324 巡礼者のキャラバン(5)

 ちょうど日が陰りだす頃に砂嵐は止んだ。と言うより、壁のまどに垂れこめていた砂のカーテンが取り除かれ、そこではじめて、一日中陽が射さなかった今日という日にも、いつも通り夕暮れが近づいていることに気づいた。


 日がな一日、代り映えのしないスノーノイズを眺め続けていたせいだろうか。改めて見ればよくこんな場所に寝起きしていると小さな感動さえ覚える荒れ果てた部屋に射す陽光――いつに変わらないはずの西日が形づくる光と影が、ジョルジョ・デ・キリコの絵画のようにどこか超現実的な色合いさえ帯びて胸に迫ってくる。


「……」


 結局、今日という日を無為に過ごしてしまった……そんな空虚な思いがまったくなかったと言えば嘘になる。けれども死にかけた陽光が描くその光彩の中にあって、ぼんやりと窓の外を眺める俺の意識を支配していたものは、際限のない堂々巡りを繰り返した果てにたどり着いた彼岸というべきか、『もうなるようにしかならない』という諦めにも似た心境だった。


 部屋の隅に目をやった。西日がつくる濃い影の中に、アイネは頭を膝の間にうずめ、眠っていた。


 ――日が落ち、部隊のメンバーが目を覚ましたら、俺は約束通り隊長として彼らに行動を提起しなければならない。俺自身、何をどうすればいいかまったくわからないまま……そんな差し迫った状況にありながら、けれどもここへきて俺の心は妙に落ち着いていた。


 ……そう、もうなるようにしかならない。キリコさんと連絡がとれなかった以上、俺にできること、彼らに提示できる情報は限られている。新米の隊長としては、その限られた情報の中で、いま彼らがとるべきベストの行動をせいぜい悩んで考え出すしかない。


 それで離反者が出るようなら――その可能性は十分にある気がするのだが――それはそれで仕方がない。部隊を抜けたいという者がいれば黙って見送るしかないし、カラスが俺を撃ち殺したいというのなら撃ち殺されてやるしかない。


 俺が死んだあとも、きっとこの劇は続くのだろう。俺のいなくなった舞台で残った連中がうまいことやってくれるのであれば、一役者としてはそれで構わない――


「……?」


 ――そこでふと、俺は奇妙な音を聞いた。それはちょうど、窓から飛び込んできた小石がからからと床を転がるような小さな音だった。


 音がした方を見た。西日が射す窓辺には大小様々な無数の砂礫されきが散らばっていた。さっきまでの砂嵐でひっきりなしに舞い込んでいたのだから当然だ。けれどもその砂嵐などなかったかのように今は風がやんでおり、ほとんど無風と言っていい。それなのになぜ窓から小石が飛び込んできたのか……。


「……」


 ……あるいは聞き違いだったのだろうか。そう思って、俺はしばらく窓を見つめていた。


 情景に変化はなかった。風の死んだ廃墟に音はなかった。窓から小石が飛び込んでくることはなく、ほぼ真横からのものになりつつある西日をコンクリートの部屋に導き入れる四角い孔があるだけだ。


 それでも、俺は何となく気になって立ち上がり、窓辺に近づくとそこから下を見下ろした。


 ――こちらに向け、今まさに石を投げ上げようとするキリコさんの小さな影と目が合ったのはそのときだった。


「……」


 まったく予期しなかったわけではないが、このタイミングで姿を見せるとは思わなかった待ち人の登場に俺はうまく反応できず、固まった。


 落日のビルの谷間からこちらを見上げるキリコさんは、右腕をもたげ肩の横にL字をつくると、握りこぶしに親指だけ立てて後ろを指し示して見せた。……なんと言うか、実にわかりやすい『表へ出ろ』のジェスチャーだ。


