004 舞台という非日常へと向かう日常(1)
「さっきのとこだけどさ、もう少し軽くした方が良くない?」
午前九時の構内。ゆっくりと強まりゆく陽射しの中をアイネと二人、共通教育棟に向かい歩いている。そろそろ一限の始まる時刻だが、のんびりと教室に向かう人影は俺たちばかりではなく、往来のそこかしこに見てとれる。
「さっきのとこ、ってどこよ?」
「こっそり逃がしてくれるとこ。あれじゃまるで古典の大詰めみたいな印象になると思うんだけど」
大方どこもそうらしいが、大学というのはだらけた場所だ。時間ぴったりに講師が現れ、学生の顔を逐一確認しながら出席をとるような授業もないわけではないが、大半は数年分の過去問を丸暗記すればどうにかなる。出席をとるところであっても紙がまわってくるまでに席についていればそれで丸く収まる。『可』で構わない人間にとって授業開始の刻限は、どうでもいい友人との待ち合わせ時間ほどにも意味を持たないのである。
「何の問題もないだろ。俺らの絡みは徹底的に詩的にしろって、御大もそう言っていたし」
「笑劇とのコントラストでしょ? そのあたりは理解してるけど、でもさすがにあれだと使う場所、限られてこない?」
「そいつを間違えなければいい。使う場所さえ選べば結構効くと思うぞ、あれ」
「そう。ならいいか」
即興劇団『ヒステリカ』の一日は発声練習で始まる。朝も早くから文化系サークルの溜まり場である交流会館の前に集い、「あめんぼあかいなあいうえお」といった意味不明のフレーズを連呼するわけである。
別に決まりでやっていることではなく、あくまで自主練の延長という位置づけなのだが、欠員が出ることはほとんどない。発声を一日休めば取り戻すのに三日かかるというのは、少しまじめに演劇を囓ったことのある者なら誰でも知っている事実だし、自宅に一人きり近所迷惑を恐れながら声を出すのも味気ない。そうした理由で我々は、たとえ授業のない日でも――あるいは自発的な休講を心に決めた日であっても、朝練には顔を出すのである。
だが舞台を間近に控えた今、そうした朝練の意味合いは多少違ったものになっている。そこでは発声ばかりでなく、劇に組みこまれるねたの擦り合わせが行われる。
近世のヨーロッパに隆盛した演劇形式「コメディア・デラルテ」の流れを汲む我が劇団の信条は、簡単な筋書きに沿っての即興芝居なのだが、その場の思いつきだけで最後まで観客を飽きさせない掛け合いを続けるのは不可能に近い。だから予め観客の興味を惹くねたを仕こんでおく必要があり、今はその調整と、ひとつでも多くの材料を揃えるための努力に余念がないのである。実際、古の欧州に活躍したデラルテの役者たちも、そうしてねたを用意して舞台に臨むのが普通だったようだ。
今朝は俺とアイネ、キリコさんとペーターがそれぞれ組になって練習した。そのあとキリコさんは研究室に帰り、ペーターと隊長は大道具を製作するために残った。大道具はあと愚者のねぐらであるコンクリートの土管を作ればすべて揃う。ハリボテの骨を組むにあたって、どうしても宿主の身体が必要だという隊長の主張に、ペーターは素直に従った。もちろん中に入ることなどできないから、傍目には滑稽に映るのだろうが、そんな隊長のこだわりが俺は嫌いではない。
「リカに午後のこと言っておいてくれる?」
「まだ話してないのか?」
「まさか。隊長から話が出たときに伝えてあるし、昨日も帰ってから電話しておいた」
「それなら大丈夫だろ」
「でも一応ちゃんと確認しといて。忘れてるといけないから」
「昨日の今日で忘れるか?」
「それがリカという女だから」
「そうか。なら言っておくか」
本当ならば俺も大道具を手伝いたかったのだが、一限には語学が入っている。他のどの授業をさぼっても語学にだけは出なければならない。俺の選択はスペイン語で、リカとは同じ教室の同じ授業だ。代筆の相互協力も検討したのだが、語学ばかりはリスクが高すぎるということで意見が一致した。学部学科を問わず、すべての学生が目の色を変えてまじめにとり組む授業――それが語学という科目である。
