辿る観覧車

「辞めるって、どういうことですか? いえ、その……生徒に乱暴したとか、そういう話は」

「うつ病が深刻化したらしいって先輩は言ってたけど……」


 夕方の報告会。萩野の話を聞き終えた芽亜凛は絶句することとなった。

 体育の予定がずれて内容が変わった上、何も事件を起こさずに辞めていく笠部先生。持病を患っているとは芽亜凛も知らなかったことだ。

 確定された未来でないにせよ、松葉家の火災を引き金に、こうも問題が変わろうとは。


(このままあの人が、何も行動しないなんて思えない)


「わかりました。今は引き続き、朝霧修の監視をお願いします」


 次の問題は、『凛を遊園地に誘う朝霧修』だが、その行動は意味をなくしている。朝霧本人も凛に関わる必要は、最早ないと思っているはずだ。しかし、彼を生き長らえさせることが吉と出るか凶と出るかは、まだわからない。


「……朝霧ってさ」


 そう口を開いた萩野の声があまりにも掠れていたので、芽亜凛は『ん?』と眉を上げた。


「あ、いや、まさか朝霧が犯人とか、ないよな?」

「……………………え」


 突拍子もない発言に、点と点が結びつかない。とてもじゃないが、渉と一緒に朝霧を守ろうとしていた萩野の意見には思えなかった。


「……ない、ですよ?」

「だよな……」

「萩野くん、大丈夫ですか?」

「ああ」


 変なこと聞いてごめんな、と笑う萩野の様子は、なんだか空元気に見えた。朝霧と何かあったのだろうか。


 朝霧修。学年成績一位の男。

 彼は犯人ではない。けれど――


    * * *


 萩野が帰った後芽亜凛は、朝霧と乗った観覧車での出来事を思い出していた。

 ネコメ曰く、芽亜凛の記憶、魂が、の六月十六日を迎え――これで三回目となる遊園地デート。このときも男女ペア制は行われ、凛はジャンケンを提案した。芽亜凛は凛と渉の距離を一定に保つためにジャンケンで負け続けるなどして、とは真逆の行動を起こした。


 最後の最後で渉とのジャンケンに負けて、芽亜凛と観覧車のペアになった朝霧修はゴンドラに乗り込むと「勝てると思ったんだけどね」と苦笑しつつ隣に腰掛けた。

 渉は凛とペアになれることを『運』として祈っていたようだが、朝霧は実力で勝ち続けることにこだわりがあるように見えた。負けを固定していた芽亜凛と逆のことを、彼はゲーム感覚で行なっていたのだ。


たちばなさんはどうして負け続けているのかな。それ、天然じゃないだろう?」

「…………」


 それは裏を返せば、ジャンケンで勝ち続けられる実力が凛にはないと言っているようなものだが――現に固定していたことは図星なので芽亜凛は突っ込まない。『それを言うならあなたもですよね』と返すこともできたが、自分と違って天然で勝ちを求める朝霧を褒めることになるのでやめた。芽亜凛は過去の記憶を元に固定していたのだから、朝霧には敵わないのだ。

 他人に探りを入れる朝霧を意外だと思いながら、


「調整ですよ」


 芽亜凛は離れていく地上に目をやり、ぶっきらぼうに返した。四周目の自分なら、『ヒミツです。そんなことよりも――』と朝霧修の今後の身を案じて熱心に忠告していただろう。無意味であることはすでに承知済みだ。


「調整?」

「今は二人をくっつけたくないんです」


 そう答えると朝霧は「へえ」と、興味の有無を感じさせない声色で言った。


「理由を訊いてもいいかな?」

「そうするべきだからです」


 渉と凛が両想いなのは見ていればわかる。どちらかが告白して、恋人同士になるのは簡単なことかもしれない。

 けれどそれでは駄目なのだ。付き合ってしまったら、と同じ目に遭う恐れがある。


「ふぅん。きみは望月くんが負け続けると予想し、それを望んでいたわけだ。そして僕も利用されたと。負けちゃってごめんね」


 皮肉を言いつつ朝霧は眉を八の字にして軽々しく笑う。


「でも、彼が色恋にうつつを抜かすのは、僕もつまらないからね。勝つように煽ってくれたのはありがたいよ」


 やはり朝霧はゲームを楽しんでいたようだ。誰とペアになるかではなく、渉との勝負で勝つことに執着していた。そもそも恋愛に疎い渉がこうして必死になっているのは、朝霧が凛をデートに誘ったからだと言うのに。