 その直後、今度は右手を高く掲げ、人差し指一本を立てて見せる。こちらも疑問の余地がない。『一人で来い』ということだ。


 たったふたつの身振りでここまで的確に自分の意思を伝えてくるのはさすがキリコさんと言うべきだろう。それとも、長年かけて培ってきた俺たちの関係性のなせるわざか。


 そんなことを考えるはしから思わず込み上げてくる笑いを噛み殺して、俺は階下へ向かうため部屋を出ようとした。


 そこへ、アイネの声がかかった。


「……どこ行くの?」


「ちょっとそと出てくる」


「今から?」


 言いながら腰をあげようとするアイネを、俺は手で制した。立ち上がりかけのぎこちない姿勢で固まったまま、アイネは訝しむような目を俺に向けてくる。


「一人で行く。着いてくるな」


「どうして……」


「事情は、あとで話す」


「でも――」


 ドアノブに手をかけながら俺は、まだ何か言おうとするアイネに頭だけ向き直り、拒絶の意思をこめてはっきりと言い放った。


「いいから着いてくるな。これは隊長としての命令だ」


◇ ◇ ◇


 エントランスを抜けビルの外に出ると、西日はもうだいぶ弱々しいものになっていた。


 風はなかった。今まさに地平に隠れようとする太陽から放たれた光芒の残滓が、無機的な上にも無機的な構造物を淡く照らし、まさに一枚の形而上絵画のような静謐な光景を描き出していた。


 そんな光景の中、キリコさんは意中の男子を待ち伏せる女子学生のように、エントランスの脇にしゃがみ込んで俺を待っていた。


「――よくあんなんでわかったじゃないか」


「え?」


「あんな身振り手振りで、よくあたしの言ってることがわかったって、そう言ってるんだよ」


「そりゃまあ、俺とキリコさんの仲ですから」


「あたしとハイジの仲、ねえ……」


 そう言ってキリコさんは立ち上がると、こちらを見ないまま何でもないことを言うように、


「恋人になる一歩手前で止まってる微妙な関係、ってやつだっけね」


 と続けた。


 ノーモーションで繰り出されたキリコさんらしいジャブに緊張の糸が切れ、俺は思わず噴き出した。


「なんで笑うのさ」


「いや、我々の関係について、俺とキリコさんでだいぶ認識に違いがあると思って。俺の方じゃ、あくまでサークルの先輩、後輩の域を出ないものみたいに考えてたんですけどね」


 いきなり訪ねてきたことへの配慮だろう。初っ端の話題に彼女らしい冗談を選んでくれた気遣いを酌み、同じく冗談めかした調子で返した。そんな俺に、キリコさんは心外だと言うように露骨に顔をしかめた。


 その表情に、俺はまた笑ってしまう。やっぱりキリコさんはいい。これだからこの人はいい。


「……何にもなかった、ってことはないんじゃないかい?」


 けれども一頻り笑ったあと、いまだに渋い表情を崩さずにそう言うキリコさんを認めて、俺は素に戻った。


「え?」


「なんかあっただろ。あたしとあんたの間にさ」


 抑揚のない声で、だが半分問い詰めるようにそう言うキリコさんからは、自然体で人をからかうようないつもの余裕が感じられない。それで、俺にはキリコさんがそれを聞きたがっているのだとわかった。


「……そりゃまあ、たしかにありましたけど」


 訝しく思いながら、俺はそう答えた。


 俺とキリコさんとの間に何かあったか――と聞かれれば、まあ、あるにはあった、ということになる。他の誰かから問われたなら適当にごまかすこともできるが、他ならぬキリコさん本人から聞かれているのだから、俺としてはそう返すしかない。


「ほら、やっぱり微妙な関係だったんじゃないか」


「それは……まあ、キリコさんがそう言うんなら」


 どこか安心したような顔で溜息をつくキリコさんに、今度は俺の方がわからなくなってしまう。……いつものあけすけな話題の延長と言えなくもないが、それにしては妙にシリアスな雰囲気になっている。何よりあんな昔の話をここで蒸し返して、いったい何の意味があるというのか……。


 そこまで考えて、俺は我に返った。今ここで俺がなすべきことは、かつて憧れていた先輩との淡い恋の記憶を確認することではない。それだけははっきりしている。


「ぶっちゃけ、山ほどあるんですよ。キリコさんに聞きたいこと」


 話の流れを断ち切るように、あえてぶっきらぼうな口調で俺は言い放った。その意図が伝わったのだろう、キリコさんは俺から視線を外すと胸の前に腕を組んで壁に背もたれ、向かいに建つビルの壁を眺めながら事務的な声で言った。


