けじめ

 日龍の校門をくぐって陸上部の練習場へ向かうと、ゴウの双子の弟、林原りきがユニフォーム姿で走りこみをしていた。キザキと友達だというリキは、藤北で同じクラスの世戸せとと付き合っている。世戸は陸上部所属、ならばリキも同じ部活なのではないかという単純な推理だった。

 ピーッと甲高い笛の音を合図にタータントラックを駆け巡る部員たち。その水分補給の合間に、渉は彼との接触を試みた。


「――紫陽花ですか? 彼ならもう帰ったと思います」


 リキは給水ボトルで喉を潤してそう答えた。

「あいつの練習場ってわかる?」と渉はスマホの地図アプリを見せて、リキに位置情報を教えてもらう。ボクシングクラブの場所は、ここからバスに乗れば十分程度で着く範囲にあるようだ。

 お礼を言って、「ゴウには会った?」と兄の様子を聞いてみると、リキはこくりと頷いた。


「兄貴なら元気です。怪我よりも深夜アニメが見れないことを嘆いていました。それと、渉は大丈夫かなと気にしてましたよ」

「そっか……俺は大丈夫だよ。今度見舞いに行くな」

「はい、ぜひ。僕は毎日いるので、また会えるかもしれません」


 じゃあ、と手を上げて駆けていくリキの背を見送りながら、渉は安堵の息を吐いた。相変わらず仲のいい兄弟のようで安心した。ゴウも思ったより元気そうで、よかった。

 怪我の具合も心配であったが、何よりも気がかりだったのは心の問題だった。あんな恐ろしい目に遭ったのだ、普通はトラウマになってもおかしくないが、ゴウは見かけによらず意外とタフであった。


 渉と芽亜凛は目的地に向かうためバスに乗った。隣同士で座っても気まずさなんてものはなく、女友達と一緒にいるかのような穏やかな心地であった。互いに口数が少ないことをわかっているため、無言の空間も苦ではないのだ。

 バスを降りて徒歩で練習場へと向かう。しかし見えてきたのは、いわゆるスポーツクラブや施設の類――ではなく、であった。


「紫陽花邸……って」


 渉は唖然として建物を見上げ、次に住所を確認して二度見した。間違いない、ここがリキの言っていた練習場であり、同時にキザキの実家である。渉はぽかんと口を半開きにさせて、呆気にとられた。


「金持ちとは聞いてたけど……これ家だったのかよ」


 でかい……でかすぎる。美術館かと見紛うほどの豪邸だ。世界遺産か歴史的建造物かと言われれば納得してしまうだろう。


「ベルサイユ宮殿って日本にあったんですね」


 角を曲がった突き当たりには立派な門がそびえ立ち、敷地内は背の低い木々がぐるりと取り囲んでいる。建物まではまだ距離があるものの、ここから見ても十分すぎる大きさであった。

 芽亜凛は臆することなく門まで進み、インターホンを鳴らした。門に備え付けられたカメラのレンズが、じっと渉たちの様子を窺っている。『はい』としわがれた男性の声が応答して、芽亜凛は訪問理由をさらりと告げた。


「私たち、藤ヶ咲北高校の生徒です。キザキさんに用があって来ました」


 するとしばらくして門がギイ……と開き、『どうぞ』と同じ人が答える。落ち着いた年配者の声だった。

 二人は門を抜けて邸宅の敷地内へと足を踏み入れる。本来は車で移動するのであろう広大な噴水広場が、奥へ奥へと続いていた。端から端まで歩いて移動するだけで、いい運動になりそうである。

 正面に玄関が見えてくると、白髭をたくわえたおじいさんが待ち構えていたようにドアを開いた。丸い眼鏡をかけている顔には深いしわが年輪のように刻まれているが、着こなしているのはしわひとつない上質なスーツである。


「どうぞなかへ。坊ちゃまはただいまクラブの練習中でございますゆえ、少々お時間をいただきます。ごゆっくりとお寛ぎください」

「……あ、はあ、どうも」

「お邪魔します」


 靴を履いたまま客間へと案内され、これまた高級そうなソファーに腰を落ち着かせた。今まで座ったどの椅子、どのソファーよりも座り心地がよく、思わず芽亜凛と顔を見合わせる。


