208 最後まで演じきるということ(10)

「もしもし、ハイジかい? ……いいも悪いもないさ。ちょうどあんたの声が聞きたいと思ってたところだよ」


 少し鼻にかかった声でそう言うと、電話機を持たない方の手で髪を掻きあげながらキリコさんは息だけで軽く笑った。いかにも芝居がかった仕草だったが、見慣れている俺にはそれが素の演技であることがわかった。


「……そういう意味じゃないよ。ただ声が聞きたかったってだけさ。ここんとこ色々と大変だったんでね。……え? まあそういうことになるかねえ。色々あるんだよ、裏方は裏方なりに」


 溜息混じりにそう言いながらも、キリコさんの声はやはりどこか安心していた。……何だかんだ言いながらもこの人が一番、もう一人の俺からの電話を待ちわびていたのかも知れない。その証拠に言葉を重ねる毎に会話はうち解けたものになってゆき、やがて笑い声さえも混じるようになった。


 そんな様子に俺が――そしておそらく軍曹もようやく時間遅れの安堵を覚え始めたとき、ふとそれまでとは調子の違う一言がキリコさんの口から飛び出した。


「――捕虜?」


 最初にその言葉を口にしたキリコさんの口調は、ちょうど思わぬ人の名前を出されたときその名前を聞き返すような気安い驚きを感じさせるものだった。けれどもそこから急に口数が少なくなり、やがて電話機を持っていない方の手で膝頭にせわしなく指をタップし始めたキリコさんを認めて、少なくとも俺には雲行きが悪い方に変わったことがわかった。


「……何だってそんな気にするんだい? あんたが気にするようなことじゃないよ。あんたが気にしなけりゃいけないことはもっと他に――」


 聞き手にまわったものとみえるキリコさんの言葉からは断片的にしか話の中身が読み取れなかった。けれどもそんな彼女の言葉と、かすかに漏れ聞こえる俺の声の内容とを総合すると、どうやらその会話はやはりさっきの『捕虜』についてなされているもののようだった。


 回線の向こう側にいる俺はあくまで冷静のようだが、こちら側の彼女は徐々にヒートアップしてきているのがわかる。……この展開が決して好ましいものでないことは、俺とキリコさんにまつわる過去の実例が証明している。


「……待っておくれ。そのへんはあたしの領分を超えるんだよ。考えてもみておくれ、曲がりなりにもあの『捕虜』たちは役者だよ? ああいう役割をもってあんたと同じその舞台に立つ役者だ。それを裏方のあたしがどうこうするなんてことは……あれは例外だよ。あんたという役者が舞台に立つまでのつなぎだ。……ばか言わないでおくれ。そんなことできない。いいかい? あんたの言っていることは――」


 ――その問題の『捕虜』をキリコさんはそのままの言葉で、もう一人の俺は『繋がれた女たち』という言葉でそれぞれ呼んでいる。そのキーワードに、初めて彼らのアジトを訪れたあのとき、俺の前に投げ出された裸の死体が脳裏に蘇った。


 キリコさんに袋に詰めろと命じられ、そのまま研究所まで曳いていったあの女の死体……。結局、キリコさんの口からその正体が語られることがなかったあの死体が、いま盛んに交わされている『捕虜』あるいは『繋がれた女たち』と関係するものであるように思えてならなかった。


「……なら打ち合わせが必要だろ。……そう、打ち合わせだよ。舞台に立つなら準備が必要だ。掟破りで裏方が舞台に立とうってんだからねえ。ただし一人で、だ。一人で出てきておくれ。……そう、一人で。アイネちゃんも駄目だ。ハイジだけで来ておくれ。


「……別に取って食おうってんじゃないさ。ただ舞台監督ブタカンに気取られたくないんだよ。……場所はクルマの置いてあったあの場所。時間は……そうだね、今から一時間後だ。


「……わかってるよ、そのへんの事情はこっちだって同じさ。ただしさっきも言ったように一人で来ておくれ。いいかい? 一人で、だよ? それじゃ、あとはそこで話そうじゃないか。


