281 舞台はもう始まっていた(2)

「……どうやら大丈夫みたいだな」


 外の様子を窺うのをやめ、窓際の床に腰をおろしながら俺はそう独り言ちた。


 窓――といってもそこには窓枠すらなく、壁に穿たれたただの穴に過ぎない。その壁というのも塗装も何もされていない、いわゆる打ち放しというやつで、床から天井からどこを見まわしてもそれと同じ剥き出しのコンクリートが連なるここは、まるで冷たい石棺の中のようだ。


「……あの男、一人だったのか?」


 低く抑えた声で向かいの壁に背もたれて座るアイネに問いかける。……返事はない。がらんどうの部屋の反対側からじっとこちらを見つめながら、けれどもアイネは一言も喋ろうとしない。


 宙ぶらりんになった問いをそのままに、俺はまたひとつ深い溜息をつく。……あんなことがあったのだから無理もない。しばらく話しかけず、そっとしておくべきなのかも知れない。


 それでも俺はまた問いかけとも独り言ともつかない低い呟きを口にする。


「一人だったんだろうな。あれだけ派手に銃声あげて仲間の一人も出てこなかったってことは――」


 ――アイネの手を引いて路地を出たあと、元いた場所に引き返して自分の荷物を回収し、そのまま手近なビルに入った。暗闇に目を凝らして階段をのぼり、暗渠のような通路を抜けてどうにかこの部屋にたどり着いた。


 壁に穿たれた穴から射しこむ月光のために中は充分に明るかった。そしてその穴からはさっきまでいた――男を撃ち殺した路地の様子を遠目に窺うことができた。


 部屋に入ってすぐ、俺はアイネを抱きしめようとした。そうすることが当然だと思ったからだ。だが小さな悲鳴さえ出してそれを拒むアイネを前に、俺は自分の判断が間違いだったことを悟った。


 ……今のアイネにとって俺の腕は、あの男の腕と同じなのだ。そのことに気づき、暗澹とした気持ちで腕の力を抜いた。アイネは後ずさり、両腕で身を守るように竦んで、恐怖と怒りが入り交じったような目で俺を睨んだ。そんな彼女に俺は何もできず立ち尽くすことしかできなかった。


 アイネはしばらく俺を睨んでいたが、やがて無言のまま壁際に向かい、膝を抱えるような格好でその場所に座りこんだ。そして頭をあげ、今度はいくぶん柔らかな目で俺を見つめて、そのまま彫像になってしまったかのように動かない。問いかけても返事はなく、何を言っても応えない。それでいて俺から視線を外そうとはしない。


 何を思い、アイネがそうしているのかわからなかった。遣りきれない気持ちで俺は外の様子を窺い、アイネに視線を戻して、また外の様子を窺う、そんなことをただ繰り返した。


 天頂にさしかかろうとする月の下に、路地からここに来るまでに通ってきた道は隅々まで明るかった。そこに人影はなく、生きている物の気配さえ感じられなかった。


「アイネは、いつからこっちにいるんだ?」


 長い沈黙を破る俺の問いかけに、アイネからの返事はなかった。だがともあれ、そのあたりはどうしても聞いておきたいところだった。アイネがいつこちら側の世界に来たのか。今どういう状況にあって、どうしてあんなことになっていたのか……。


「俺はさっき来たばかりだ。いきなりこの有様で、何がどうなっているのかさっぱりわからない」


 回答を得られないまま俺はなおも続けた。口に出してみてはじめてわかったが、それは本音だった。


 何の情報もなくこんな場所に放り出されて俺は混乱している。返事をくれないアイネに話しかけるのを止めなかった理由も、きっとそのためだ。少しでも口を動かしていなければ、この見知らぬ場所の夜の底に押し潰されてしまいそうだ――


 また外の様子を窺おうと立ち上がりかけ、そこでふと右手に触れるものがあった。コンクリートの床をわずかに滑り乾いた音を立てるそれは、俺がさっきまで握りしめていたデザートイーグルだった。


 その銃で男の背中を打ち抜いた映像が生々しく脳裏に蘇った。


 銃身に刻まれた深い痕を指でなぞり、それが確かに俺の銃であることを確認した。まだ買ったばかりの頃、DJとタッグを組んだサバイバルゲームで粗雑な扱いをしてつけてしまったものだ。


 間違いない……これは俺がサバイバルゲームで、あるいは舞台の小道具として使っていたモデルガンで、決してさっきのように人を撃てるような代物ではない……。


「あ――」


 マガジンを外したところで一発のBB弾が中からこぼれ落ち、軽い小さな音を立てて床を転がっていった。


 一瞬、俺はとんでもない失敗をしでかしたと思った。BB弾をこめたまま撃ってしまったのだ。舞台の小道具として使うときそれは絶対に犯してはならない失敗で、誤って目に当たりでもしたら取り返しのつかないことになる――