「俺、本物の執事見たのはじめてだ……」

「私もです」


 客間にはおじいさんのほかに女性の使用人が行き来していて、渉と芽亜凛のテーブルにケーキと紅茶が手際よく差し出された。

 芽亜凛はケーキを一口食べて、「おいしい」と頬を押さえる。焼き立てなのか、きめ細やかな生地がふんわりとしていて、ナイフを入れると想像以上に柔らかく切れた。


「このケーキ、お家で作られたものですか?」

「ええ、そうでございます。うちのパティシエが腕を振るって作っているもので。お気に召していただけましたらご光栄でございます」

「とてもおいしいです。持ち帰りたいくらい」

「ホールでご用意いたしましょう」


 渉は舌に広がる甘さを紅茶で流しこみながら、執事のおじいさんと芽亜凛のやり取りを見守る。


「炭酸ご飲料がお好みでしたら申し訳ありません。坊ちゃまは炭酸水がお飲みできないため、うちではお出しできないのです」

「ストイックなんですね」

「ええ。幼少の頃からあのシュワシュワがお苦手なようで」

「それはストイックじゃなくてただ嫌いなだけだろ……」


 つい小声で突っこんでしまったが、執事のおじいさんは上品に微笑んでいる。使用人というよりも、孫を思う祖父として語っているような慈愛に満ちた微笑みだ。


「なあ、橘」


 ケーキを食べ終わってマカロンを味わう芽亜凛を、渉は横目で見た。次から次へとお茶菓子が運びこまれてくるこの環境は、スイーツ好きの彼女にとっては天国かもしれない。


「キザキのことどう思ってる?」

「……どうって。よくは知りませんけど。望月さんといろいろあった元藤北の生徒でしょう」

「まあ、そうなんだけどさ……」

「怖い人ってイメージがあります、話を聞く限りですけど。でもお金持ちで炭酸が苦手で、こんな温かな人たちに囲まれて育って、それだけ聞くと可愛らしく思えますね」


 芽亜凛は淡々と言って、マカロンを口に運ぶ。渉が抱くイメージとおおむね一緒だった。が、しかし。


「ここだけの話、キザキはすげえ馬鹿だ」

「……はい?」

「英語は得意だった。つーか、ぺらぺらなレベル。海外に住んでたから得意なんだって。でも英語以外は全部赤点だ。体育はできたけどな」

「頭悪いんですか」

「うん。すげえ悪い」


 キザキは口も悪く態度もでかい一匹狼。人付き合いが悪く、休み時間は常に一人で過ごしていた。ボクシングを習っていたため、喧嘩をすれば藤北の不良生徒の誰よりも強かっただろうし、そんなイメージが定着していたため誰も挑もうとはしなかった。

 クールで喧嘩っ早い不良生徒。一見格好よくも見えるキザキのその頭脳は、最低レベルのものだった。


「馬鹿ほど何しでかすかわかんねえだろ。だからもしキザキが暴れたら、橘は離れてくれ」




 それから三十分ほど経って、キザキは客間に現れた。シャワーを浴びてきたらしく、ふかふかのバスローブに身を包んで、濡れた頭をタオルで拭いている。キザキは渉を見るなり目を見開いて、執事のおじいさんに視線を走らせた。


「坊ちゃま、ご友人がお待ちしております」

「ご友人じゃねえ。何のこのこ入れてんだよ! なんで人んちで勝手に茶しばいてんだよ」

「っ、キザキ!」


 烈火のごとく怒りをあらわにするキザキを遮って渉は立ち上がり、ぎゅっと拳を固めて声を絞り出す。渉より少しだけ高い背丈で睨みを利かせる目つきの悪いこの男こそ、渉の因縁の相手。渉が退学させた、紫陽花刻輝だ。


「今日はお前に、頼みがあって来た」


 渉はテーブルよりも前に出てキザキと向かい合う。

 頼み、と聞いて、キザキの長い前髪の奥で、ぴくりと眉が吊り上がった。


「頼み? お前が?」

「藤北のパソコン……お前んちの商品が、何者かにハッキングされてる。お前に頼めば調べてくれるかと思って、今日ここに頼みに来た」

「それが人にものを頼む態度かよ」


 キザキは舌打ちをして渉の胸ぐらを掴んだ。鼻先がぶつかりそうなほど顔を近づけて、威嚇するようにギギギと歯軋りする。


「土下座しろよ。今ここで」


 キザキは、ドンッと渉を突き飛ばすと、人差し指を床にぴしりと向けた。「坊ちゃま……」と使用人がため息混じりの声を漏らすが、キザキの姿勢は変わらない。苛立ちのこもった鋭い両目で、彼は渉を捉え続ける。

