002 ノイズ(2)

 練習を締めるや、所用があるとかで隊長はすぐに帰ってしまった。


 最近、隊長はどうも私事が立てこんでいるらしくいつもこの調子だ。一応は引き留めるキリコさんと、それをやんわりと拒絶する隊長のやりとり。これもすっかり見慣れたものになった。そして残る面々が形ばかりの許可を求めたあと、俺の居室である二階にあがって行くのもいつに変わらない『ヒステリカ』の活動風景である。


◇ ◇ ◇


「しかしあの男もたまには親睦を深めよう、って気にはならないのかねえ」


 ワインを底に少し残したグラスを天井に吊られた裸電球にかざして、キリコさんは少しだけ寂しそうに呟いた。


「忙しいなら仕方ないでしょ。何してるか知らないけど」


「というか、前からずっと聞きたかったんですけど、隊長って何してる人なんですか?」


 アイネの呟きを受けて、ペーターが誰に尋ねるでもなくそんな質問を投げかける。


 テーブルには朝食かブランチに相応しい料理が並んでいる。バジルをあえたカッテージチーズに、鮭と玉葱のマリネ。食べやすい大きさにスライスされたライ麦パン。洋食の惣菜屋でアルバイトをしているアイネが、期限ぎりぎりのものを持ってきて家の冷蔵庫に保管してあったものだ。我々の会食に並ぶ食材の多くは、彼女がそうして持ってくる惣菜で賄われる。


「そんなのこっちが聞きたいもんだね。あたしなんか十年近くもあの顔とつきあってるのに何も知らないんだ。まったく胡散臭いったらありゃしない。きっと裏じゃ人倫にもとる犯罪に手を染めてるに違いないよ」


「臓器の売買とか?」


 いつものしれっとした顔でそんな物騒な言葉を口にするアイネに、キリコさんはひらひらと手を振って応えた。


「いや、そんな生やさしいものじゃないはずだ。もっとこう、誰からも呪いの言葉を浴びせかけられるような、飛びきりことに夜な夜な精を出しているのさ」


「そうなのかなあ。私、隊長は変わった人だと思うけど、人の道に外れるようなことはできないと、そう睨んでるんですが」


 空になったキリコさんのグラスにワインを注ぎながら独り言のようにペーターが呟いた。


 アイネが持ってくる食材との取り合わせの要請上、この小屋の地下には数本のワインが常備されている。これはどれもみなペーターが家から持ち出してきたものだ。


 アイネが偉そうに語るところによれば、「ハイジが飲んでも味のわからないものばかり」とのことだが、実際その通りで、コンビニで売っている一本千円のワインの方が、俺にはよほど美味しく感じられる。


「甘い甘い。そんな風に簡単に男を信じてたんじゃろくな目に遭わないよ。特にああいう秘密で身を固めたような男はねえ。あの手の男に惚れたら最後、身も心も捧げ尽くして、本当の名前すら教えてもらえないまま終わり、ってなことになりかねない」


「そう言えば私、隊長の本名まだ知りません」


「あたしだって知らないさ。知らない方がいいんだよ、そんなもん」


 千切ったパンを皿に戻したあと、俺は小さく溜息をついて軽妙な会話を続ける二人から視線をはずした。


 そこでアイネと目があった。どうやら俺が押し黙っている理由がわかっているようだ。白けたような瞳が言外に俺を責めているように感じられた。俺はもう一度溜息をつき、頭の後ろを乱雑に掻きむしった。


 言いたいことはよくわかる。いつまでも引きずっていても仕方ない。練習での些細な失敗など、さっぱりと水に流してしまわなければ――


「先輩、今日はずいぶんと静かですね」


「ん?」


 気がつけばペーターがとした目で俺を見つめていた。アイネは既に何事もなかったかのように食事に戻っている。


「さっきから何をそんなにじっと見つめているんですか?」


「いや、何も見てないけど」


「嘘です。アイネさんの顔を見てました」


「ああ、ちょっとな。口のまわりがえらいことになってたから」


 きっ、とペーターが頭を向けるのと、アイネが涼しい顔でナプキンを口にあてるのが同時だった。ペーターは視線を俺に戻し、一層疑わしげな目で俺を見つめた。


「秘密の臭いがぷんぷんするんですが」


「思い過ごしだ」


「不公平じゃないですか。私は先輩に何も隠し事なんてしてませんよ?」


「だからないって」


「だったらどうして――」


「ああ、だめだめ。そんなことじゃ」


 いつもの茶番に嵌りかけたところでキリコさんが横槍を入れてきた。もうだいぶ飲んでいるのだろう、頬がほんのりと赤く染まっている。もっともこの人の場合、飲んで変わるのは頬の色くらいなものなのだが。


「今日は練習でハイジにだいぶきついこと言ったけどね、どうせだからペーターにも今までずっと言わなきゃ、って思ってたこと言っておくよ。いいかい? 愛しい男のお情けをいただきたいと思ったらね、そういう繰り言を口にしちゃいけないんだ」