「ところで、聞いてみた?」
「ん?」
「昨日のラジオ」
「ああ――あれか」
昨夜の放送が生々しく耳に蘇り、俺は思わず語尾を濁した。ラジオはあれから三十分以上も常軌を逸した内容を喋り続け、唐突に終わるや当たり障りのない音楽番組に取って代わった。耳に届く声がDJのものでなくなったのを確認し、電源を切ってから眠りに就くまで、何とも言えない気分が抜けなかった。
「お気に召さなかったわけだ」
「え? そうじゃない。……いや、そうかも。何というか――」
「何というか?」
「――異様だった」
「そっか。異様か」
あのラジオのことを忘れていたわけではなかった。むしろ忘れようとしても忘れられず、朝練の間もずっと気に掛かっていた。それでもその話題を自分からアイネに切り出す気になれなかったのは、ひとつには適当な感想を口にできる自信がなかったからだが、もうひとつには俺が耳にしたものが幻聴か何かではないかと疑う気持ちがあったからだ。
……だがどうやらあれは幻聴ではなかったようだ。そしてアイネの口振りからすれば、あれはあれで正しい内容ということらしい。
「よくわからなかった」
「どこらへんが?」
「特に後半。俺のセンスじゃとてもついていけない」
「そう、それは残念」
「どうしてアイネが残念がるんだ?」
「あの話題で盛り上がれる仲間が増えたと思ったのに」
「無理だな。DJには悪いがもう二度と聞く気がしない。俺には合わない」
「なら仕方ないか」
素っ気ない口調でアイネは呟くと、それきり黙ってしまった。……つきあいの長い俺には、これが拗ねたことを示すポーズであることがわかる。アイネはわりとつまらないことでへそを曲げる。今回の場合はさしずめ、自分が良いと言って薦めたものが俺に貶されたのが気に入らないのだろう。
「……まあ、聞けって言うなら聞くよ。たまたま昨日のが合わなかっただけかも知れないし」
「無理して聞けなんて言ってないけど?」
案の定、アイネの返事には棘が混じる。俺は内心に溜息をつき、慎重に言葉を選んだ。
「たまにはそういう話題で盛り上がるのもいい。俺たちが喋る内容、どうも演劇に偏りがちだからさ」
「当然でしょ。わたしたちの間に演劇のこと以外、何かある?」
「ないけど」
――この通り、とりつく島もなくなるのである。
◇ ◇ ◇
とっくに授業が始まっているはずの時間だったが、教室の中はひどくざわついていた。黒板の前はもぬけの殻だ。リカはいつも通り最後尾の席に座り、指の上でシャーペンをくるくると回していた。
「まだ教授来てないのか?」
「見ればわかるでしょ。どこにいるのよ」
「小テストを取りに帰ったとか」
「いきなり来といて不吉なこと言わないで。本当にそうなったらハイジ君のせいだからね」
「あのな。劇団と関係ないところでその名を出すなって言ってるだろ」
「どうして? ハイジ君。何か問題でも? ハイジ君。アイネはいつもそう呼んでるのに贔屓ですか? ハイジ君」
「……わかったから。もうそれでいいから」
「わあ嬉しい。これで今日から気兼ねなくハイジ君のことをハイジ君と呼べるのね」
「リカの口から『気兼ね』なんて言葉を聞く日が来るとは思わなかった」
「何言ってるの。私から『気兼ね』という言葉を抜いたら何も残らないよ?」
「ああ、そう。そりゃ結構」
元々ハイジという名前が気に入らないこともあるが、劇団外の人間からコードで呼ばれるのはおぞましいものがある。こういうときアイネやキリコさんのように、愛称がそのままコードに採用された人のことを心から羨ましく思う。
だがまあ、今となっては受け容れるより他ない。ヒステリカの関係者にとって俺はハイジであり、それ以外の誰でもない。俺が結婚するとき連中はみな『ハイジが結婚する』と言って騒ぐだろうし、死んだら死んだで『ハイジが死んだ』と言って泣くのだ。俺はこのハイジという冗談のような名前から生涯逃れられない運命なのだ。
