327 巡礼者のキャラバン(8)
決意をこめて宣言する俺の視線の先で、
またしても俺が一度も見たことがない、『信じられないものを見るような目』という形容そのままの目でしばらく俺を見つめたあと、何かを思い出したように慌てて顔をそむけた。
「あ……あたしが言いたかったのは、あくまでそういった選択肢もあるんじゃないかってことだよ。そんな簡単に呑まれちまったんじゃ、どう反応していいかわからない」
怒ったような声でそう言ったきり、キリコさんは口を閉ざした。そんな彼女に、逆に俺の方がどう反応していいかわからず、ただ黙ってその横顔を見守った。
そう……確かにキリコさんの言う通りだ。
役づくりは俺自身の仕事だと確認したばかりだというのに、その根幹に関わる部分について、キリコさんの思いつきをこうもあっさりと受け容れているのだから、我ながら呆れてしまう。
……まったく、俺は何をやっているのだろう。そう思って歯噛みする俺に、さっきよりはいくぶん落ち着いた口調で、けれども追い討ちをかけるようにキリコさんは容赦のない言葉を投げかけてくる。
「あんたの演劇は、『死』が軽すぎる」
「え?」
「『死』ってもんが軽すぎるんだよ、あんたの芝居は。そんなんじゃみんな置いてけぼりだ。観客ばかりじゃない、あたしら共演者にしたって」
「……」
そう言われて、俺はまた考え込んだ。
演劇における『死』の取り扱い――確かにそれは難しいテーマだ。と言うより、おそらく古代から現代に至るまで洋の東西を問わず繰り返し議論されてきた永遠の論題と言っていいだろう。
悲劇におけるカタルシス生成のための『死』、前衛劇における不条理形成のための『死』……演劇の題材としてあまりにもオーソドックスで使い勝手の良い『死』はその実、使い方を誤れば劇そのものを損なう要因にもなり得る。実際、俺もこれまでの演劇生活の中で、安易に『死』を用いることで大きく損なわれてしまった劇をいくつも目にしてきた。
そんな普遍的なテーマであるから、演劇における『死』についてはヒステリカでも議論したことがある。
思い返してみれば、そのときもキリコさんは慎重派だった。『死』は演劇において劇薬に他ならないのだから極力その使用は避けるべきという彼女の主張は、効果が期待できるならむしろ積極的に用いるべきではないかという俺の主張と真っ向から対立した。
あのとき、俺たちはどういう結論に落ち着いたのだったろう……今となってはもう思い出せない。ただ俺としては、今ここでその議論をもう一度繰り返すつもりはない。
それにそもそものところ、問題は俺が『死』を安易に用いようとしたことではないのだ。キリコさんが問題視したのは、『死』を用いるプロットの提案を俺が安易に受け容れようとしたことなのである。
彼女の方でもそれがわかっているのだろう。おもむろにこちらへ顔を向けると、キリコさんは十分に抑制のきいた声で、子供に言い聞かせるように続けた。
「まるっきりなしにしろだなんて言うつもりはないよ。あたしから提案したわけだし、ひとつの選択肢として受け取ってくれりゃいい。けどあたしがそれ口にして、秒であんたが『わかりました、そうします』ってのは違うだろ。そいつはあくまでハイジの役なんだからさ」
「……はい」
「あんたが死んだりしないで連中の価値観を変えられる方法が他にあるんなら、それに越したことはない。そうせっかちにならずに、じっくりと腰を据えて考えてみたらどうだい?」
「……そうですね。そうします」
そう言って、俺は腹の底から大きくひとつ溜息をついた。
この劇についての情報を仕入れようと意気込んで臨んだミーティングだったが、蓋を開けてみれば役者としての自分の至らなさをキリコさんに指摘されるばかりの結果になった。最後のプロットの提示にしたところで、演劇に関する俺の姿勢を試すテストだったようにさえ思えてくる。
……そのテストの結果は、まず不合格といったところだろう。キリコさんもさぞかし落胆しているに違いない。最初に比べるとすっかり口数が少なくなってしまった彼女の様子が、そのあたりを物語っているように思う。
ただ俺に挽回のチャンスがあるとすれば、それはここからの演技だ。演劇についての失敗は、演劇で取り返すしかない――そう思って、俺はもう一度、大きく息を吐いた。そこへ、キリコさんの声がかかった。
「さて、そろそろ質問も打ち止めってことでいいのかい?」
「え? ああ、そうですね……」
聞きたいことはまだ山ほどある気がした。けれども最後のやりとりが濃すぎて、もうキリコさんに何か新しいことを聞こうとする気持ちは湧いてこなかった。
それに最大の問題と位置づけていた脱出計画については、キリコさんからの助言で一応の見通しが立ったのだ。