「……え? ……嬉しいこと言ってくれるね。あたしだって同じ気持ちさ。あたしもハイジと一緒の舞台に立てるのが今から楽しみでならないよ――」


 苦虫を噛み潰したような表情のままそれでも口元に笑みを浮かべてそう言うと、キリコさんは静かに通話を終え、電話機を床に置いた。


「……参った。完全に頭から抜けてたよ。この期に及んであんなもんが足枷になるなんてね」


 俺にしかわからない言葉でそう呟き、頭の裏を激しく掻きむしったあと、キリコさんは糸が切れたようにごろんと床に横たわり、そのまま動かなくなった。


 そんな彼女の様子に思わず軍曹に目を遣ると、軍曹の方でもちょうど物言いたげな視線をこちらに向けてきたところだった。


 ……俺の方ではまだしもおぼろげながら事情がのみこめているわけだが、言葉の通じない軍曹には何が起こったかまるでわからなかったに違いない。だがそんな目で見つめられても俺にはキリコさんに代わって事情を説明することなどできない。


「……何の話だったんですか?」


「……」


「なんか、捕虜がどうとか聞こえましたけど」


 そう言って水を向けてみてもキリコさんは応えない。何をするのも億劫というようにぐったりと横たわったまま天井を眺めているだけだ。


 こうなってしまうともうお手上げだ。キリコさんの方で機嫌を直してくれるのをただじっと待つしかない。けれども電話がかかってくるのを待てと言って諭した軍曹に対して、この仕打ちはあんまりだと思う。彼女にしてみれば待望の電話がかかってきたのも束の間、一切情報が与えられないままこの顛末なのだ。


 もう一度軍曹を見た。軍曹はもうこちらを見ておらず、寝転がったままのキリコさんを真剣な眼差しで見つめている。


 相変わらず生真面目なその姿に、俺は大きく息をいた。そうでなくとも関係の安定しないなりたての同盟者に、せめてあらましだけでも伝えるのが自分のつとめではないか。そう思って頭の中に英文をひねり始めたものの、『捕虜』にあたる単語がどうしても出てこなかった。" prisoner "でよかっただろうか……だがいまいち自信が持てない。


 そんな低レベルな疑問に答えを得られないでいるうちに、⦅さて、問題だよ⦆と言うキリコさんの声が沈黙を破った。


がキャストを増やしてほしいとさ。素っ裸の女二十人かそこら、うまいこと舞台にあげる方法考えとくれ⦆


 一気にそれだけ言うとキリコさんは勢いをつけて起き上がり、頭の裏に手を組んで背筋を伸ばすように胸を反らした。


 言っている意味がわからなかったのだろう、返事もないまま軍曹はじっとキリコさんの方を見ている。だが、俺にはわかった。……と言うより、その言葉で自分の推測が正しかったことを確認できた。


 やはり電話で語られていたのはあの女についてだったのだ。あの日、俺が袋に詰めて研究所まで曳いていったあの女――いや、おそらく『捕虜』あるいは『繋がれた女たち』について。


⦅さあ考えとくれ。時間がないんだよ。あと一時間もすりゃ主演が出てきちまう。それまでに何かうまいやり方を考えないといけない。素っ裸の女が二十人だ。まともな働きは期待できないよ。半分は頭がおかしくなりかけてる。もう半分は死にかけか、何もかも諦めちまった人形そのものだからね⦆


⦅――状況が理解できません⦆


 不意に軍曹から声が飛んだ。放っておけばいつまでも勝手な長弁舌を続けかねないキリコさんを諫めるような、鋭いが抑制の利いた一言だった。その言葉にキリコさんはつまらなそうに軍曹を一瞥し、すぐ視線を逸らした。だが軍曹は追い打ちをかけるように、さっきと同じ口調でなおも続けた。


