090 消えかけた光の中で(2)

 祭囃子はもう聞こえなかった。この裏通りまで届いていた縁日の気配は幻のように消え失せていた。代わりに風が吹き始めていた。夜にひしめく家々の間を渡る重く湿った風に、雨がすぐそこまで近づいていることを思った。


 ――自分がなすべきことを心に確認した。


 それは何も変わらなかった。この町のどこかにあいつを捜し出すこと。そして今度こそ一緒の舞台に立とうと、自分の言葉であいつにそう告げること。


 ……今、俺がしなければならないのはそれだけだった。再び湧き起こってくるその思いに衝き動かされて、俺はまた宛てもなく夜の町に駆け出した。


「……っ!」


 走り始めてすぐ、大粒の雨が左目の瞼を打った。


 不規則に向きを変えながら次第に強くなってゆく風の中に、その雨が土砂降りと呼べるものになるまでにそう時間はかからなかった。


 一頻り叩きつけるように降っては途切れ、また容赦なく降りかかってくる生暖かい水の塊。場末の商店街を抜け、中央分離帯のある広い道に出た頃には、その雨と風は紛れもない嵐に変わっていた。


「はあ、はあ、くっ……」


 たちまち全身ずぶ濡れになった。シャツもジーンズもべったりと肌に貼りつき、にわかに襲い来る放水のような雨と相俟って、走りにくさはさっきまでの比ではなかった。


 土地勘のない真夜中の道に、どこを走っているのかわからなくなるのはすぐだった。自分がどこにいるかも、どこへ向かっているかもまるでわからないまま、雨に打たれ風に煽られながらただひたすら前を目指し走り続けた。


 ひっきりなしに降りかかってくる雨と流れ出る汗とが入り混じって、顔から背筋から滝のように流れ落ちてゆくのを感じた。


 そこでふと、俺はまたさっきのアーケードで感じたものとよく似た強い既視感を覚えた。こんな激しい雨を掻い潜り闇雲に駆け抜けた夜の町の景色を、俺ははっきりと覚えている。


 胸に湧き起こってくるこの衝動が何を思い、何を求めるものなのか、考えるまでもなくその答えはわかっている。


「……っ! ペーター!」


 そう思ったときには叫んでいた。風の音に掻き消されどこにも届かないその叫びを、俺はまだ生々しく覚えている。


 自然と足が速くなった。向かい風はその勢いを増す一方だったが、立ち止まることなど思いも寄らなかった。軋みをあげる脚でアスファルトを蹴り、転がるようにして真っ暗な道をひた走った。


 この町のどこかにペーターが泣いている。ずっと長い間一途に信じてきたものをずたずたにされ、引き裂かれた心でこの雨の中を彷徨い歩いている。


 そう思うと矢も楯もたまらなかった。これがあの夜でないことなど疑いもしなかった。今、自分がいるここが確かにあの土曜日の夜であることは、胸を掻きむしられるようなこの激情が何より力強く証明していると思った。


「ペーター! くっ……ペーター!」


 吹き荒ぶ雨風の中に何度もその名前を呼んだ。土砂降りの雨に霞むどこへ続くかもわからない道をただ必死に走り続けた。だがそうして走り続けるうち、周囲の風景は次第に見覚えのあるものになっていった。


 やがて大学まで突っ切る目抜き通りに出て、この夜とあの土曜日の夜とがはっきりとひとつに重なるのを感じた。あの夜、どこにいるかわからないあいつを捜して闇雲に走り続けた道を、真っ直ぐあの場所に向かい全力で駆け抜けた。


「ペーター!」


 大学に着き、庭園に駆けこむなり大声で叫んだ。


 返事はなかった。木々の黒い影がざわめき、激しい雨に打たれる庭園はあの夜と何も変わらなかった。


 だが、そこに求める人の姿はなかった。あのときずぶ濡れの身体に虚ろな笑顔を張りつけて俺を迎えたペーターの姿は、その庭園のどこにも見えなかった。


「ペーター! どこにいるペーター!」


 荒れ狂う庭園に向かい声を限りに叫んだ。やはり返事はなかった。


 ……そんなはずはなかった。これは舞台前日のあの夜なのだから、ペーターは。あのときできなかったこと……あいつのためにしてやるべきだったことを、今、俺はここでしなければならない。この庭園に彼女を見つけ出して、何としてもそれを果たさなければならない。


