盗み合うのは
E組の男子がサッカーボールを食らい、軽い脳震盪を起こしたという話はD組を中心に広まった。それが事故なのか故意なのかは目撃者が少なかったこともあり、誰がボールを当てたとかいう話にまで進展しなかった。
望月渉にボールを当てた張本人である新堂明樹は、午後も何食わぬ顔で机に足を乗せてスマホをいじっていたし、一度も保健室を訪れずに下校していったのだろう。
萩野が保健室のドアを開けると、デスクにいた保健教諭の
猪俣は赤く塗りたくられた厚い唇を閉ざしたまま、「ん」とだけ喉を鳴らすと、奥の医療用カーテンを親指で指した。唯一閉め切られているそのなかに、渉がいるのだろう。白生地の幕は自ら光を放っているみたいに輝いて見える。
デスクにあった資料と筆記用具を抱えた猪俣は、萩野と入れ替わるようにして保健室を出ていった。閉まった扉と遠ざかるヒールの音に一度視線を預けてから、萩野は改まった様子で振り返ると、渉のいるベッドに向かった。
目の前を遮るカーテンの波が、ひどく神聖なものに映る。
(なかに望月がいるんだよな……まだ、寝てるのかな)
そう思えば思うほど、緊張感が募る。
萩野は、決して軽くはないカーテンの隙間に指を通した。音を立てないようにそっとめくると、膨らんだベッドの端が目に入る。先を辿れば、掛け布団の下に渉の頭が見えた。封筒を棚の上に置いて、その寝顔を覗き込んでみる。
力なく閉ざされた二重瞼。重力に従って少し乱れたふわふわの髪。呼吸に合わせてゆったりと往復する胸元。首には体操服の襟が見えている。倒れてから昼食後も、一度も起きることなく横になっているのだろうか。カッターシャツだとしわが付いてしまうので、敢えて着替えていないのかもしれない。
いつもと違うのは、ボールが直撃した顎に湿布が貼られていることだ。それ以外に目立った外傷はなく、萩野は安心すると同時に素直に見惚れてしまった。
(望月の寝顔見るの、はじめてだ……)
心臓がぞわぞわと騒ぐ。今すぐベッドのなかに手を入れて、温もりを感じたい。掛け布団をめくって、足の先まで見てみたい。彼の肌に触れたい。
萩野
眠る月と、二人きり――
萩野は息を潜めて、身を乗り出した。渉の親友の神永響弥は、先ほど担任の
(誰にもこの思いを明かせないのなら、いっそのこと)
受け入れられなくてもいい。知られなくてもいい。だから――いいよな、望月。
軽快な声が聞こえたのは、唇が重なる寸前のことだった。
「見ーちゃった」
鉛玉を埋め込まれたような鈍痛が胸の奥深くに走った。身体中から、サッと血の気が引いた。
一瞬のうちに顔を上げてカーテンを見やると、自分よりも背の高い影がひとつ。隙間から見える半身ははっきりとこちらを向いている。……誰だ?
萩野は渉を起こさぬよう慎重にカーテンをめくった。
「やあ」
スマホに目を落としていたその人物は、こちらを見てニコリと笑った。
「鍵はするべきじゃないかな、萩野」
「あ、朝霧……っ」
きみのその顔が見たかった、と言わんばかりに、成績優秀文武両道を貫く優等生こと朝霧
『どうしてここに?』萩野はそう言いたい口を閉ざした。芽亜凛の指示で、渉は今朝から朝霧に接触していたし、噂を聞いて保健室に来たと考えておかしくない。
それよりも、音もなく扉を開けて、そっと忍び寄った朝霧の行動に疑念が湧く。保健室はそう広くはないし、静音とは言え扉の開閉くらい耳でわかる。なのに、彼の気配にまったく気づけなかった。いったいいつから見られていた?