もちろん、それはあくまでひとつの選択肢に過ぎないし、安易に受け容れるべきものではないということはさっきも確認した通りだ。ただ、『解なし』と思われていたものにひとつでも解が示されたというのは大きい。少なくともここでキリコさんと別れたあと彼らの前に立たなければならない俺にとって、それは大きすぎるほど大きな材料であると言っていい。
ふと肌寒さを覚え、俺は身震いした。
西の空では太陽が死にかけている。空には夥しい星々が姿を見せはじめている。藍色の夜気が廃墟に押し寄せてくるのがわかる。
幕間の打ち合わせも、そろそろ切り上げなければならないようだ。
「――運転教習だけど、夜間教習限定ってことでお願いできるかい?」
「どうしてですか?」
「今はまだ表立って目につく動きをしてほしくないんだよ。あんたたちがそういうことしてるってのを感づかれると都合が悪いのさ」
「誰に?」
「……色んな奴に、だよ。まあ、こっちはこっちで色々あるんだ。そのへんは察しておくれ」
そう言ってキリコさんはふっと息を吐いた。それから思い出したように白衣のポケットに手を入れ、そこから蓋つきのガラス瓶を取り出して俺に差し出した。
「なんですか、これ」
「見てわかんないかい? お薬だよ」
言いながらキリコさんはからからと瓶を振ってみせる。中には錠剤と思しきものが詰まっているようだ。
「何に効くんですか?」
「主に外傷だね。誰かが撃たれたとき飲ませてやっておくれ」
そこまで言われて、俺はようやくそれがあの薬だということに気づいた。ここで初めてキリコさんと会ったとき、息絶えた女の身体と引き換えにDJが受け取っていた薬……。
その薬がきれていたからルードは死ななければならなかった――あのとき彼らは確かにそう言っていた。それはつまり、その薬が命に関わるような傷をも治癒し得るものであるということを意味する。
……だが本当にこの薬にそんな効能があるのだろうか? そう思う疑いの気持ちと、今後の部隊運営に大きな意味を持つであろうそれをタイムリーにもたらしてくれたキリコさんへの感謝。そのふたつが相半ばする複雑な心境で、俺はその薬を受け取った。
「……用法用量は?」
「一回一錠。食中、食間いつでもいいよ」
そう言って穏やかに笑うキリコさんの顔をしばらく眺めていたあと、手の中の小瓶に目を戻した。
そこで俺は、今まさに自分の身体に『治療すべき外傷』があることを思い出した。
心臓の鼓動に合わせ、ずきずきと痛みのパルスを発し続ける左肩の銃創。俺のこの創にも、キリコさんからもらったこの薬は効くのだろうか……。
瓶を眺めながらぼんやりとそう思い、だがすぐに俺は、試してみた方が早いということに気づいた。
瓶の蓋をあけ、一錠を取り出して口に含んだ。そのまま水なしで飲み込む。わずかな唾液とともに飲み下されたそれは、何度も喉につかえながらゆっくりと降りていった。
「どうしてあんたが飲むんだい?」
訝しげな顔でキリコさんがそう言い終わるのと、肩の痛みが消えるのが同時だった。まさに忽然と、そんなものはじめからなかったように痛みが消えたのだ。
はやる手つきでシャツの釦を外し、左肩をはだけてみる――なかった。銃創らしきものは、もうどこにもなかった。
「本当だ……治ってる」
驚愕のあまり声が震えた。
無理もないだろう。腕を上げられないほどの深手だったあの孔が跡形もなく消えてしまったのだ。演劇の中だからと言ってしまえばそれまでだ。だが、実際に自分の身におこった変化を思えば、それは文字通り奇跡のように感じられる。
「あんたも撃たれてたのかい?」
「はい。昨夜の戦闘で。弾丸は摘出できたんですけど、傷口は塞がらなくて」
「弾丸を摘出した――って言ったかい?」
「え? ……ああいや、自分で摘出したわけじゃなくて、アイネに抜いてもらったんですけど」
「そんなこと聞いてんじゃないよ。あたしが聞きたいのは、さっき飲んだ薬で治った銃創に実弾が入ってたのか、ってことさ」
「入ってましたけど、それがなにか……」
にわかに詰問するようなものになったキリコさんの物言いに気おされながら、俺はどうにかそれだけ返した。
キリコさんはしばらく値踏むように俺を見つめていたが、やがて目を逸らして大きく溜息をついた。
「……やっぱりあんたが『特異点』ってことみたいだねえ」
「え?」
「前に連中が言ってた『魔弾』ばっかりじゃない。あんたはこの先も次々とポテンシャルの障壁を乗り越えてゆくんだろうね。おそらく、自分ではそれと気づかないまま」
「……」
「それこそあたしがパートナーにでもなって、ずっと傍に置いて観察させてもらいたいとこだけど、そうできないのが残念だ」