 それができなければあの夜と同じ――いや、あの夜よりも激しいこの思いに……誰よりも大切な人を傷つけてしまった罪の意識に、心が押し潰されてしまう――


「……っ!」


 暴風に弄ばれる木のもとに何かが動いた。


 そう思った瞬間、俺は駆け出していた。あの夜、逃げ惑うペーターを追いかけてそうしたように、手足をばらばらに振り回して真っ暗な木の根元に駆け寄った。


 ……いなかった。その木のもとには誰もいなかった。張り裂けるような思いで俺が求める人は、あのとき確かにいたはずのその場所にいなかった。


「ペーター! ペーター!」


 地鳴りのような轟音の中に何度もその名前を呼んだ。風の音に負けないように精一杯の声で、血を吐くような思いで絶叫した。


 ――と、別の木の下にまた動くものを見た気がして反射的に駆け寄った。だが、誰もいなかった。凄まじい音を立てて揺れ惑う黒い木々の間に、あいつの姿はどこにもなかった。


「……っ! ペーター! どこだペーター!」


 そうして俺は誰もいない庭園を一人でぐるぐると回り始めた。


 あの夜、叫び声をあげながら逃げるペーターを追いかけてそうしたように、風雨に惑う真っ暗な庭園をただ虚しく走り続けた。ぐるぐる、ぐるぐると。自分が何をしているのか、もうそれさえもわからなかった。


 あのときと同じように大声でその名前を叫びながら、自分で自分をどうすることもできないまま、嵐の夜の闇の中に一人きりの鬼ごっこを続けた。


「はあっ! はあっ! はあっ! はあっ!」


 どれだけ走り続けたのだろう、やがて俺は立ち止まり、身を屈めて両手を膝についた。


 追いかけるのをやめたわけではない、ただ、脚が言うことをきかなくなった。筋肉の痛みはとっくに限界を超え、もう感覚がなくなりかけている。重く水を吸ったジーンズの内側で、太腿がまるで別の生き物のようにがくがくと大きく震えているのがわかる。


 それでも俺は走らずにはいられなかった。崩れ落ちそうな脚になけなしの力をこめて、もう一度駆け出すためにうつむいていた頭をおこした。


「……」


 顔をあげたそこには、嵐に翻弄される誰もいない庭園があった。その情景を前に俺は踏み出すことを忘れ、そのままぼんやりと立ち尽くした。


 さっきまでと何も変わらないあの夜の庭園――吹き荒れる風に翻弄される木々と石畳の広場、土砂降りの雨に打たれ生温い闇に包まれるその情景が、なぜか奇妙な静けさをもって俺の目に映った。


 風の轟音は今も耳に届いていた。けれどもその轟音の中にあって、黒々とざわめき揺れるその情景はどこまでも静かに、一人だけ先に我に返ったかのように醒めきったものに見えた。


「……」


 そこで初めて、俺はいったい何をしているのだろうという思いに駆られた。この嵐の夜の庭園を一人虚しく回り続けて、いったい俺は何をしようとしていたのだろう。


 それに……そうだ、俺はなぜこんなところにいるのだろう。今、俺は何のために、何をするためにこの場所に立っているのだろう――


「……ぐっ!」


 唐突に、俺の中でまたあの決壊が始まるのを感じた。


 この夜にたどり着くまでの記憶――不可思議な事件と焦燥の中にぎこちなくペーターと歩み寄り、最後にすべてを台無しにした舞台前一週間の出来事が、俺の意識に折り重なってなだれこんでくるのを覚えた。


 ちょうどあの芝居小屋で無人の舞台を眺めていてそうなったように、ひとつひとつの場面が消えないまま次々と心に蘇り、その時々に感じたこと、考えたことがい交ぜになって俺の意識を埋め尽くしていった。


「う……あ……」


 あの芝居小屋でのそれよりも遙かに――いや、比べものにならないほど激しい洪水だった。


 模型屋の帰りにカラスとリカのあとをつけたときのこと。夕暮れの庭園であいつの練習に飛び入り、モデルガンで手を撃ち抜かれたときのこと。一人、また一人と消えてゆく仲間たちと、細い糸をたぐるように最後まで一緒に舞台を目指した彼女の面影。小さな衝突と、俺の中でゆっくりと変化してゆくもの。この腕に抱きとめた小さな身体、触れ合った柔らかい唇。そのすべてを裏切り、粉々に打ち砕き、あいつの心を切り裂いた取り返しのつかない言葉。


