003 ノイズ(3)

「……ふう」


 火の元の確認と戸締まりを済ませたあと、俺は部屋に戻り寝台に突っ伏した。嗅ぎ慣れた臭いに混じって、ほんのりと大人しい香水の香りがした。キリコさんがつけていったものだ。


「慌ただしかったな……それにしても」


 朝からぶっ通しで練習だったのはいいにしても、終わってからのあれはこたえた。わずかに残った気力を根こそぎ搾りとられた思いだ。……キリコさんは飛ばしていたし、ペーターは危なかった。アイネだけがいつも通り飄々としていた。


 もっとも慌ただしかったのも無理はないのかも知れない。公演までもう一週間をきったのだ。きっと彼女たちも色々と溜めこんでいるに違いない。


 今回の舞台はコンセプトが明確なこともあり不安は少ない方だが、それでも本番が近づくにつれ否応なくボルテージは高まってゆくものだし、そのネガとしての弊害もどこかに出てきてしまうものなのだ。とりわけ我々のような小規模の劇団では、本番が近づくほど互いの気持ちを慮るようにしなければ、とても成功は覚束ない。


 けれども仲間たちを送り出し、一人寝台に横たわる俺の脳裏に浮かぶものは、いつになく緊迫したさきほどの食事風景ではなかった。許されない失敗がのそりと鎌首をもたげ、ゆっくりと頭の中に侵入してきた。


 ……本当は吹っ切れてなどいない。あんな無様な失敗をそう簡単に忘れられるはずがない。


◇ ◇ ◇


「こちらが命懸けで捕らえたものをむざむざと……。お偉方はいつもこうだ。納得できる理由も告げずに、ただ不条理な要求だけを押しつける。いったい兵隊とは何なのだ? 俺たちの誇りはどこにあるというのだ……」


 すっかり暗くなった廃車置き場に兵隊は独白を続けている。博士は少し離れた場所で取り返せなかった手紙について思い悩んでいる。愚者は品定めをするように兵隊を眺めながら、そのまわりをぐるぐるとまわっている。


「俺が欲しいのは金ではない。名誉でもなければ権力でもない。欲しいのは誇りだ。この町の人々のささやかな暮らしを守っているという、そんな小さな誇りが欲しいだけなのだ。そう、たとえこの身は彼らから愛されなくとも――いち、いちち!」


 愚者は兵隊の前に回りこみその両頬をつねって大きく引きのばす。「何をする!」と言って突き飛ばそうとする兵隊。それをひらりとかわして離れる愚者。


 神妙の面もちで「間違いない」と呟いたあと、愚者はおもむろに向きなおり、両手を広げて兵隊に駆け寄る。


「お待ちしておりました!」


「な……な……」


「ああ会いたかった。このお姿を思って枕を濡らさない夜はありませんでした」


「何を言ってるんだ君は! 放せ! 放さないか!」


「お腹の子もすくすくと育っています。二人の愛の結晶が実ろうとしているのです」


 必死で引き離そうとする兵隊と、執拗にまとわりつく愚者。やがて俯いていた博士がもの憂げに頭をあげる。


「なんだ。貴官が孕ませたのか」


「孕っ……! 滅相もありません! 兵隊である自分が、こんな年端もいかぬ少女をどうこうするはずが……!」


「ほう。胸が小さいのは駄目と?」


「はっ! いえっ! そういうことでは……」


「何を言ってるんです。『胸の小さい女は感度がいいと言うが本当だな』とか言いながらさんざん弄んでおいて、今さらですか?」


「なっ……! そんなこと言ってないだろ!」


「『そんなこと言ってない』って、どういうことだと思います? 先生」


「全体としての状況があったことは認めた上で、その一部の状況を否認しているようだな」


「そっ……! 誘導尋問じゃないか、こんなのは!」


「誘導尋問って何ですか? 先生」


「言葉巧みに誘導して事実を引き出す尋問方法だ。どうやら年貢の納めどきのようだな。貴官も男ならとるべき責任をとりたまえ」


 呆然とする兵隊の肩を叩き退場する博士。残された二人はゆっくりと向かい合い――


「ああ本当に! 本当にずっとお待ちしておりました、『』」


◇ ◇ ◇


 ……あそこで俺は、どう反応すべきだったのだろう? 場違いな言葉などなかったかのように進めることもできたはずだ。あるいは戯けた調子で両手を広げ、『ああ俺も待っていたよ、後輩』でも言えばよかったのだろうか。それとも――