「で、ハイジ君は今朝もアイネと仲良くお芝居の稽古?」
「そうですが、何か?」
「いいえ、何でも。ただもう夏だな、って」
「夏がどうかしたのか」
「第一問。夏といえば?」
「かき氷」
「惜しい。正解は海です。夏といえば海。では第二問。海といえば?」
「山」
「不正解。真面目に答える気あんの?」
「ない」
「海といえばそう、水着! 水着に決まってるじゃないですか。この夏はアイネの悩殺ボディ拝みまくりでしょ? 夜はあれを縦にしたり横にしたりですか? いやあ、いいなあハイジ君は。このこの」
一瞬脳裏に浮かんだ悩ましい映像を追い払い、否定の意味をこめて俺は小さく鼻を鳴らした。
「あのな、どうして俺がアイネと海になんぞ行かなきゃならんのだ」
「またそんなこと言って。お姉さんは誤魔化されませんよ?」
「誤魔化してなんかいないっての」
「てゆうかさ、ぶっちゃけそのへんどうなのよ?」
そう言ってリカは耳に手をかざしてこちらに近づけてくる。俺はそれにのった振りをして顔を寄せ、唇をすぼめてふっ、と息を吹いた。
「あんっ!」
リカの甘い声が響き、教室の面々が一斉にこちらを振り向いた。
「ばか! 変な声出すな。恥ずかしいやつだな」
「何よ。変な声出させるようなことしたの、そっちじゃないの。もう怒ったからね。アイネにこのこと、言いつけてやるんだから」
「好きにしてくれ。俺は一向に構わないし」
「本当に言うからね! 耳に舌入れられたってちゃんと言うからね!」
「おい、それはいくら何でも尾鰭つけ過ぎだろ」
小声での応酬を続けるうちに教室は元に戻っていた。元よりどれも知らない顔だが、さすがに今の遣り取りは恥ずかしかった。こんなことをしていては、俺とリカの間にあらぬ噂が立ちかねない。そんな俺の思いをよそに、リカは幾分真摯な口調で、「本当に何もないの?」と問いかけてきた。
「だから、何がだよ」
「アイネのこと」
「ああ、天地神明に誓って何もない。あいつと俺の間に演劇のこと以外、何もあるはずがない」
「……向こうはそう思ってないだろうけどね」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も。それならあれ? ハイジ君はあの美人の先輩とつきあってるの? それとも一年生の可愛い子?」
興味津々といった感じで身を乗り出して尋ねてくるリカにいい加減うざったさを覚えた。悪気がないことはわかっているのだが、そのぶん余計に
「前にも言ったと思うけどな、うちは団内の恋愛は御法度なの。そういう関係になったら揃って追放されるの。わかる?」
記憶に間違いがなければ、リカには都合三回この話をした。そのたびに彼女は「はいはい」と適当な相づちを打ちながら聞き流していた。だが今回、リカは流そうとも茶化そうともせず、憐れむような目つきでじっと俺を見つめてきた。
「何だよ。何かおかしいのか?」
「おかしい。まだ律儀に守ってるの? あんな陳腐な規則」
「うちにはうちの事情ってもんがあるんだよ。それをよそ様にとやかく言われたくないな」
「へえ、よそ様ですか。それじゃ日曜日は大変だなあ。私の代わりに誰がやるのかなあ、衣装の裏方」
「ぐっ……」と呻いて俺は詰まった。軽率な発言だった。今度の公演にリカは裏方として協力してくれることになっている。「裏方も舞台の一部」とは隊長の口癖だが、裏方なくして舞台が成り立たないことは厳然たる事実である。そのように考えれば、公演に向かう今このときにおいて、リカもまた『ヒステリカ』の一員に間違いないのだ。
「……取り消すよ。でも規則については悪く言わないでくれ。あれはあれで有効に機能してるんだ」
「別に悪くなんて言ってないよ。普通じゃないと思ってるだけ」
「普通じゃないかな、やっぱり」