 渉はぐっと息を呑んで、覚悟を決めた。深呼吸してから目を瞑り、ゆっくりと膝を折る。


「頼む。このとおりだ」


 冷たい床に両手と両膝を付き、最後に頭を擦り付ける。


「お前にしか頼めないんだ」


 朝霧のこと、ゴウのこと。亡くなった小坂めぐみのこと。今まであった事件のすべてが、ぐるぐると渉の脳を駆け巡った。

 銃撃事件の犯人とその犠牲者。響弥が黒幕として警察から逃げていること。掲示板でひそひそと囁かれていること。

 親友を売ったこと、庇えなかったこと、信じられなかったこと。非現実に足を踏み入れてしまったこと、友達に怪我を負わせてしまったこと。

 もう何もかも、戻れないということ。

 これは自らに対するけじめだ。渉はもう逃げない。過去からも、未来からも。


「お前が俺を恨んでることは知ってる。でも頼む! 調べてくれ。誰が学校のパソコンを乗っ取ったのか。誰が事件の手引きをしたのか」


 このとおりだ……と渉は繰り返し歯を食いしばった。

 人前で頭を下げる渉と、それを見下ろす紫陽花刻輝。芽亜凛はそんな二人を、黙って見つめていた。どちらがより格好悪いかは明白であった。それはキザキ自身も気づいているようだった。

 彼はふと芽亜凛と視線がかち合うと、ばつが悪そうに口を開いておろおろと目を泳がし、最後に「くそっ」と悪態をついた。


「……かった……わかったよ」


 吐き捨てるように言って、どかっとソファーに腰を沈める。渉はそっと頭を上げて、ぐしゃぐしゃと頭を掻いているキザキを正面から捉えた。


「女の前で土下座なんてすんじゃねえよ。俺様の格好がつかねえだろ」

「ほ、ほんとに、いいのか?」


 ムッと顔を歪めてキザキは頬杖をつくと、「いいも何も、もう警察が調べてる」と。真実を明らかにした。


「お前に言われるまでもなく、警察はもう動いてんだよ。学校のパソコンは調べられたし、うちにも連絡が来た」


 渉が頼むよりも前に警察の捜査は進んでいた。そして、


「逮捕されたってよ。類巣るいす一真かずまとかいう、前科ありのハッキングマニアが」


 キザキの話によると、学校のパソコンから直接、類巣一真に辿り着くのは不可能だった。

 類巣はいくつものサーバーを経由し、複雑に雲隠れしている凄腕のハッカー。サイバー班は、学校にアクセスした元の元の元まで辿って、彼の居場所を突き止めたという。警察の威信をかけた捜査とも言えるだろう。

 警察は、彼の宿泊するホテルに雪崩れこみ、現行犯逮捕した。

 調べによると類巣は以前にも、信号機をハッキングしたとして逮捕されており、しばらくの間少年院に入っていた。当時は平成の天才ハッカーとして、新聞にも取り上げられたという。……響弥はこの記事を読んで、彼に近づいたのだろう。


 さらに、彼のいた少年院で行方不明者が上がっていた。戸川とがわ隆幸たかゆきという、類巣と同じ二十代前半の男である。

 隆幸は暴力事件ばかり起こしていた根っからのワルで、金遣いも荒く、少年院時代からよく類巣を脅しては金銭を巻き上げていた。隆幸の行方がわからなくなったのは今年の三月頃だ。

 戸川隆幸には兄がいた。戸川正幸まさゆきという、日龍高校に勤める教師が――


 キザキが持っている情報はここまでだった。類巣は不正アクセスの罪で、今も取り調べを受けている。隆幸の失踪に彼が関与しているかどうか、警察は深く追及していくだろう。

 Tシャツに着替えたキザキは渉と芽亜凛を見送る手前に、こう言った。


「お前は勘違いしてるようだけど、俺は俺の意志で退学した。学校はむしろ、やめなくていいって止めてきたんだよ。……だから、お前が退学させたんじゃない。勘違いするな」


 お前にそんな力はねえよ、と。

 勝手に罪悪感を抱いてるんじゃねえ、迷惑だ。キザキはそう告げて、渉と芽亜凛が出るよりも先に背を向けた。


    * * *


 茉結華は夕暮れが好きだった。特に、黄昏時。陽が沈みきる直前の、紫がかった静寂な空の下、人々の姿が真っ黒な影となって互いの顔も認識できなくなる、あの瞬間。あの時間帯。

 闇と光が混ざり合う曖昧な時間が、茉結華はとても好きだった。明るい場所では目立つ髪色も、黒く染まって溶けていくようで。

 だが夏の陽は高い。七月になって徐々に昼の時間が長くなり、陽が沈むのは十九時頃となっていた。お気に入りの景色が見られるのは、まだ一時間も先である。


 茉結華は、明るい夕方の空を窓越しに見つめた。自転車通学が許可された範囲にも関わらず、通学路を走って帰る少女の姿を捉えて、ほくそ笑む。

 玄関のドアが開く音がする。「ただいまー」と、遠くで少女の声がする。

 手洗いうがいをする水の音、階段をゆっくりと上がってくる規則正しい足音。


 コンコンとノックが聞こえて、がちゃりと扉が開いた。

 茉結華は部活帰りの彼女を見て、にんまりと口角を上げる。


「おかえり、凛ちゃん」

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