280 舞台はもう始まっていた(1)

 ――気がつけば俺は濃い闇の中、目の前に広がる景色をぼんやり眺めていた。


 見慣れない景色だった。舗装のない剥き出しの地面がどこまでも広がっている。歩道も街路樹もない赤茶けた地面。その地面から何棟かのビルが墓標のように立っている。そのさらに上、夜空には今にも落ちてきそうな夥しい星と、その間にあって赤みがかった鈍い光を放つ弦月が浮かんでいる。


 地面にじかに座り脚を投げ出して、俺はそんな景色を見ていた。何かに背もたれている、そう思って振り仰いだ。


 ――漆黒の闇の中にいっそう黒々と、窓ガラスのひとつも入っていない廃ビルが俺を見下ろしていた。……間違いない、と思った。この場所は昨日アイネが言っていた、『砂漠の中の廃墟』に間違いない。


「……っ」


 不意に寒さを感じて身震いした。皮膚から熱が奪われてゆくような、今までに感じたことがない類の肌寒さだった。


 半袖のTシャツとジーンズ。身にまとっているそれは舞台衣装ではなく、会場で隊長と話していたときそのままの普段着で、鳥肌を立てようとする両腕を思わず互いに逆の手でさすった。


 ――と、そのとき右肩に何か柔らかいものが寄りかかってくるのを感じた。


「……」


 淡い期待をこめて目を遣った。だがそこには期待したものの代わりに、薄汚れた一本の長い袋があった。古い映画の中で海軍の兵隊が肩からげているような帆布袋――DJが肌身離さず持っていたそれがどういうわけか今、俺の隣にあった。


「……」


 少しだけ迷ったが、俺はその袋の口紐を解き、中身を確認することにした。


 まず毛布――ごわごわした黄土色の、いかにも野外活動用といった感じの毛布が出てきた。次に上着――これも硬めの生地の、工員の作業服のような上着だった。ちょうど肌寒さを覚えたところだった。俺は早速その上着を身につけながら、DJのサイズだったら袖を何回か折り返さなくてはならないと思った。けれどもその上着はまるであつらえたように俺の身体にぴたりと合った。


「……DJの袋じゃなかったのかな」


 そう独り言ちながら俺は袋に目を戻した。


 を占めていたのはほとんど毛布と上着だったようで、袋はビル壁を背に力なくへたりこんでいる。そのくたびれた感じといい、薄汚れた帆布の色あいといい、どう見てもあいつの袋のように思える。だが、あるいはこの手の袋は使いこめばみんなこんな感じになるものかと思い直し、袋を引き寄せて中に手を突っこんだ。


 500ミリリットルのペットボトルが二本。どこのコンビニでも売っているミネラルウォーターで、まだ封は切られていない。同じくどこでも売っている健康バランス食品が二箱。片方はチーズ味で、もう片方はチョコレート味。小さく平たいウイスキーのボトルが一本。燃料が半分ほど残った100円ライターがひとつ。エアガン用のガスボンベが2本。見覚えのある弾倉マガジンがひとつ。そして一番底からはずっしりと重いBB弾の詰まったポリ袋と、こればかりは見間違いようもない俺の銃デザートイーグルが顔を覗かせた。


「……やっぱりか」


 慣れ親しんだ自分の銃を手にとり、改めてそう思った。


 これがDJの袋ならこの銃ではなく、代わりにあいつの恋人――AK74が入っているはずだ。それにこのBB弾は相性が悪いとかで、あいつが絶対に使わないと言っていたメーカーの製品だ。


 この袋はDJのものではない。そして中にこの銃が入っていたことからして、俺のために用意されたものと考えていいのだろう。上着のサイズがぴったりだったことも、そう考えればつじつまが合う。つまりこの袋の中身は、俺という役者に与えられた舞台衣装と小道具の一式ということになる。


「――舞台」


 無意識にそう呟いて、俺は再び目の前に広がる景色を眺めた。


 月明かりに照らされる荒涼とした大地。冷たく乾ききった夜気の臭い。これまで想像の中でしか経験できなかった「砂漠の夜」の質感がここにある。垂れこめる夜の闇の色さえ、俺の知っているものとは違う。