⦅申し訳ありませんが、博士ドクターの話されている事態の状況が、自分にはまったく理解できません。どうか自分にも理解できるように、詳しい状況をお聞かせください⦆


 真面目という言葉そのものの率直な物言いが、今度ばかりは俺の心に響いた。


 軍曹が言うことはもっともだ。キリコさんがたった今終えたばかりの電話の内容を、軍曹は知る権利がある。いっそ俺からも口添えしてやろうかと口を開きかけ――だがそれよりも早く、いかにも気怠げな抑揚のない声でキリコさんは話し始めていた。


⦅……連中が女ども囲ってんのは知ってるだろ。研究がまだ動いてた頃に、定期試験で投入されて戻ってこなかった《試験体》のなれの果てさ⦆


⦅存じております⦆


⦅近いうちにあそこ出て行くのはいいとして、あの女どもをどうすりゃいいか、って質問の電話だよ⦆


⦅……⦆


⦅どのみち全員連れて行くわけにはいかない。かと言ってあそこに置き去りにして干涸らびさせちまうわけにもいかない。隊長として自分はどうすべきか。この問題についてどうお考えでしょうか。あの女どもの今後について現実的な見通しが立たない限り、自分としてはこれ以上計画を先に進めることはできない――って言われちまってね⦆


 一息にそれだけ言うとキリコさんはまた黙った。……いざ始まってみれば実に簡潔でわかりやすい説明だった。話の流れはのみこめたし、持ち上がった問題についてもよく理解できる。ただ、俺としてはここでひとつどうしてもキリコさんに聞いておきたいことがあった。


「あの人も『捕虜』だったんですか?」


「あの人?」


「初めてここに来たとき、俺が袋に詰めて持ち帰ったあの女の人です」


「……そうだよ。それがどうかしたのかい?」


「何のために持ち帰ったんですか?」


「……データとるためだよ。死んだ『捕虜』はデータとるために回収してたんだ。連中に《薬》渡すのと引き替えにね」


「その《薬》ってのは――」


「ああもういいだろ! 死んじまったやつのことなんかどうでもいい。生きてるやつが問題なんだよ。今の話聞いてたんだろ? どうすりゃいいかあんたも頭絞って考えとくれ」


 そう言ってキリコさんは大仰に溜息をつき、俺との会話を打ち切った。話半分だったが、俺としてはどうしても聞きたかったことは聞けたのでそれ以上は尋ねなかった。


 そんな俺をちらりと見たあと、キリコさんはまた例の言葉で、俺が中座させてしまった形となった軍曹への説明を再開した。


⦅そんなのどうでもいいだろ、ってあたしは言ったんだ。あんたのやるべきことはもっと大きなことで、そんな小さなことを気にしている場合じゃない、ってね。……けど、駄目みたいだ。どうやら思い詰めちまってる。あの女どもひっくるめて民族大移動を実現することが自分の使命だと思いこんじまってる。あの女ども見殺しにするつもりなら計画を降りるとまで言われちまったよ。……こうなっちまうとねえ。ちょっと厄介なんだよ。こう見えてこだわりだすと意固地な男だからねえ⦆


 そう言いながらキリコさんは露骨に恨みがましい目を俺に向けてきた。小さく鼻を鳴らしてその視線を受け流したあと、キリコさんの口から出た話について考えた。


 その話の内容――もう一人の俺がこだわっていることについて、俺には何となく……いや、はっきりとわかる気がした。


 そんな女たちがいるとして、自分が同じ立場だとすればやはりその人たちをそのまま残しては行けない。滅びゆく廃墟からあの隊の連中を助けられるとしても、その女たちが一緒でなければ意味がない。


 ……同じ思考でたどってみれば、もう一人の俺がそんなふうにして自分を追い込んでいってしまったのがよくわかる。なぜなら――


⦅そういうことでしたら⦆


 不意に軍曹が口を開いた。そして平然と、何でもないことを言うようにその台詞を口にした。


⦅その『捕虜』を我々が回収してすれば問題は解決されるのではないでしょうか⦆

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