そう言って、どこか寂しそうにキリコさんは笑った。
キリコさんが言っていることの意味の半分も、俺にはわからなかった。ただ、これが彼女との最後の共演になるという事実も相まって、互いにパートナーとして演じられないことを残念に思う気持ちだけがすっと胸にしみこんできた。
俺がキリコさんのパートナーになることはできない。なぜなら俺はアイネのパートナーとしてこの舞台に立っているのだから。
だが、その可能性もあったのだろうか――と、かすかな感傷の中に俺はそう思った。
あのときの隊長の説明が正しければ、キリコさんのパートナーとしてこの舞台に立つ俺もいたはずなのだ。だとすれぱ、この俺がそうなっていたとしても何の不思議もない。
……その可能性もあったのだろうか。俺がアイネのパートナーではなくキリコさんのパートナーとしてこの劇に臨む――そういった展開も、ともすればありえたのだろうか。
「それとも、乗り換えるかい?」
「え?」
唐突に告げられた言葉に、俺は何を言われたのかわからず固まった。
そんな俺に、見慣れた悪戯っぽい笑みを向け、どこまでが本気かわからない挑発するような口調でキリコさんは続けた。
「アイネちゃんとはまだなんだろ? だったらいっそここであたしに乗り換えるのはどうだい?」
「……」
「ハイジもこっち来てからもうだいぶ経つし、まだのアイネちゃんとずっと一緒だったら溜まるもんも溜まってんだろ。あたしだったらお預けになんてしやしないよ。いつだってハイジを受け容れてやれる。なんだったら、このあとすぐにでもね」
「……」
「もちろんそっちばっかりじゃなくて、演劇の方でもね。あたしはあんたを十分に満足させられる自信があるし、あんたのパートナーとして申し分ないはずさ。だから、ここはひとつ思い切ってあたしに乗り換えてみるのはどうだい?」
「悪くない話ですね、それ」
それだけ返したあと、俺はつい
憮然とした顔でこちらを見るキリコさんを後目に笑い続けた。いかにも彼女らしい誘惑の文句に緊張の糸が切れたのかも知れない。
……そう、反動で笑わずにはいられないほど、このキリコさんとの時間は張り詰めたものだった。終始真剣なやりとりの中に、これまで見たことがない彼女の顔を幾つも見せられた。
それでもこうしてあけすけなやりとりの中にこの時間を締めくくろうとしているところをみれば、やはりキリコさんはキリコさんなのだと思った。
「あたしは本気で言ってんだけどね」
「俺だって本気ですよ」
「だったらなんで笑うのさ」
「らしいキリコさんが戻ってきたと思って」
俺がそう言っても、キリコさんはあくまで憮然とした表情を改めなかった。それで俺には、彼女が最後までその路線でいくつもりなのだとわかった。
きわどい言葉で男を惑わす
だがそんな俺の理解を裏切るように、キリコさんはどこか白けた目で俺を見た。それから流れを断ち切るように少し怒ったような声で、「蒸し返すようであれだけどさ」と言った。
「あたしとは、本当に何もなかったのかい?」
「え?」
「ここに来る前にいた場所で、あんたとあたしは、本当にただの先輩と後輩だったのか、ってことさ」
脈絡のないキリコさんの質問に、俺は返答に詰まった。
それがさっきまでの冗談の続きでないことは、いつの間にか自分に向けられていた、心の奥底まで見透かそうとするようなキリコさんの眼差しでわかった。
けれどもなぜ彼女がそんな質問をするのか、それが俺にはわからなかった。ほとんど思考停止のまま、俺は心に思い浮かんだことをそのまま口に出した。
「……そんなの、キリコさんもよく知ってんじゃないですか」
「知らないから聞いてんだよ」
「え?」
「あたしの方ではそのへんの記憶が曖昧なんだ。どうもこの劇に入るとき忘れちまったみたいで」
素っ気ない口調で、何でもないことを言うようにキリコさんは言った。
だが、その言葉が俺に与えた衝撃は小さくなかった。それはまさに、この舞台におけるキリコさんの立ち位置に関する俺の理解を根底から揺るがす一言に他ならなかったからだ。
俺との関係についてはこの劇に入るとき忘れてしまった――それはどういうことだろう。アイネのように向こうでの記憶をすべて失っているということならわかる。ただ、俺との関係についての記憶だけ忘れたということになると途端にわからなくなる。
それは虫食いのように部分的に記憶が消されているということで、他にも失った記憶があるということなのだろうか。それともピンポイントに俺との関係についての記憶だけないということなのか。……もしそうだとしたら、なぜそんなことになっているのだろう。キリコさんの中から俺との関係についての記憶だけ消すことにどんな意味があるというのだろうか……?