「凛に告白をしてもフラれるだけですよ」

「僕もそう思うよ」

「わざわざフラれに行くつもりですか?」

「うん」


 朝霧はにこやかな笑顔で顎を引いた。

 どうしてもこの思いを伝えたい、だからフラれるとわかっていても伝えに行く――そんな純情ではないことを芽亜凛は肌で感じ取った。彼には何か、別の目的があるのだ。


「何が望みなんですか」

「望月くんを喜ばせたい」

「……」


 は? という声は喉の奥で押し潰された。

 朝霧は芽亜凛の平坦な目を見ても意に介さず、緩んだ口元の前で指を組む。


「僕……望月くんと仲良くなりたいんだ。すぐじゃなくていい。ゆっくり、じわじわと距離を詰めて、劣等感も警戒心も解いていきたい」

「そのために、凛に告白するんですか?」

「意中の子が目の前で別の男を振るんだ。百井さんは迷わないはずだし、簡単に抱ける優越感だろ?」

「……」


 ――ああ、そうか。朝霧は別に、凛のことが好きなのではない。

 朝霧修の狙いは、望月渉だ。真に興味があるのはそちらであって、凛ではない。これが朝霧修に抱いていた違和感の正体だと気づいて腑に落ちた。

 彼の気を惹くためなら、好きじゃない人にも告白する、と。『仲良くなりたい』という言葉の意味がまったくもってズレている気がした。学校にいる間は自分から避けていたのだろう。遊園地当日まで、誰にも悟られないように。


「でも……望月さんは、そんなことで優越感は抱かないと思います。むしろ、あなたと居づらくなるんじゃないですか」

「それでいいんだ。望月くんも百井さんも、誰かに言いふらしたりしないだろうし。二人でいる間は、僕と彼の秘密にできる。信頼を得るには弱みを晒すのが効果的だからね」


 確かにそのとおりではあるが、この人はいつもこうなのだろうか。他人の心理を読んで逆手に取る――芽亜凛もたまにやってしまうことだ。

 弱みを見せることは一見デメリットに見えて、そうではない。自己の開示は信頼に大きく繋がるのだ。渉のように強い正義感の持ち主ならなおさら良心の呵責に縛られるだろう。


「そうなるとどうなるかわかる? 彼も弱みを晒すんだ。弱みの相互提供。僕らの信頼は強まるし、警戒心も解ける」


 自分は不利のない弱みを晒しておき、相手からは本当の弱みを握る。悪用するつもりか? しかし朝霧は本当に下地としか思っていないように見える。

 何にせよこうして手札を揃えていくのだ。芽亜凛は朝霧のことを、歩く地雷みたいな人だと思った。


「そんなことしなくても、あなたの家庭環境を話せば、彼は容易に釣れますよ」

「ふぅん、何か知ってるの?」

「大体は」


 のとき、朝霧修の実の妹に聞いたことだ。彼が家でどんなふうに扱われ、妹に何をしてきたのか。妹が話す兄の人格は、普段の姿からは想像もつかないものだったが、今話してみると納得がいく。


「切り札は残しておきたいんだ。橘さんも、望月くんには、しーっだよ?」


 そう言って朝霧は唇に人差し指を立てる。ヒミツの共有も、言わば弱みを晒しているようなものだ。言われなくても話す気はないし、むしろ言ってほしそうな朝霧の手には乗らない。

 朝霧修が家族から忌避されていることを渉が知れば、彼は力になりたいと思うだろう――


「僕ずっと、望月くんのを見てきたんだ。彼のそれは無差別じゃない。場合によっては消極的で、嫌がることもあれば断るときだってある。でもその分、受け入れたものには全力で立ち向かう、暴力的な献身力があるんだ」