「昼休みは生徒会に呼ばれて来れなかったけど、サッカーボールが顔に当たったんだって? キーパーでもしてたのかな」
朝霧は見透かしたように笑うと、棚の上の封筒を手に取ってベッドの上に腰掛けた。寝ている渉には目もくれず、極自然に足を組む動作が似合う。封筒の中身を取り出して眺めたかと思えば、胸ポケットからボールペンを抜いて何か書き込みはじめた。その手にあるのは萩野のノートのコピーである。
あのさ、さっきの――見ちゃったってどういう意味? そんなふうに尋ねたいのに、声が出せない。
見られてしまった。知られてしまった。ならばどう誤魔化そうか。なんでもないと嘘をつき、相手が納得する答えを導き出さなければならない。それが自分のためであり、渉のためなんだと。自ら冒した行動を取り繕うことに必死で、頭が支配される。渉の手伝いができたらいいなと思っていた今朝の余裕が嘘みたいだ。風邪でもないのに、喉がズキズキと疼いて止まない。
「部活遅れるんじゃない?」
「…………、えっ」
ページをめくっては赤ペンを走らせている朝霧の言葉に、萩野は一秒遅れて反応する。今は部活だの何だのと言っていられる心境じゃないというのに。
朝霧はフッと口角を上げると萩野を見上げるように首を傾けた。
「安心しなよ、誰にも言わないから」
「朝霧、勘違いしてないか?」
反発した返しが咄嗟にこぼれ落ちる。
「俺は別に、やましいことなんて何も――」
「隠すことないだろ。一時は共に同じ青春の汗を流した仲なのに。それに、嘘をつくのは相手にも失礼だ。そうは思わない?」
朝霧は眉をひそめて渉を振り返った。萩野も朝霧もたいして声は潜めてないというのに、渉はすやすやと眠りこけている。
(青春の汗……か)
確かに、そのとおりかもしれない。自分の気持ちに嘘をつくのは、相手を裏切ることにもなる。だからきっと、朝霧の言っていることは正しいのだろう。同じ学級委員としても、こんな否定の仕方で幻滅されたくない。
萩野は小さく息を吐いて「誰にも言わないでくれ」と言った。
「だから、言うわけないだろ。僕がそんな人間に見える?」
ううん、と首を振ると、朝霧は満足げに頷いた。
普段の行いからして、朝霧は人格者だ。誰にでも優しく接し、困っている人には手を貸し、自分のことより他人を優先できるそんな人。萩野もその手に救われたことがある。
「でも驚いたよ。相手が望月くんなんてね」
朝霧は再びプリントに向かいはじめる。萩野はその真面目そうな横顔に、ちょっと試すつもりで投げかけた。
「……朝霧は、性別を問わないのか?」
「だって萩野は普段からそうだろ? 男とか女とか、そんなのきみにとっては問題にならない」
朝霧自身のことではなく、萩野に対する指摘が返ってきた。
芽亜凛の意見と同じだ。以前彼女からそう言われてなければ、萩野はこのタイミングで相当焦っていただろう。けれど今はもう、端的に受け止められる。
萩野は自虐的に笑った。
「男好きに見えてるってこと?」
「違うよ。男好きでも女好きでもない。萩野は男女の性別に縛られず、どちらも愛せる両性愛者ってところかな」
「そんなふうに見えてるんだな……」
「違う?」
「いや、違わない」
前々から自覚はしていた。おそらく自分はそういう人たちと同じなのだろうと。他人から見てもそのように映っているというのは芽亜凛に言われてはじめて知ったことだが、朝霧もそれがわかるタイプのようらしい。
朝霧はプリントを封筒に戻して棚の上に返すと、ベッドに両手を付いた。
「それで、きっかけは何? いつから……好きなの?」
尋ねながら朝霧は、慈愛に満ちた眼差しを渉へと向ける。敢えて名前を言わなかったのは本人が隣で眠っているからか。そんな朝霧の気遣いに安堵して萩野は首を振る。
「いや、俺にもわからないよ。気づいたら、相手のことばかり考えるようになった」
「望月くんのことを、だろ」
ピシリ、と視界に亀裂が入った。恐ろしいくらいのスピードで自分の顔から笑みが消える。
(……面白がってるのか?)
萩野が沈黙を武器にしていると、朝霧はわずかに瞼を持ち上げて振り向き、こちらの顔を見るや欠けた月のように丸い弧を目に描いた。
「告白はしないの? まさか初恋?」
「……それは違う」
「そう。最初は女の子だったのかな?」
「朝霧、もうやめないか」
思わず不快感を表して言うと、朝霧は人差し指を口元に立てた。
「黙っててほしいんだろ?」
「……っ」
脅迫めいた返しに背筋が凍る。無邪気に微笑む朝霧は、冗談だよ、とは言ってくれず萩野を見据え続ける。こんな朝霧を見るのははじめてだ。誰にも言わないって、先刻まで言っていたのに……。身体中の血が徐々に沸き立つのを感じる。それは焦りでも恐怖でも怒りでもなくて、ただならぬプレッシャーだった。
萩野は不服そうな顔で答える。
「最初は女の子だったよ。幼稚園が一緒だった子だ」
「へえー。望月くんは二番目以降なんだ」
訊いておいて何だその薄い反応はと思ってしまう。脅し文句をしてまで答えを迫ったくせに、萩野の初恋話には興味なさそうだ。二番目以降という言葉が嫌味に感じたのは気のせいではないだろう。
「朝霧だって、今気になってる人いるんじゃないのか?」
『朝霧修は百井凛に告白しようとしている』
こちらには芽亜凛から聞いたその事実があるのだ。
だから萩野は、少しばかり意地悪のつもりで話を振ってみたのだが、
「んー今は別に。強いて言うなら望月くんだけど――ああ、ヘンな意味じゃないよ?」
両手を振って弁明する朝霧に、萩野の表情筋が強張る。まるで他人の神経をわざと逆撫でしているような口ぶりだ。
「そう怖い顔するなよ。僕にも事情はあるんだ」
「事情って――」
「なあ萩野、『どうしてお前がここに? 望月と仲よかったっけ?』って訊くのを忘れてないか?」
(え……?)