 そんなひとつひとつの映像と感情とがひしめき、重なり合い、その上にまた新たな場面がたたみかけるように押し寄せてくる。


「……ぐ……ぐぐ」


 俺という容器がいっぱいになってもは注がれ続けた。満杯になった容器に、けれどもは溢れることなく確実にその内側へ注入され続け、そのせいで容器は形を歪めながらみるみる膨張していった。


 叫び声をあげたくても声が出なかった。ただどうすることもできないまま、必死に奥歯を噛みしめてに押し潰されないようにするのがやっとだった。


 だがそうしてこらえるうち、その無秩序な洪水はあのときと同じように純粋なひとつの感情に向かって一気に流れこんだ。


 ――それはこの嵐の中に俺をここまで導いてきた衝動だった。たった今、自分が壊してしまったものを元通りにしたいという思い。今すぐあいつを見つけ出して、ほんの少しだけ時間を巻き戻したいという願い。あの夜にこの嵐の庭園で彼女を失ってからずっと呪いのように俺の心を縛り続けた……片時も忘れることはなかった、それは衝動だった。


 けれども、すぐにそうではないことに気づいた。それはさっきまで俺の中に燃えさかっていた衝動ではなかった。


 今、俺の意識を完全に埋め尽くしたものはそれとは別の――舞台前のをもう一度やり直したいという衝動だった。ただ、その二つの衝動が同じ方向を向いていることは何となくわかった。


 そのことに気づいてすぐ、自分の中に起こったその新しい衝動が、あの土曜日の夜の衝動にたったひとつの解決を与えるものだということを悟った。


「……」


 ――確かにそれしかない、混乱する頭の奥の妙に醒めた部分ではっきりそう思った。


 あの嵐の夜、俺がペーターにしてしまったことは咄嗟の過ちではなかった。あの一週間にあったすべての出来事がもたらした絶対に避けては通れない必然だった。


 だからそれを避けるためにはあの夜だけやり直しても意味はない。あの混乱に充ちた舞台前の一週間をもう一度最初からやり直すしかない。


 そう……たぶんそれしかない。そうすれば俺があいつを傷つけることはない。あの嵐の夜が明けて二人でヒステリカの舞台を打ちあげ――


 そうしてどこにでもある道を、どこにでもいる二人のように手を繋いで歩き出すことができる――


「ぎっ……」


 その衝動に流されそうになるのを死にもの狂いでこらえた。あの芝居小屋で感じた憧憬が生やさしく感じられるほどの、自分の存在がばらばらになってしまうような凄まじい衝動だった。


 今度こそ俺は心の底からを望んでいた。そしてもしそれが叶うならば他のすべてはどうなっても構わないと、何の迷いもなく掛け値なしにそう思っている自分がいた。


 そして俺はまた自分があのときと同じ罠に落ちたことを知った。いや……それはもう罠ですらなかった。


 あの嵐の夜にあいつが言っていたこと――壊れてしまったものはもう元には戻せない。それを元に戻すことができるのならば何を犠牲にしても、何と引き替えにしてもよかった。


 明後日に控えた舞台のことなど、もうどうでもよかった。そもそもあの一週間を正しく踏み直して日曜日の舞台を成功させれば、明後日にそれをやり直す必要もなくなるのだ――


 けれども、今度はその罠から逃れるのに時間はかからなかった。そこから抜け出すための方法にすぐ気づいた……いや、たぶん最初からわかっていた。


 それが答えだということを俺は――そしてあいつもわかっているのだと思った。だから俺はあえてそれを心に刻むことはしなかった。ただあの芝居小屋のときと同じように、ぼんやりと思った。




『あの一週間をもう一度やり直せるとしても俺はきっと同じことをする』




 それで終わりだった。あのときと同じように、俺をどこかへ押し流そうとしていた衝動はあっけなく消失した。


 同時に、あの土曜日の激情も消えた。


 たった今、自分が壊してしまったものを元通りにしたいという思いは、ここであいつ自身が言っていた通り、壊れてしまったものはもう元には戻らないという諦めに変わった。


 ……そんな気持ちだけが元通りになった。そう思って、俺は俯いていた頭をあげた。


 嵐は止んでいた。生温い風はまだ吹いていたがわずかに木の葉を揺らすほどのものでしかなかった。


 雨は降り続いていた。だがこの場所にあいつを失ったあの夜の雨は、もうどこにもなかった。


 ここにペーターはいなかった。それだけ確認して、俺は庭園に背を向けた。

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