「うん、普通じゃない。あんな時間的に密なところにうら若い健全な男女を押しこんで、それで恋愛するなだなんて、そんなの異常に決まってるでしょ」
「まあ、そう言われりゃそうかも知れないけどな……」
俺は口ではそう返した。だが本当は言われるまでもない。そんなことはこっちの方が遙かに強く思っている。
即興劇団『ヒステリカ』規則第一条、団内の恋愛を固く禁ずる。右に違反した者は即刻退団。規則、以上。
初めて聞かされたときの衝撃は未だ胸に残っている。それがリカの言うように異常な規則であることも――ただでさえ特殊なことをやっているうちの過疎に拍車をかけていることもわかりすぎるほどわかっている。
……いつかは改めることになるだろう。俺が隊長を襲名して最初にする仕事がそれになるかも知れない。だがとりあえず、今ここでそれをどうこうできないのもはっきりしているのだ。
「第一、そんな規則も破れないような思いじゃね……」
「何か言ったか?」
「さあ、幻聴でしょ。……ねえハイジ君、そういうことなら紹介しようか?」
「ん? 何を?」
俺の悩みを酌んだのかリカは浮ついた笑顔に戻り、気安い口調で話しかけてきた。
「恋人に決まってるじゃありませんか。要するにハイジ君は今、フリーってことなんでしょ?」
「まあ、フリーと言えばフリーだけど」
「実はですね、ハイジ君の演技を観てときめいてしまった子が知りあいにいるんですよ。これがなかなか可愛い子でして」
「へえ、そりゃ光栄だな。女の可愛いほどあてにできないものはないけど」
「あてにしてくれていいよ。本当に可愛いから。で、どうよ? ハイジ君さえよければセッティングするよ? 向こうからも頼まれてるし」
なかなか魅力的な話だった。俺の演技を観て興味を持ってくれたというのは物語的には申し分ないし、過去の経験からしてリカの可愛いはそれなりにあてになる。恋人いない歴も記録を更新中である。ありがたく厚意を受けたい気持ちは山々なのだが――
「やっぱ遠慮しとくよ。その子には適当に謝っておいて」
「どうして? 私の紹介だと不安?」
「そんなことない。嬉しいよ、素直に。でもどうせ長続きしないんだ」
「演劇があるから、ってこと?」
「そういうことになるな。今の隊長がいるだろ? あの人もうすぐ辞めるんだけど、今度は俺が隊長になるんだよ。そうしたらいよいよ忙しくなる。朝から晩まで劇団のために走りまわって、恋人がいてもろくに構ってやれない。だからまあ、演劇に深い理解がある人じゃないと長続きしない」
「ふうん。そうか」
リカは残念そうに溜息をついて机の上に頬杖をついた。教室からは人が立ち退き始めている。休講なら休講と予め言ってくれればいいのだが、事前の掲示もなしに授業が休みになるのは、そう珍しいことでもない。
「それなら、駄目じゃん」
「ん?」
「劇団内は規則で駄目。劇団外でも駄目。いつまで経っても恋人できないよ? ハイジ君」
「……そうだな。駄目だよな」
そう返すしかない。俺にはいつまで経っても恋人はできないだろう。それを恨む気持ちがないわけではないが、恋愛はしなくとも充実した日々は送っているわけで、それはそれでまあいいのか、と悟りとも諦めともつかない心境で俺は生きている。
「そんならさ、私が立候補してもいい?」
「ん?」
「ハイジ君の恋人」
「嫌だ」
「うわ、瞬殺」
「というか、あいつと兄弟になるのだけはご免だ」
「そっか。あーあ、振られちゃった」
リカはそう言って大きくひとつ伸びをすると、傍らに置かれた鞄を手に立ち上がった。
「帰るのか。一緒に昼でもどうだ? 今なら学食すいてると思うし」
「振っといて優しくするのは、どうかと思うよ?」
最後に一度だけ振り返り、なぜか少しだけ寂しげな笑顔を残してリカは教室を出ていった。
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