのように思い出した。


 弾丸の入っていない銃で人が殺せる世界で、いったい俺は何を悩んでいたのだろう。そう思いながら俺はシートの間を抜け、運転席の側にまわった。アイネが困惑したようにドアを開けジープから降りるのがわかったが、そんなことはどうでもよかった。


 暗闇の中にイグニッションキーの穴を探し、そこに鍵を挿し込んだ。わずかな抵抗はあったが、通常の鍵のようにそれは中程まで穴に納まった。サイドブレーキを確認し、クラッチペダルをいっぱいに踏み込んだ。そのまま鍵を回そうとして――そこで、俺は指を止めた。


「……」


 ――ここは俺がこのジープを動かすべき場面シーンだ。を考えれば、そのことに間違いはない。


 民族大移動を成し遂げるために偉大なる預言者を演じよとの協力者の提言。そのための不可欠な要素としてその協力者が用立ててくれた舞台装置と、なりふり構わぬ相棒の尽力。俺が隊長としてはじめての指令を出す機会を目前に控えたこの状況でそれらがもたらされたことを思えば、ここで俺がことは絶対に許されない。


 そう――そうだ。その通りだ。俺は今ここでこのジープをのだ。


 そんな思いを胸に、俺は小さく息をついた。そして祈るような気持ちではなく、これまで何度も繰り返してきた演技をなぞるような気持ちで、ゆっくりと指に力を込めた――


「うぉっしゃ、ビンゴっ!」


 セルモータの音に続いて一発でエンジンがかかった瞬間、俺は思わず雄たけびのような声をあげていた。


 バイク泥棒がハサミでキーを回すのと同じ要領でエンジンがかかったのか、あるいは演劇の中だからという理由でそうなったのかわからない。


 わかっているのは今ここでジープにエンジンがかかったということ――それだけで十分だった。


「乗れよ!」


 ドアの外に立つアイネに呼び掛けた。アイネは一瞬、驚いたように俺を見上げ、それから後ろのドアを開け後部座席に乗り込んできた。


「なんで後ろなんだよ! 隣に来ればいいだろ?」


 緊張が解けたせいか半分笑いが混じるおかしなテンションで俺はもう一度アイネに呼びかけた。けれどもアイネはふるふると首を横に振るだけで答えない。


 やがて首だけ後ろにまわして見つめる俺の視線から逃れるように、アイネは俯き小さくなってしまった。そこでふと、彼女にとってこれが車というものに乗るはじめての機会なのだということを俺は思い出した。……なるほど、はじめて乗るのであれば助手席に座ることに抵抗を覚えるのも無理はない。だが、それにしても――


「アイネがいてくれて、本当に助かった」


「……」


「やっぱり俺、アイネがいないと駄目みたいだ」


 バックミラー越しにアイネを見つめながら、最大限の感謝を込めて俺はそう告げた。ある意味、告白よりも気恥ずかしいその言葉は、けれども掛け値なしの俺の本音だった。


 弾かれたように頭をあげ、どう反応していいかわからないというような顔でこちらを見るアイネがバックミラーの中に浮かんだ。もう見間違えようもない、それはアイネが嬉しいときの顔だった。


 アイネが俯き、その顔が見えなくなってしまうと、俺はバックミラーから前方の闇に目を移した。


 沸々と気持ちが昂ってくるのを感じた。これで俺は、最高のかたちで彼らの前に立てる。


 そんな思いを胸に、俺はハンドルに手をかけた。……マニュアル車を運転するのは自動車学校を卒業して以来。乗り慣れないジープに、石ころだらけの廃墟。見通しの効かない路地を抜けてゆくのにライトを点灯させることもできない。よもやここまできて事故るようなへまをするわけにはいかない――


 逸る気持ちを抑え、ブレーキを踏み込みながらサイドブレーキを解除した。そしてクラッチのを確認しながら、ゆっくりと慎重にブレーキをアクセルペダルに踏みかえていった。

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