 次々と浮かびあがってくる未練がましい可能性を、俺は頭を振って追いやった。……問題はそんな些末なところにあるのではない。


 結局は――俺が役に入りきることができていなかったという、ただそれだけのことなのだ。


 あそこでああ言えば良かったとか、もっとこうすべきだったとか、そんな発想自体、俺が役に入りきれていない何よりの証拠なのだ。もし完全に役に入りきれていれば考える必要などない。何も考えなくても俺の口は正しい台詞を吐く。ついさっきまで仲間たちと気の置けない会話をしていたように。


 あのときペーターは『向こう側の世界』にいた。俺が台詞に詰まり隊長が駄目を出したあとも、彼女の瞳はしばらく不思議そうに俺を見つめていた。『先輩』という言葉にしたところではっきりと『向こう側の世界』で紡がれたものだったのだ。ペーターは愚者としてその台詞を吐いた。それは言ってみれば、何かの拍子で『こちら側の世界』からひょっこりと顔を覗かせたものに過ぎない。完全に立ち往生してしまった俺とはわけが違うのだ。


 もう何年も前から俺の心に巣食っている葛藤。ずっと叶えたくて、叶えられないでいる夢。


 いったいどうすれば、俺は『向こう側の世界』に入りきることができるのだろう……。


 ふと思い出して時計を見た。既に十時をまわっている。俺は慌てて寝台から飛び起き、机の上に置かれたラジオの電源を入れた。


「たしか、平安京だったな」


 チューナーのつまみを少しずつ回してゆく。やがてノイズが切れ、たしかにどこかで聞いたことのある陽気なバリトンが耳に届いた。


『――わけで、話を戻せば、前衛芸術としての音楽の来し方、行く末についてだったかな? 前衛――前衛という言葉が市民権をえてからずいぶん経つけど、最近は嘲笑的な意味で使われてるのをよく耳にするようになりました。前衛という言葉に思い入れがある僕にとって、これはちょっと寂しいことです』


「本当にDJが喋ってるよ……」


 新鮮な驚きというより、敗北感に似た愕然とした印象を受けた。本当にあのDJが喋っている……。それもベテランのように慣れた口調で気持ちよさそうに。


『まあそれでも、そう呼ばれる作品の方にも問題はあるのかも知れない。目につくのは前ばかり衛って後ろがお留守というものばっかりだし。前衛芸術という文化は、すでに爛熟を通り越してしまったという声もあります』


 喋っている内容はいかにもあいつが好みそうな蘊蓄だった。いつかのゲームで河川敷の藪に潜伏していたとき、こんな話を延々聞かされ続けた記憶がある。結局、あのときはこいつの声が大きすぎて敵に捕捉され、奇襲は敢えなく失敗したのだ。


『しかし! そんな中でも頑張ってる人たちはいるんです。ダダイズムの魂を受け継ぐ、真に前衛的な音楽を発信し続ける集団「メイソンズ」。いや僕、大好きなんですよ本当に。彼らに出会ったから今の僕がいる。そんな台詞が自然に出てくるほど尊敬しちゃってます。ちょっとノイズィな曲だけど、耳を澄ましてよく聞いてみて下さい。メイソンズの新譜から、心を震わせるとっておきの断片――』


「ん?」


 DJのバリトンが消え、ラジオからノイズが流れ始めた。……電波がおかしくなったのだろうか? でもそれにしては唐突すぎる。


 チューナーのつまみに指を伸ばそうとして、ノイズがぐわんと波打つのを聞き動きを止めた。耳を澄まして聞いてみれば、スピーカーから流れるノイズは揺らいでいた。潮騒のようなリズムを打ったかと思えばゆっくりフェイドアウトし、消え入ろうとする瞬間から急速に大きくなる。