……わからなかった。そもそも振り出しに戻ってなぜキリコさんが今さらそんな質問をするのか、そのあたりからして俺にはわからない。
「……」
そこまで考えて――あるいは
こちらの動揺を誘って何らかの情報を引き出そうとするキリコさん一流の
あるいは、単純に俺を担ごうとしているということも考えられる。
期せずして妙にシリアスなものになってしまったこのミーティングの終わりに、盛大に俺をからかってお開きにする――それがキリコさんの狙いだとしたら、そっちはそっちで彼女がやりそうなことではある。
もっともキリコさんにしてみても、おそらく悪意でそうしようというのではない。俺をからかうことで普段通りの空気に戻し、気持ちよく演技に向かえるようにとの気遣いなのだろう。
ただその過程において俺が盛大にからかわれることに変わりはない。そしてキリコさんの方はいざ知らず俺の中であの告白の思い出は、もうだいぶ癒えているとはいえ軽々しく触れてほしくない『傷』なのである。
いずれにしてもこのままキリコさんの思惑に乗るのは癪だった。……ここはひとつかまをかけてみるのもいいかも知れない。そう思って俺は、頭の中で慎重に言葉を選んだ。
「恋人……じゃなかったと思います、けど」
「けど?」
「はっきりした言葉がなかっただけで、恋人がする一通りのことは……その、済ませてました」
気恥ずかしさを押し隠すように、乱暴に頭の裏を掻きむしりながら俺は言った。
そうしてすぐ表情にのぼって来ようとする、この人にこんな演技が通用するものだろうか、という思いを抑えつけながら、おそるおそるキリコさんに顔を向けた。
「……はぁ」
思わず溜息がこぼれた。キリコさんが今にも吹き出しそうな顔で俺を見ていたからだ。
……やっぱり
面白くて仕方ないと言わんばかりのその視線から逃れるように、俺は前を向いた。
半時前の形而上絵画は、もうそこにはなかった。代わりに急速に夜に向かいつつある廃墟が、虚ろな表情で目の前に横たわっていた。
……きれいに落ちもついたことだし、そろそろ潮時だ。そう思って散会を告げるため、俺はキリコさんに向き直った。
「……」
唇にやわらかいものが触れた。
その直後、とざされた瞼と長い睫毛を、息がかかるほどの間近に、俺は見ていた。
反射的に頭を引いた。うすく開かれた唇が何かを求めるように、小さく動くのが見えた。
何が起こったかわからずに呆然とする俺の前で、キリコさんの目がゆっくりと見開かれた。
「嘘つき」
表情のない顔で、独り言のようにそう言ったあと、キリコさんはふっと相好を崩した。
「たぶん、明日にはまた来るよ。できれば追加のジープ用意して」
つまらなそうにそれだけ言うと、「よっ」という掛け声とともにキリコさんは壁から離れた。
そのまま立ち去りかけ――けれども少しも歩かないうちに立ち止まり、こちらを振り返った。
西からの薄明の中にキリコさんの笑みが浮かんだ。その曖昧な笑顔を、俺はぼんやりと眺めた。
「……けど、無理かも知れない。ジープの確保にあんたたちの手助けが必要になる、そういう展開になることも考えられる」
「……」
「臨機応変に立ち回るしかない。文字通りの『即興劇』だよ。……まったく、ふざけた話じゃないか。何の因果でこんな舞台に立たされることになっちまったのかねえ」
そう言って溜息をつくキリコさんに、俺は自分でも気づかないまま失笑をもらしていた。
「何がおかしいんだい」
と、キリコさんは言った。それで、俺は早々に笑うのをやめた。
「いや……俺もここんとこ、ずっと似たようなこと考えてたんで」
「そうかい。ま、同病相憐れむってやつだ」
「
「あんたには期待してるよ、ハイジ」
「はい」
「そんじゃ、アイネちゃんによろしく」
それだけ言い残すと、キリコさんは歩き出した。
廃ビルの谷間に小さくなってゆく黒い影を見送ったあと、俺は西の空を見た。
陽光の残滓は消えかけているが、まだ完全に消えてはいない。そのことを確認し、アイネの待つ部屋に向かうため、俺は足早にエントランスをくぐった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます