渉の寝顔が映ったスマホ画面には、18:10と時刻が表示されている。鍵の外れる音がして玄関のドアを開けると、部屋着姿の芽亜凛が現れて「望月さんは一緒じゃないんですね」と萩野を見回した。


「望月なら朝霧と一緒に帰ったと思う。いたほうがよかった?」

「いえ、役目を果たしてくれて結構です。今日の報告をお願いします」


 相変わらず親交を深めるような無駄話はせず、芽亜凛は無防備な身を翻してリビングへと先導していく。萩野は玄関の鍵を閉めて家へと上がった。もう言われずとも鍵をするほどには、この家での振る舞い方に慣れてきている。芽亜凛のラフな部屋着にも見慣れてしまったが、萩野には関係のないことだ。


『プリントありがとう。朝霧と帰るよ』という、渉からのメールに気づいたのは部活終わりのことだった。うまくいってよかったなと思う反面、寂しいような、惜しいような、これと断言できない感情が今もなお続いている。

『お。そっか、仲良くなれてよかったな!』などと返しておきながら、腹の底は煮え切らないまま。文面とはほど遠い本心が、萩野のなかで見え隠れしていた。


 暖簾をくぐった先のリビングで、芽亜凛は座椅子に腰掛けていた。今まではお茶を出してくれていたが、昨日――萩野が渉を連れてきて――からやめたようだ。萩野自身そんなに礼儀にはこだわりはないため、気にせず向かいへと座る。


「えっと、まずは体育のことだよな。――実は今日、跳び箱じゃなかったんだ」


 女子の体育が跳び箱ではなくバレーだったこと、男子の体育はサッカーだったこと、ついでに渉がボールを食らって倒れたことも伝えると、芽亜凛は顎に手を添えて「こんなことは、はじめてです」と驚愕をあらわにした。


「この先の流れがどう変化するのか……予測できません」

「三城には言ってあるし、とりあえず跳び箱の件はクリアしたってことでいいんじゃないか?」

「……そうですね。まだ別の学年から怪我人が出る可能性はありますが、無関係な人間が巻き込まれるのは彼も本望じゃないでしょう」


 犯人の狙いは殺人をオカルトに見立てることだと芽亜凛は言っていた。誰を中心に事件を起こそうとしているのか萩野にはわからないが、しかし狙いはE組関係にあると理解した。そして、他クラスならまだしも、同じE組の渉を引き入れたのはまずかったのだと今になって気づく。


「俺はこれからどうしたらいい? 望月と一緒に朝霧を守るか?」

「いえ、萩野くんが介入すると望月さんが控えそうなのでこのままで。凛はどうしてますか?」


 芽亜凛からのゴーサインさえ出れば、何の咎も感じずに渉といられるのに。そっか、と相槌を挟む間もなく問われて萩野は口ごもる。


「百井は……朝から元気なかったよ」


 親友とその家族がつい先日亡くなったのだ、落ち込むのは当然のことかもしれない。体育後の昼休みは、廊下でも教室でも凛を見かけなかったため、おそらく保健室で渉と昼食を取っていたと思われる。

 渉が凛を心配するように、凛も倒れた渉のことを心配していたのだ。以心伝心する二人の関係を、羨ましくないと言えば嘘になる。


「そうですか……。もしも凛に生物学の笠部かさべ淳一じゅんいちが声をかけたら、萩野くんがそばにいてあげてください」

「ああ、笠部先生もまずいんだったな。うん、気をつけてみるよ」


 笠部先生が下手な真似をしないように。死なないように――

 渉は、凛のことはそっとしておくと言っていたけれど、彼女を守るためなら一緒に動いてくれるはずだ。二人で凛の護衛をすることはできないだろうか。それともやっぱり、朝霧を優先してもらうしかないのだろうか。

 萩野はそんなふうに、どうにかして渉と一緒にいられないかを思案してばかりだった。


    * * *


「萩野萩野!」


 渉に改まって呼ばれたのは次の日の帰り、ホームルーム後のことだ。渉の席は萩野から見て左一列を飛ばした斜め前。彼の視界には入らないが、萩野の視界にはいつも入っている、そんな位置だ。

 渉は学生鞄を肩に掛けて萩野の机に手をついた。


「あのさ、昨日のノートのコピーありがとな。あれって、萩野のノートだろ?」


 なんだそんなことか、と思いつつ、『そんなこと』でも渉に言われれば嬉しかった。欠席者に送るノートのコピーは学級委員が取ることがほとんどである。萩野と凛の字は明らかに異なるため、消去法で渉はそう思ったのだろう。

 萩野は自然と顔を綻ばせて「ああ、いいってことよ。望月の役に立ったなら俺も嬉しい」と答えた。どうせ渉に送るのなら何かメッセージでも書いておけばよかったな、と鼻を掻いたとき、


「特にあの、すっげえわかりやすかった!」


 指先が、唇の端が、ピクリと震えた。

 白い歯を見せる渉は、溢れんばかりの笑みを湛えていた。萩野の脳裏で、プリントに目を落とす朝霧の横顔が映る。

 ――ああ、そうだ。この笑顔は俺に向けられたものじゃない。


「……それ書いたのは、俺じゃないよ」

「えっ、そうなの?」

「うん――俺は知らない。たぶん、先生じゃないか?」


 これが、嘘をつくという感覚なのだろうか。身が引き裂かれる思いとまではいかず、どこか心地がいい。まるで目に見えない、そう、魂が裂けたかのような不安と高揚感と気持ち悪さ。

 それでも渉は、「そっか……でも、ありがと」と、先ほどより控えめに笑うのだった。

 萩野は学生鞄を肩に、バスケ用のバッグを身体に掛けて立ち上がる。


「よし望月、部活行くか! 先輩も待ってるぞ」

「あっ、ごめん、朝霧と帰る約束してて……」


 朝霧の名前が出た途端、なぜか首から上の熱が上昇した気がした。前までの渉なら、『朝霧』ではなく『響弥たち』と言っていただろう。たったそれだけの変化に萩野の心はざわつく。


「もしかして、連絡先交換した?」


 鎌をかけたつもりで尋ねた萩野に、渉はうん、と照れくさそうに頷いた。えっ、ほんとに? と思わず滑りそうになる口をつぐむ。それは以前、萩野が朝霧の連絡先を断られたからである。

 誰に対しても親しく接する朝霧修は、同様に、誰にも媚びない。困ったように頬を掻き、「ごめんね、僕そういうのはしない主義なんだ」と萩野の誘いを謝った朝霧は、まさしく高嶺の花だった。ゲームやインターネットさえやらないんじゃないかという硬派な想像もできれば、友達との話題には尽きず応じる、バラエティにも富んでいる。A組生でも個人で連絡を取り合えるのは少数だろう。彼らにとって、憧れの優等生と連絡先を交換するというのは、それだけでステータスになるのだ。

 ――そんな朝霧修が、いとも容易く応じた?


「へえ、よかったな」


 二人の距離が縮まるのはイコール、芽亜凛の計画が思うように進んでいるということだ。いいことじゃないか、と自分に言い聞かせながら、萩野は事切れそうな笑顔を保った。

 そうして胸の内に広がり続ける煙には、気づかぬふりをするのだ。


    * * *


 放課後部活終了後、萩野は体育館中に転がったバスケットボールを拾い集めながらため息をついた。

 今日のシュートはなかなか決まらなかった。十本中、たったの三本。これは一年生の最低シュート率に値する。二年生として、そして次の部長候補としては落ち込まずにはいられない。


「萩野、それちぃと貸しー」


 ボールカゴの横であぐらをかき、空気入れを持って言ったのは三年生の四月朔日わたぬぎ先輩。萩野がボールを手渡すと、四月朔日は眠たげな眼を持ち上げて、「ああ、これじゃこれじゃ」と慣れた手付きで空気を入れはじめた。


「空気抜けてしもぉとる。シュート練習打ちづらかったじゃろう?」

「? いえ、それは終わりに拾っただけなので、俺が使っていたボールかは」

「いーや、萩野の使ったボールはこれじゃ。色でわかる」

「は、はあ……」


 シュートのほかにも、パスやドリブルを1on1で反復したりと練習メニューに則った活動はされている。一人がずっと同じボールを使うわけじゃないので、判別は難しいと思われるが。

 ――ひょっとすると、励ましてくれている?


「なあ萩野。ワタ公の怪我はそがーに酷いんか?」

「え……? あ、ああ」


 そういえば昨日先輩には『体育で怪我をしたので今日は来れないそうです』と伝えていたのだった。

 四月朔日先輩はどうやら渉のことを酷く気に入っているようで、幽霊部員の枠を埋めるために誘ったり、誘ってくれと萩野に伝言したりしている。こないだも昇降口前で渉に絡んでいた――金髪が目立つので一目で見分けのつくバスケ部の先輩である。地方出身だそうで、濃厚な訛りはそのせいらしい。


「今日来れないのは、先約がいたからっすよ」

「先約ぅ? あー、あの親友かのお。中学生チュウボウの頃はこまかったのに、随分と背が伸びたのお」


 わしも抜かされそうじゃ、と言う四月朔日先輩。おそらく響弥のことを指している。


「神永じゃなくて、今日のは、朝霧っすよ。元バスケ部の」


 ――そう、元バスケ部。共に同じ青春の汗を流した仲。

 萩野と朝霧は、ただ委員長同士だからというだけでなく、一年の頃から部活を通して互いのことを認知している。


「あーさーぎーりぃ? 去年辞めよった奴か」


 四月朔日の顔があからさまに引きつったのを見て、萩野は目を泳がせる。

 朝霧は夏の大会を最後にバスケ部を辞めた。その理由は不明である。彼なら部活も勉強も両立できるくらいのスキルは持っているはず、だから余計にわからない、と部員一同は困惑した。新堂明樹が幽霊部員になったのもその頃、というより、朝霧が去ってからだ。


「なんじゃ、ワタ公の奴……あの優等生にたぶらかされたんか?」

「ど、どうっすかね」


 ははは、と萩野は乾いた笑いをした。どちらかと言えばたぶらかしてるのはこちらのほうだ。

 空気を入れ終わったボールの感触を確かめつつ、四月朔日は立ち上がった。


「寂しいのぉ……」


 言いつつ四月朔日は、手前のゴールに向かって歩いていく。


「萩野、ワタ公のこと――好きじゃろ?」

「――――」


 四月朔日先輩はスリーポイントシュートを決めた。耳に入るすべての音がシャットアウトされて、バウンドするボールの音が急に返ってくる。

 萩野は瞼をぱちぱちと開閉させ、乾いた眼球を潤した。


「え、えっと……好きっていうのは……」

「ん? 気に入っとるじゃろ? いっつも誘ってきとるし。わしは大好きじゃ」


 えっへんと胸を張る四月朔日の顔には自信が張り付いている。

 そういう意味、か……と萩野は内心ホッとした。四月朔日の言う好きと、萩野の言う好きは、似て非なるものだ。


「ああ、そうじゃ。辞めると言えば、生物学の――」


 四月朔日は思い出したように、萩野が持ち帰るにはうってつけの情報を口にした。

 生物学の笠部先生が、学校を辞めるらしい。

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