「……そうなんですか?」


「そうなんだよ。男が何やってても見て見ぬ振りして、何聞かされてもわからないような顔してなきゃだめだ。そういう寛容な心が女には一番大切なのさ。ペーターは可愛い顔してるんだから、それさえ身につけりゃ男なんていちころだよ?」


「……わかりません。一番大切なのは思いの深さだと私は思います」


 ペーターは沈んだ表情をそのままに、けれども真剣にキリコさんの話を聞いている様子だった。蚊帳の外に脱出できたのを幸い、俺は溜息をついてパンを囓る作業に復帰した。


「そこをとり違えちゃいけないのさ。深い思いは大切だけどねえ、ひとたびボタンを掛け違うとそいつは不快な重荷になっちまうんだよ。ペーターに何より必要なのは、信じて手を離すことだとあたしはそう思うね」


「でも、手を離したら、どこかへ飛んでいってしまいます」


「そうしたら所詮それだけの関係だった、ってことさ。男はね、幻想を持ってるんだよ。都合のいい女の幻想をね。そいつをうまく演じてやるのが本当のいい女ってもんだ」


「裏切られても黙ってろ……ってことですか?」


「突き詰めればそうかも知れないね。まあ、早い話が鎖で縛ろうとするのは逆効果ってことさ。男は何より縛られるのを嫌うんだよ。そのへんをよく覚えておかないと、いい女を演じてたつもりが、どうでもいい女になってたなんてことも、まるでないとは言えないからねえ」


 言いたいことをすべて言い終えたのかキリコさんは満足そうな表情を浮かべ、「で、何の話だったんだい?」と俺に問いかけてきた。


「キリコさんがいい女だって話ですよ」


 半分呆れて、もう半分は本気で俺はそう返した。俺が今までどうしても言えなかったことを、いともあっさりと語り聞かせてしまった。


 たしかにペーターがキリコさんの言うような『いい女』だったなら、俺はもうとっくの昔に城をあけ渡していた。こういう助言を嫌味なくやってのけるキリコさんは、やはりいい女というべきなのだろう。


 だが何の気ない俺の返事にキリコさんは嬉しそうに微笑むと、隣に座るこちらの身体に甘やかにしなだれかかってきた。


「あら、そう言ってくれるのかい? 嬉しいねえ。あたしもあんたのこと、ずっと前から憎からず思っているんだよ?」


「あのですね……キリコさん」


「そんな他人行儀な呼び方は止めておくれ。キリコでいいよ。あたしはハイジのためならいくらでも都合のいい女になれるよ。だからどうか優しく可愛がっておくれ」


 そう言ってキリコさんは愛おしむように俺の肩に頬を寄せてきた。俺は内心にやれやれと思った。あれしきのワインでキリコさんが酔うなどということはありえない。だから今のこれも擬態に違いないが、こんなことをされたらただでさえややこしいものが一層ややこしくなる――


 そこまで考えたところで、右の向こう脛に痛みを感じた。思わず声をあげそうになるのをどうにか堪える。角度からすると蹴ってきたのはアイネのようだ。憮然として向きなおると、相変わらず淡々と食事を続けるアイネの横に、能面のような表情を貼りつけたペーターの顔があった。


 俺は即座に危険を悟り、ペーターに気づかれないようにそっとキリコさんの背中を叩いた。


「あ、なんだか眠くなったね。今夜はここに泊まっていっていいかい?」


 やはり酔ってなどいなかったのだろう。それだけでキリコさんは事情を察したらしく、俺にすがりつくのを止めて席を立った。そのまま部屋の隅に置かれた寝台に倒れこむ。ばふっ、と乾いた音が聞こえた。


「ああ、やっぱりねえ。ハイジの臭いがするねえ」


 あけすけな一言にまたもひやりとさせられたが、凍りついていたペーターの表情がゆっくりと元に戻っていくのがわかり、内心に胸を撫で下ろした。


 ――こういう席にはやはり隊長がいてくれないと困る。何も喋らず、ただ座ってくれているだけで構わないから。


 俺は真剣にそう思い、魂を吐き出すように大きく深い溜息をついた。


◇ ◇ ◇


「そろそろ帰る」


「ん?」


 自分の皿を片づけて戻ってきたアイネはそう言って荷物を肩にかけようとした。


「まだ早いだろ。用事でもあるのか?」


 今ここにキリコさんとペーターを残して去って行かれるのは正直ぞっとする。だがアイネはそんな俺の訴えを聞きつけたかのように寝台に向かうと、軽い寝息を立てていたキリコさんを抱き起こした。