 だがそう思ってすぐ、においてそれが失敗でも何でもなかったことに気づいた。


「……いいのか」


 そう――失敗でも何でもない。誤って目に当たるどころか、俺はこの銃であの男の背中を撃ち抜いたのだ。BB弾をこめて撃ってしまったことなど失敗になるはずがない。そう思って安堵の溜息をついたあと、その滑稽さに思わず場違いな苦笑がもれた。


「ふっ……ふっ……」


 笑いはすぐには止まらなかった。BB弾をこめて撃ったことに背筋が寒くなるような失敗を思い、それで相手を撃ち殺したことに失敗ではなかったと安堵を覚える。そんな滑稽な話は聞いたこともない。


 声を出すまいとこらえつつ一頻り笑い、その笑いが治まったとき――はじめて俺は、自分がたった今、一人の人間を撃ち殺したことを理解した。


「……」


 鋭い硝煙の臭いと、それに続く濃厚な血の臭いが鼻腔の奥に蘇った。肩が抜けるような衝撃と、目の前で踊るように伸びあがった男の姿。……人を殺してしまったという実感が遅効性の毒のように全身に広がってゆくのを感じた。


 手の中の銃をもう一度眺めた。それはたしかに俺の銃――近所の模型屋で一年前に買った、何の変哲もないモデルガンだった。


「……劇の中か」


 どういう絡繰りかはわからない。ここがどこなのかも、なぜ自分がここにいるのかもわからない。ただひとつだけはっきりしているのは、ここが隊長の言っていた『劇の中の世界』に間違いないということだ。


 ……もう信じるしかない。ここは劇の中で、俺たちはこれからここで隊長の言っていたような劇を演じるのだ……。


「……」


 俺は頭をあげ、改めてアイネを見た。彼女はさっきまでと同じように、感情の読みとれない目でじっとこちらを見ていた。


 不意に、折からのアイネのよそよそしい態度の理由に思い当たった。……彼女の前で、俺は一人の人間を殺したのだ。殺人という行為がアイネにとってどれほどの意味を持つのか、そんなことは考えなくてもわかる。たとえそれが彼女を守るための、やむにやまれない行為であったとしても――


「いつものやつだよ……見るか?」


 返事はなかった。けれども俺は取り外してあったマガジンを装填し、コンクリートの床を滑らせてそれをアイネに渡した。……それ以外に身の潔白を証明する方法がなかった。


 すぐそばまで滑っていったその銃にアイネが手を伸ばすのを見届けてから俺は立ち上がり、またさっきのように壁に穿たれた穴から外を眺めた。


 月明かりに照らされる人気のない町は、文字通り廃墟だった。道とも呼べない道――ビルの合間に連なる剥き出しの地面の彼方に、男を撃ち殺した路地を見つめた。


 潔白……どこが潔白なのだろう。路地の奥に今もぎこちなく横たわっているだろう男を思い、俺はそれがただの自己弁護であることに気づいた。


 そう……潔白であるはずがない。俺は確かにあの男を撃ち殺したのだ。殺人という罪を犯した俺が潔白であるはずがない。――ならば俺はアイネに、いったい何を証明しようというのだろう。銃を渡されたアイネは、いったい何を思ったのだろう……。


 そう思って振り向いた。そこで俺は向かいの壁際に座ったまま――銃口をこちらに向けるアイネの姿を見た。


「あなたは誰?」


 両手で銃を構えたまま、ぞっとするほど冷たい声でアイネは言った。触れれば切れるような二つの目が、月明かりの届かない闇にも白く輝いていた。……返事を返すことができなかった。アイネが何を言っているのかわからなかった。


「アイネ――」


「その名前」


「……え?」


「どうして知ってるの? わたしの名前」


 そこでようやく俺は理解した。抱きしめようとして拒絶された、いくら問いかけても反応がなかったその本当の理由がわかった。アイネに対して感じていた違和感の謎がとけた。


 つまりはそういうことだ。隊長の言っていた舞台は――もう始まっていたのだ。


「撃ちたきゃ撃て」


 ごく自然にそんな危険な台詞を口にした。


 アイネの反応はない。銃口をこちらに向けたまま、けれどもトリガーにかけられた指は動かない。それもそのはずだった。舞台はたった今はじまったばかりなのだ。ここであの銃が火を噴くようなら、姿の見えない観客は全員席を蹴立てて帰ってしまう。


「というか、そんなもの向けられるようなことした覚えはないけどな? 逆はあるけど」


「犯さないの?」


「……は?」


「わたしを犯さないの?」


 感情のこもらない、ひび割れたような声だった。その言葉の意味を理解し、その意味をこれまでのアイネの態度に照らして、俺は大きく溜息をついた。


 ……急に話がばかばかしくなった。アイネはそんな目で俺を見ていたのだ。


「犯されたいのか?」


「……犯されたくない」


「なら犯したりするかよ」


 そう言いながら俺はその場に腰をおろした。銃を持つアイネの手がわずかに動くのが見えたが気にしなかった。


「そんなもの向けなくても、俺はあんたを犯さない」


「……」


「そっちが泣きながら頭下げて頼んでこない限りな」


 アイネからの返事はなかった。それきり彼女は口をとざし、俺も同じように黙った。


 しばらくの沈黙があった。その間、俺は手持ちぶさたのまま自分に向けられた銃口を眺めるともなく眺めていた。だがいい加減それにも飽きて、外の様子を見るために立ち上がろうとした――そのとき、「三つ」と、向かいからの声が沈黙を破った。