「わかってるさ。けど、その前に報告を聞こうじゃないか」


「報告?」


「そう、報告。あたしがこないだの電話であんたに聞かせた『予言』がどんな結末に落ち着いたのか、まずはそのあたりの情報共有から始めようって言ってんのさ」


 そう切り出すキリコさんに、俺はまたしても疑念を覚えた。舞台裏に近い場所に立つ彼女であれば、そのあたりは先刻承知のものと勝手に思い込んでいた。だがこうして俺に訊ねてくるということは、そういうわけでもなかったということなのだろうか……。


 ただ、いずれにしろ隠し立てするような話ではない。キリコさんの方で情報共有が必要ということであれば、その要望にはこたえなければならない。


「まず、キリコさんの予言通り、DJは失脚しました」


「へえ、死んだのかい?」


「そのあたりはわかりません。昨日、『国王軍』ってのと戦うことになって出撃したんですけど――」


「ちょっと待って。『国王軍』と戦うって、DJあいつがそう言ってたのかい?」


「え? いや……そう言ってましたけど」


「……続けとくれ」


「ええと……詳しく話し出すと長くなるんでかいつまんで言うと、あいつは昨日の戦闘で撃たれて、『黒衣の隊』って呼ばれてる連中に連れ去られたみたいなんです」


「……」


「だから、あいつはもういません。少なくとも我々の部隊の隊長ではなくなりました」


「そんだけかい?」


 キリコさんは頭だけこちらに向け、催促するような目で見つめてくる。その視線に背中を押されるような感じで、俺はおそらく彼女が一番聞きたかったであろうその答えを口にのぼらせた。


「それだけじゃありません。キリコさんの希望通り、俺があいつに代わって『DJの部隊』の隊長になりました」


 俺の回答に、キリコさんは目を大きくして「へえ」と感嘆の声をもらした。それからさも満足気ににんまりとした笑みを浮かべ、眩しいものを見るように目を細めて俺を見つめた。


「さすがじゃないか。あんたは役者として、あたしの想像の遥か上をいってるようだね」


「……やめてくださいよ。キリコさんにそんなこと言われると、さすがにむず痒いっていうか」


「どういう経緯でそうなったか、については秘密ってとこかい?」


 予期せぬ誉め言葉に舞い上がりかけていた俺を引き戻すように、少し醒めた調子でキリコさんはそんな質問を投げかけてきた。


 それで俺はまた我に返り、彼女の質問について考えた。……若干込み入った話ではある。だがこれについても、キリコさんに隠さなければいけないような話でもない。


「出撃する前に、DJがアイネに隊長をやるように言ったんです。もしこの出撃で自分がいなくなるようなことがあれば、そのときはアイネが隊長をやれ、って」


「……へえ、それで?」


「けど、アイネは固辞しました。自分に隊長なんて絶対にできない、って言って。だから、実際にDJがいなくなって、これからどうするってことになったとき、アイネは自分がやるはずだった隊長職を、相棒の俺に押し付けたんです」


「あはは、なるほどそんな流れで。いかにもありそうだ、あはは、あははは……」


 何がに入ったのか、人気ひとけのない薄明の廃墟に一頻りキリコさんの笑い声が響いた。……まるでさっきの裏返しだ。そう思いながら俺は、おそらくさっきキリコさんが浮かべていたものとよく似た仏頂面で彼女が笑い終えるのを待った。