「あれ……? アイネちゃんじゃないか。なんだい……あたしはここで寝てくよ」


「いいけど、論文の中間発表が近いんじゃなかったの? 今夜も徹夜だ、とか言ってた気がするんだけど」


「う……。嫌なこと思い出させてくれるね。そうだった」


 キリコさんは立ち上がると自分が使った食器を重ね、流しの方に歩いていった。


「ラジオ聞きたいから」


「え?」


「もう帰る理由。聞きたいラジオがあるから」


「へえ、どんな」


「待宵グラス」


「聞いたことないな。どこの局?」


 俺がそう問い返すと、アイネは不審そうな目で俺を眺めた。


「DJが喋ってるラジオだけど?」


「え……? DJって、あいつのこと?」


「他に誰がいるのよ」


「嘘!? あいつ、本当にDJやってたの!?」


「呆れた。いつもあんなに仲良さそうにしてるのに。親友じゃないの?」


「いや……少なくとも親友でないことはたしかだけど」


 そう言いながらも俺は、唐突に明らかにされた事実に驚きを隠せなかった。自称変態ディスクジョッキー。サバイバルゲームに夢中のモラトリアム青年だと思っていたあいつに、そんな実像があったとは……。


「79.4MHz。平安京」


「え?」


「覚え方は平安京と一緒」


「ああ……もう覚えた。79.4MHz」


「十時からだから聞いてみれば? 結構面白いよ。内容は滅茶苦茶だけど」


 下からキリコさんの催促する声が聞こえた。「それじゃ、また明日」と言い残してアイネは階段を降りていった。


「……知ってたか?」


 俺の問いかけに、ペーターは無言で首を横に振った。


◇ ◇ ◇


 テーブルの上をすっかり片づけてしまってから、ペーターは甲斐甲斐しく食後の紅茶を淹れてくれた。久し振りに発作を起こしかけたあとなので予想してはいたのだが、ティーカップを手にじっとこちらを見つめたままいつまでも動こうとしない。


 時計の針は左上に垂直を作ろうとしていた。みんなでいるのならまだ宵の口といった時間だが、二人きりでいる時刻としては十分に遅い。もうそろそろ、お嬢様には屋敷にお帰り願わなければならない。


「今日はキリコさん、やけに饒舌だったな」


「……そうですね」


 ペーターの表情はもうすっかりいつもの柔らかなものに戻っている。だが安心はできない。今回はキリコさんの機転でどうにか踏みとどまったが、もう一歩で決壊していたことは経験的に間違いないのだ。


「先輩を元気づけてくれてたんですよ、きっと」


「え?」


「失敗して落ちこんでたじゃないですか、先輩。食べてるときもあまり喋らなくて。だからきっと元気づけてくれてたんだと思います」


「……そうか。そうかもな」


 そうかも知れない。ペーターに絡まれていつもの茶番に陥りかけていたとき口を挟んできたのも、ともすればキリコさんなりの気遣いだったのかも知れない。


 もしそうだとすればアイネに気遣われ、キリコさんに気遣われ、そして今こうしてペーターに気遣われている俺は、実に不甲斐ない人間だ。


「きっとそうですよ。私たちのお芝居は気持ちが大切ですし、先輩が元気でいてくれないと、いい舞台なんて絶対にできませんから」


「うん。お陰様でもう吹っ切れた。大丈夫だ」


「そうですか。良かった」


 そう言ってペーターは嬉しそうに笑った。キリコさん評するところの『可愛い顔』だ。まあたしかに男である俺の目から見てもペーターは可愛い。これまでに何度かこの笑顔に屈しかけたというのも、抗えない真実である。


「ねえ、先輩」


「ん?」


「一緒に聞いていったら駄目ですか?」


「何のことだ?」


「さっきアイネさんが言ってたラジオ」


「ああ、あれか」


 向かいに座るペーターはじっとこちらを見つめている。DJが喋るのは十時からだとアイネは言っていた。何時に終わるのか不明だが、十時の時点で既に少女を留めおくには遅すぎる。そう思い、口に出そうとして――けれどもすぐに拒絶の言葉を吐くのが躊躇われた。


 考えてみれば今日ペーターが追いつめられたのは俺のせいだ。それが理由で一度は壊れかけ、どうにか持ち直した笑顔にもうしばらくつきあうのは、慕われる先輩としての義務なのかも知れない。


 それに、いずれにしたところで彼女にかけられた魔法は、この窓の下に黒塗りの車が停まればそこで解けてしまうのだから――


「……いや、時間みたいだ」


 折しも路地に車が滑りこんできたところだった。ハザードランプが点滅し、運転席から地味なスーツ姿の男がのそりと出てくる。俺の姿を認めると彼はいつものように恭しく一礼してみせた。


「残念だけど、ラジオを一緒に聞くのは無理だな」


「……待たせておけばいいんです。先輩も気づかない振りをしてください」


「駄目だ。もう目が合ったし、お辞儀までされた。あまりオハラさんを困らせるな」


「……わかりました。じゃあ、失礼します」


 ペーターはそう言って静かに席を立ち階段を降りていった。何度も頭を下げながら後部座席のドアを開ける中年と、無言のまま乗りこむ少女。


 やがてヘッドライトが路地を明るく照らし、重厚なエンジン音を残して車は夜のしじまへと消えていった。

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