萩野は瞬きを繰り返した。どうしてわざわざ尋ねろと言うのだろう。それは先ほど訊くのをやめたことではないか。
理解できていない萩野に、朝霧は懇切丁寧に説明する。
「望月くんがはじめて僕に話しかけたのは今朝だよ。まあ厳密にははじめてではないんだけど……。そんな浅い関わりの僕に対して、望月くんに夢中な萩野が指摘しないのはおかしいじゃないか。まるで彼が僕に会いに来るのを知ってたみたいだ。――二人で悪巧みでもしてるのかな?」
しまった、と今さらながら気づいた。朝霧からすれば、萩野に疑問を抱かれないほうが怪しいということになるのだ。
会ってわずか数分で見切った朝霧の洞察力に思考が追いつかない。忘れていたわけではないが、相手は学年一位の成績を誇る朝霧修だ。カーテン前で相対したときに、萩野はとぼけてでも尋ねるべきだったのだ。
(もしかしてそれで朝霧は、俺を牽制していた?)
萩野は頭の処理能力をフルスロットルで回す。芽亜凛のことは口が裂けても言えないし、言うつもりもない。ほかに理由を挙げなければならない。
渉が朝霧の元に入り浸っていた時間、萩野は体育館で朝練中だ。今朝二人でいるところを見たという嘘は使えないだろう。ならばここは、正直に――
「あ、はは……なんだ、バレてたか。実はさ、昨日望月に相談されてさ。どうしても朝霧と仲良くなりたいって言ってたから、思い切って声をかけてみるよう勧めたんだ」
勧めた――ではなく指示をしたのは芽亜凛だが。下手なことを言って墓穴を掘らぬよう注意はしたつもりだ。
朝霧は「へえー」と抑揚を付けずに言った。
「彼、僕の顔も知らなかったようだけど」
「…………、えっと、マジ?」
「うん。『朝霧修くんの席ってどこ?』って。ふふっ、目の前にいるのに」
渉がA組に向かったのはほとんど一番乗りらしかった。朝霧修のいない間に彼のことを調べておこうと、早くから教室に来ていたクラスメートに話しかけたら、それが本人だったと。朝霧に言われて慌てふためく渉の様子が安易に想像できる。昨日は顔を見ればわかるかもと言っていたが、残念ながら名前と一致していなかったようだ。
「じゃあ悪巧みしてるのは望月くん一人ってことかな」
「いや、望月はそんなことしてない。お前に勉強を教わりたいって、そう言ってた」
これは事実。昨日の帰りに、渉が言っていたことだ。勉強を教わりたいって言えば何とかなるかな、と。同じ理由を渉が今朝挙げているとすれば、朝霧も聞いているはずだ。
「ふぅん。勉強なら自分が教えてやるって、萩野なら言いそうなもんだけど、まあそういう理由にしておくよ。よく好きな相手にほかの男を押し付けたものだね」
別に押し付けたわけでも押し付けたかったわけでもないが。もしも芽亜凛のことは一切なしで、渉からそんな相談を自主的にされていれば、萩野は自分のほうへ引き止めていただろう。
萩野は「俺にも事情があるんだ」と朝霧の言葉を借りて誤魔化した。――会話はここまでだった。
朝霧は片頬を吊り上げて、後ろの掛け布団を強引にめくった。眠っている渉の腕や脚、紺色の体操服があらわになり、萩野は目を疑う。
「なっ、にして――」
萩野の反論をよそに、朝霧は渉の手を握った。値踏みするみたいに、丹念に指を這わせて絡める。寝苦しそうに首を動かした渉の眉間にしわが寄るが、お構いなしだ。
「すごく熱い。熱でもあるみたいだ」
そう言って身を乗り出し、渉に顔を近付けた朝霧に、萩野は一歩踏み出す。朝霧は上目遣いで萩野を見た。
「駄目?」
「――は?」
つい弾かれたように強い語調で返してしまう。
朝霧は眉尻を下げて、「熱があったら大変だろ?」と自身の額を指差した。
(それはそうだけど……)
いちいち過剰になってしまう自分が恥ずかしくて、悔しい。
布団を引っ剥がされた渉は寒さから寝返りを打ってごろんと丸くなる。手を握られているため、顔が自然と朝霧のほうを向いてしまうのがどうにも気に入らない。
朝霧はそんな渉の前髪を遠慮なく掻き上げて、額を斜めにくっつけた。萩野は口内に溜まった唾液を飲み込む。どうしてそんな簡単に、領域を侵せるのか。
「熱はないみたいだ。それにしてもよく眠ってる」
顔を上げた朝霧はくすくす笑ってスマホを取り出し――カシャリ。渉の寝顔をカメラに収めた。積極的すぎる優等生の行いに萩野は怒る気にもなれず呆れる。
「盗撮だぞ……」
「萩野だって唇を奪おうとしたじゃないか。おあいこだろ。何なら、萩野も一枚撮っとく? 待受にすれば、恋が成就するかもしれないよ」
にこにこ笑ってみせるのは、あの刑事と同じなのに、彼とは決定的な何かが違う。
朝霧の笑顔は、白々しく黒々しい。
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