 ひょっとして――これが曲なのだろうか。


「ノイズィというか……ノイズだろこれ」


 狐につままれたような気分で、それでもしばらくその雑音に耳を傾けた。


『――いかがでしたでしょうか。僕は初めてこれを聞いたとき鳥肌が立った。さきほど聞いていただいたところの中盤、ホワイトノイズからピンクノイズへの転換。……あそこが最高です。本当に素晴らしい。そのへんの繊細さに、メイソンズならではの職人芸を感じるわけです』


「本気で言ってるのかな……。この男」


 ホワイトノイズとピンクノイズの違いなんて素人にわかるものか。そんなこちらの感想などお構いなしに、DJは朗々とアナウンスを続ける。


『ええメールが届いています。ラジオネーム「蝶々夫人」さん。伝統音楽が好きでよく聞いています。歴史ある音楽には昔の人たちの思いがこもっているのでしょうか、独特の暖かみがあって聞いていると心が癒されます。食事の時間に聞くことが多いのですが、同じ曲ばかり毎日かけていたので夫に注意されてしまいました。反省しています』


 ……意外にもリスナーはまともなようだ。この手のものに関しては辛口なアイネが面白いと言っていたのだから、きっと熱心なファンもいるのだろう。ただアイネは面白いと言ったあとに何かつけ加えていた気がする。ええと、彼女はたしかあのあと――


『――そうですね。新しいものばかりが前衛じゃない。古いものの中に斬新さを見出すことは、きっと正しい。そうして見出されたものは地に足をつけた文化であり、同時に最先端の芸術であると言えます。それでは蝶々夫人さんのリクエストで、ソウルフルな癒しの曲。名前のない古の調べをお届けします――』


 と、DJの紹介に続いて、幾重にも重なり合う地を這うような男声の斉唱がラジオのスピーカーを震わせた。何となく耳に馴染みのあるそれはソウルフルというよりむしろ――


「と言うか……読経だろこれ」


 よく聴けば……いや、よく聴かなくてもそれは読経以外のなにものでもなかった。夫という人の悲哀が身に染みた。こんなものを毎日飯どきに流されたら百年の恋も冷める。第一、名前のない曲をどうやってリクエストしたのか……。


 そこで思い出した。アイネは言っていた。『結構面白いよ。内容は滅茶苦茶だけど』と。


 滅茶苦茶というか――滅茶苦茶だった。俺には少しばかりシュールすぎる。電源を切るつもりで、ベッドから起きあがった。


「……ん?」


 途端に念仏が止み、ノイズが戻ってきた。今度こそ電波の調子がおかしいのだろう。そう思いチューナーのつまみに指を伸ばそうとして、さっきと同じように動きを止めた。


『……された死者は十六名。予後不良により処断した者……名を含む』


「……?」


 ――ノイズに混じってDJの声が聞こえる。だがそれはさっきまでアバンギャルドについて語っていた朗らかな声ではなかった。いつもの惚けたような声でもない。


『……三名の死体を除いて実弾は確認されず。……による死者と……られる。実弾による死者は何れも……との交戦中に負傷。一名は腹部に被弾。……は背骨で止まっており……』


「何だ……これ?」


 死者の数と死体の状況について語るDJの声は、それまでに聞いたことがないほど冷静で淡々としたものだった。音の向こうに、ノートを読みあげている沈鬱な表情さえ見える気がした。


『……内臓の損傷が甚だしかったため、予後不良と判断して処断。この処断は……にて胸部を撃つことにより実行。一名は頭部に被弾して即死。弾丸は口腔内から摘出。眼窩から……に抜け、頭蓋骨の内周に沿って数回めぐった後、口腔に……たものと推定。一名は胸部に被弾。弾丸は――』


 俺は電源を切ろうとラジオに伸ばした手を下ろすのも忘れ、親しかったはずの友人の声に聞き入った。その声が再び陽気なものに戻り、シュールで愉快な蘊蓄を語り出すのを待った。


 だがそれきり放送は元に戻らなかった。DJは二度と前衛的な音楽について語らず、延々と無機質な死のルポタージュを続けていた――

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