 ゴンドラはまもなく頂上に差し掛かる。

 渉のことを語る朝霧は、背後の窓から別のゴンドラを見下ろしていた。その視線の先に渉と凛の横顔があると知って、芽亜凛は足元から冷気が這い上がるのを感じた。


「その献身力を……自分だけのものにしたいということですか?」


 芽亜凛が片腕をさすりながら訊くと、朝霧は「まさか」と鼻で笑った。


「独り占めしようだなんて思ってないよ。むしろ僕は……」


 そう言葉を切り、朝霧はちらりと芽亜凛を窺う。あからさまな焦らしだ。言いづらいことならなおさら知りたい――芽亜凛は語気を強めて続きを促した。


「むしろ、何ですか? 望月さんをどうしたいんですか」

「……正常にしてあげたい」

「…………正常?」

「そう、。僕は――」


 ――その先で、耳を疑うような言葉が飛び出たのを、今でも鮮明に覚えている。

 芽亜凛は二の句が継げなかった。彼の言うことが最初から最後まで理解できなかったからだ。

 そんな芽亜凛の困惑を、朝霧は読心したように言う。


「理解しなくてもいいよ。そのうちきみにもわかるようになる」

「……はい、理解できません。だったら凛や、萩野くんはどうなるんですか。彼らだって――」

「百井さんも萩野拓哉も、正常だよ。もちろん僕もね」

「わかりません……」


 でも――と芽亜凛は首を振って言う。


「でも、あなたの善行は間違っている。渉くんに酷いことをするなら必ずバチが当たります。やめたほうがいい」

「はははっ、酷いことなんて……僕はしないよ。言っただろ、僕は彼と仲良くなりたいんだ」

「あなたがなぜ小坂こさかさんと付き合ったのか謎です」

「えっ、望月くんと付き合えってこと? うーん……さすがに今は難しいかな」

「そういう意味じゃありません」


 朝霧の女性関係に金銭が絡んでいることは妹情報で知り得ている。元カノである小坂めぐみも、おそらくはその一人。小坂の場合は一夜限りのそれっきりではなく、『彼氏』として関係を築いていたことになるが。


「少なくとも、彼女はあなたのことを想っていたはずです。お金だけの関係だったんですか?」

「僕だって真剣に『彼氏』をしていたよ」


 否定しないということは、やはり金銭が絡んでいたか。なんでこんな男に……。貢ぐ価値などないのにと芽亜凛は小坂めぐみを憐れに思った。


「……取っ替え引っ替え付き合ってるんですか?」

「そんなタイプに見える?」

「いえ……色恋沙汰は遠ざけるタイプに見えます」

「きみに似て、かな?」


 口元に手を寄せて朝霧はくすりと笑う。――朝霧に似ているなんて冗談でも言われたくない。


「合わなかったから別れたんですか?」

「いいや? 好きになってほしいって言われたから別れたんだ」

「…………」


 それの何がいけないのだろう。芽亜凛には朝霧の言っていることが理解できない。

 朝霧修はきっと、愛を知らないのだ。


「可哀想です」

「そう?」

「ええ。あなたを好きになった小坂さんは、素直で可愛らしくて馬鹿な人だと思います。そして可哀想な人というのは、あなたのことです」


 朝霧はふふっと含み笑い、「慰めてくれる?」「嫌です」芽亜凛は即答した。


「じゃあ、これなら聞いてくれるかな?」

「なんですか」

「愚痴」


 ――愚痴?

 芽亜凛は反射的に一瞥していた。朝霧の漏らす愚痴とはいったい何だろうと、密かに興味が湧いている。

 目線が合ったのを合図に、朝霧は愚痴とやらを話しはじめた。


「別れてすぐ、妊娠したかもしれないって言われたんだ。でも確率的にあり得ないんだよ。避妊はしてきたし、するときは安全日って決めていたし、薬なしでもしてこなかった。でもできてしまったのなら仕様がない、診察代は出すから病院に行こうって僕は言ったんだ。なのに――それを拒否するって、どういうことだと思う?」

「…………妊娠なんて嘘なんでしょう」


「だよね」と朝霧は肩を落とす。


「けど妊娠を疑うくらいなんだ。それなりの症状はあったんだろうと思ってね。だから彼女に……想像妊娠かもねって言ったら、想像なんかじゃないって泣かれた。これって僕が悪いの?」


 ――なるほど。

 小坂めぐみは別れた腹いせに――それともまだ別れたくないという思いで――朝霧に嘘をついたのだ。それは乙女心故の嘘であり、相手からしたら迷惑な話かもしれないが、朝霧修にはその根本が伝わっていない。真面目すぎるのか、単に女の子の気持ちがわかっていないのか、あるいはその両方。

 話を聞く限り、一応責任能力はあるようだ。


「……気の毒ですね。小坂さんはあなたのタイプには見えませんけど、付き合った事実が気の毒で仕方ないです」

「これくらいの弊害どうってことないんだよ。経歴に傷が付こうとも、世論がそれを埋めてくれる。でも同性同士は、今の日本社会じゃ厳しいよね。実にくだらないよ。僕には関係ないことだけど」

「望月さんに対する気持ちは好意ではないと?」

「あはははは、好意じゃないよ」


 ゴンドラの扉がガシャンと開いた。


 ――気をつけてくださいね、望月さん。


 僕は――僕の『正常』を『異常』のまま行う彼を。誰かが気づいて中途半端に傷付ける前に、僕が奪ってあげるんだ。僕なら壊せる。僕なら奪える。

 。それが彼の正義なら、僕はそれを壊したい。


 優等生朝霧修は、確かにそう言っていたのだ。

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