「ん?」


「三つ質問に答えて」


「……ああ、いいよ」


「どうしてわたしのこと知ってるの?」


「……」


「わたしの名前。ずいぶん馴れ馴れしく呼んでたけど、どうして?」


 一瞬、どう答えるべきか迷った。今いるここが舞台でこれが演技だとすれば、俺はこの問いにどんな答えを返せばいいのか……。だが迷っている時間はなかった。返事が遅れればそれだけ相手の疑いは大きくなる。


 そこで不意に、ホールでの隊長の言葉を思い出した。……そうだった。『素のままの演技でいい』と、あのとき隊長はそう言っていた。


「会ったことがあるからだ」


「……」


「俺はあんたに会ったことがある。だからアイネという名前も知っている」


「……わたしの方にそんな覚えはないけど?」


「だろうな。さっきから喋ってて、おかしいとは思ってた」


「……」


「ここじゃないんだ。別の場所で会ったことがある。それはひょっとしたら今ここにいるあんたとは別人かも知れない。でも俺はその別の場所であんたと会って、だからあんたのことを知っている。アイネという名前も……その他に色んなこともな」


 最後の言葉には少しだけ感傷がこもった。劇の中とはいえ、一度は通い合った気持ちがにされてしまったのは寂しかった。


 ……そんな俺の思いは伝わらなかったのだろう。訝しげな表情で素っ気なく「信じられない」とアイネは言った。


「信じる、信じないはそっちの勝手だ。俺はただ質問に正直に答えただけだ」


「……」


「それで? あと二つの質問ってのは?」


「……あなたは誰なの?」


「そんな曖昧な質問じゃどう答えていいかわからない」


「なら、どこの兵隊か教えて」


「兵隊?」


「どこの部隊に属してる兵隊か、ってこと」


「どこの部隊か、って言われても……俺はたぶん、まだどこの部隊にも属してない」


 アイネの顔から訝しげな表情が消え、その目がすっと細くなるのが見えた。けれどもそれが相手の真意を探ろうとするときのアイネの癖だということを俺は知っている。こちら側の世界でもアイネはアイネのようだ。そう思い、少し気が楽になった。


「と言うか、その部隊っていうのが何のことかわからない」


「……」


「来たばかりなんだ。気がついたらここにいて、西も東もわからない。部隊とか言われてもピンとこないし、正直に言えばどうして自分がここにいるのかもわからない」


 アイネの表情は変わらない。ポーカーフェイスを装った、だが俺にはそれとわかる懐疑の目でじっとこちらを見ている。いくら探ったところで何も出てくるはずはない。俺が今しているのはどこにも嘘のない、文字通り素の演技だからだ。


 長い沈黙があった。耳鳴りがするような静寂の中、俺は何も考えず相手の言葉を待った。果たしてアイネの唇が動いた。「三つ目の質問」と、唇は言葉を結んだ。


「どうして――」


「ん?」


「どうして、わたしを助けてくれたの?」


 最後の質問だけはわかりやすかった。思い浮かんだままの答えを口にした。


「さっき言っていた別の場所で、俺とあんたは仲間だった」


 その答えを言い終えたところで、俺の銃デザートイーグルが床の上を滑り、手元に返ってきた。


「どういう仕組みなの? それ」


「……? 何の話だ?」


「その銃でたおしたでしょ。さっき、あの男」


「……」


 どう返していいかわからなかった。本当ならばそれは俺がアイネに聞きたいことだった。


 モデルガンで人を撃ち殺せるのがここのルールだということは理解した。だがいったいどういう仕組みでそんな出鱈目なことが実現されるのか?


 それとも……ひょっとしてそんなルールなどなかったのだろうか? さっき俺がしたことの方が異常で、だからアイネはこんなことを聞いているのだろうか?


「あんたたちの使ってる銃は……その、こいつとどこか違うのか?」


 誤解されないように言葉を選んで返した。だがその返事にアイネは面白くもなさそうに首を横に振り、「そんなこと聞いてるんじゃない」と呟いた。


は違わない。見た感じ、どこにでもある銃じゃない。だから聞いてるの。どうしてそれで『黒衣』の男を殺せたの?」


「黒衣……?」


 耳慣れない言葉にまったくの素で聞き返した。一瞬、アイネは驚いたような顔をし、だがすぐに呆れたような表情をつくった。


「……本当に何も知らないんだ」

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