「けどこれで、ハイジがあたしとの関係を認めようとしなかった謎が解けたってもんだね」


 やがて笑うのをやめたキリコさんは笑いすぎて目に浮いた涙を拭いながら、納得したようにうんうんと頷きながら言った。


「え?」


「あたしたちがそういう関係にあったってこと、あんたがなかなか認めようとしなかった理由だよ」


「その理由ってのは?」


「いまハイジが微妙な関係にある相手はあたしじゃなくて、アイネちゃんだからだろ?」


 そう言って、キリコさんはではよく見慣れた意地の悪い笑みを浮かべてみせた。


 反射的に俺はさっきよりも渋い、おそらく苦虫を噛み潰したような顔でキリコさんから目を逸らした。同時に、この短い会話からこの人にはどうしてそこまでわかってしまうのだろうと、日頃からキリコさんに対して感じていた敗北感のようなものが甦ってくるのを覚えた。


 そんな俺に追い打ちをかけるように、キリコさんはなおも続けた。


「それとも、もうやっちまったのかい?」


「え?」


「一線を越えちまったのか、ってことさ」


「……っ! まだです」


「キスは?」


「……」


「キスもまだか。案外奥手だね、あんた」


 答えられないでいる俺をどう取ったのか、キリコさんはずけずけとその微妙な話題に踏み込んでくる。


 最初、戸惑いばかりだった俺の意識に苛立ちが入り込んでくるまでにそう時間はかからなかった。……いくら親しい間柄でも聞いていいことと悪いことがある。それがわからないキリコさんではないはずだ。第一そんなことを聞き出して、いったい彼女はどうしようというのか。


 そう思い、抗議のために口を開きかけた俺を、それまでより幾分真剣なキリコさんの一言が遮った。


「だったら、そのへんは慎重に進めた方がいいかも知れないね」


「え?」


「お堅い女ほど落ちるときは真っ逆さま、って言うだろ。あたしの見立てじゃアイネちゃんには、それがぴったり当てはまる。あの純情な子が本気になっちまったら、ちょっとばかり厄介なことになるよ」


「……」


「一途で献身的、なんて言や聞こえはいいけど、そのへんおそらくセックスについてだけじゃないからねえ、あの子の場合。一線越えてが外れちまったら最後、ハイジのためなら死ぬ、とか真面目な顔して言い出しそうじゃないか」


 溜息混じりにそう告げるキリコさんの言葉が、真っ直ぐ俺の胸に突き刺さった。……まさにその台詞を真面目な顔で口にするアイネを、今朝、目の当たりにしたばかりなのだ。


 そして、そのキリコさんの言葉で、ここへ降りてくる前にアイネと二人あの部屋に過ごす中で自分が感じたものが思い込みではなかったと、俺はそう確信することになる。


 アイネは間違いなく俺に恋愛感情をいだいている。そしてその恋愛感情はキリコさんの言葉を借りれば、一線を越えてが外れたときのそれにも似た深刻なものになりつつある。そうなったときのアイネは厄介であるため、慎重にことを進めろ――そうキリコさんは言っている。


 キリコさんの言いたいことはよくわかる。実際、それが極めて的確な忠告であることも。


 けれども一線を越える前から早々にその段階に達してしまった彼女に対して、いったい俺はどう慎重にことを進めるべきなのか……。


「ま、いずれにしろそっちの様子はわかったよ。良くも悪くも筋書き通りに進んでる、ってことになるのかねえ」


 俺の葛藤を知ってか知らずか、キリコさんは吹っ切れたようにそう言うと、大きく溜息をついた。


「……そうですね」


 つられて俺も溜息をつく。


 またしても唐突に断ち切られた話の流れはともかく、キリコさんの言っていることはその通りだと思った。良くも悪くもこの劇は筋書き通りに進んでる……そういうことになるのだろう。


 その筋書きを書いたのは誰なのか――そこまではわからない。隊長が書いたのか、あるいはキリコさん自身によるものか……そのへんを少し突っ込んでみたい気もする。


 だが、この際そのあたりはどうでもいいことだと思い直した。


 俺が知りたいのはただひとつ。その筋書きの内容だ。そこに書かれていることをト書きや大道具小道具の転換に至るまで、もっともっと詳しく知りたいということだけだ。


 そんな心の声を聞きつけたかのように、待ちに待った俺からの質問タイムの開始を告げるキリコさんの声がかかった。


「さて、だったら話を戻そうか。あたしに質問があるんだっけね。何が聞きたいんだい?」

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