「……これが舞台なのか」


 隊長の言っていた、これがその舞台なのか。


 自分に言い聞かせるように心の中で繰り返して――けれども俺はその事実を受け入れることができなかった。耳鳴りのするような静寂も、掌に貼りついた砂も、自分を取り巻くすべてのものは紛れもない現実で、これが演劇の中の世界だとはどうしても信じられない。


「だいたい、これで演じろったって……」


 ……何をどう演じていいかわからない。隊長は素の演技でいいと言ったが、今は素で立ち尽くすことしかできない。


 それに――そうだ、思い出してみれば話が違う。隊長の話によれば俺は一人で演じるのではなかった。一緒に演じる相方がいて、その相方に合わせて演技をすればいいということだった。なのに相方など、どこをどう見回しても――


「……!」


 唐突に短い悲鳴が闇を震わせた。


 一瞬、俺は戸惑い、判断に迷った。ここから逃げるべきか、それとも――


「……っ!」


 だが二度目の悲鳴を聞きつけるや、俺は躊躇せずその声のした方へ駆け出した。その悲鳴が俺のよく知る人間――アイネのものであることに気づいたからだ。


 声の元にたどり着いた俺はそこで金縛りにあった。


 ビルの間の狭い路地に立ち塞がる男の背中と、その向こうにアイネの姿があった。倒れ伏し、身を守るようにうずくまるその身体はまったくの裸で、そんなアイネを前に男は逸る手つきで腰のベルトを外そうとしている。


 アイネが俺に気づき、その眼差しが俺を捉えた。


 恐怖と絶望に色を失った眼差し――刹那、稲妻のような怒りが背筋を走り抜けた。ほとんど無意識に俺は銃を両手で構え、その先を男の背中に向けた。


 バン――


 轟音と共に凄まじい衝撃が両腕に走った。こちらを振り返ろうとしていた男は、首を傾げたような半端な姿勢のまま大きく伸びあがった。


 バン、バン、バン――


 二発目で更に伸びあがるようにした男は、三発目で逆に背を丸め、四発目で糸が切れたように脚から崩れ落ちた。手足の折れ曲がった不自然な格好で倒れた男の背中からびゅっ、びゅっと泉のように黒い液体が噴き出ているのが見えた。


 やがてその勢いはおさまり、きれぎれに短い痙攣を続けていた男の身体もその動きを止めた。そこに至ってはじめて、俺は両手に構えたままでいた銃を下ろし、アイネを見た。


 月明かりの漏れこむ路地の奥に、アイネは裸のまま呆然とこちらを見ていた。柔らかな曲線を描く白い肌が、淡い月明かりを受けぼんやりと光っていた。


 俺は思わず目をそらして……そこでふと、ビルの壁際に落ちているものが目についた。


 地面に乱雑に散らばっている衣類。それが誰のものであるか理解して、たったいま撃ち殺したばかりの男への怒りが改めてこみあげてくるのを覚えた。その怒りをやり過ごしながら俺は衣類を拾いあげ、ひとまとまりにしてアイネに向け、投げた。


「……着ろよ」


 返事はなかった。彼女の方を見ることができないまま、やりきれない思いで地面を見つめた。


 ややあって衣擦れの音がしはじめ、それが聞こえなくなるまで俺はずっとそうしていた。胸に渦巻いていた負の感情が治まり、ようやく冷静にものが考えられるようになったところで、服を身に着け終えたアイネが言葉もなく俺の前に立った。


「……とりあえず、ここから離れた方がいいな」


 アイネからの返事はなかった。少し離れた場所に立ち、そこからじっと俺を見つめている。……そんな目をしなくていい。アイネのそんな顔は見たくない。


「アイネ」


 手を伸ばして呼びかけた。アイネは一瞬、打たれたように目を見開き、だがすぐまた元の表情に戻った。それきり彼女は応えない。立ち尽くしたままその場から動こうとしない。俺は深いため息をつき、一足に歩み寄ってアイネの手を取った。


「行こう」


 アイネは応えない。それでも腕を引く俺に逆らわずあとをついてくる。……今は仕方がない。とりあえずこの危険な場所から離れるのが先だ。


 そう思って歩調を速めながら、最後に一度だけ路地を振り返った。


 淡い月明かりの下に横たわる男の死体は、ぎこちなく手足をねじ曲げたまま動かなかった。

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